第4編 行  政 戦 前 (3)

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                 第1章第2章  第3章下湧別時代   第5章戦後の下湧別村  第6章湧別町時代  第7章開基百年の盛典

第4章 苦難の戦争体験
 (1) 戦争と兵役
  (2) 銃後体制
  (3) 防空と戦闘体制
  (4) 戦没者の慰霊
  (5) 悪夢の機雷事故
  (6) 生産および物資の統制
  (7) 敗戦と終戦
第4章苦難の戦争体験 

(1)戦争と兵役
兵役義務  軍国主義の芽は、日清戦争(明27〜38,対清国=現中華人民共和国)と日露戦争(明37〜38,対ロシア=現ソビエト連邦共和国)における一応の勝利にあった。
 そして、第一次世界大戦(大3〜7,対ドイツ)における戦勝で、世界の軍事列強国に名を連ね、「五大強国」(日本、イギリス、フランス、イタリア、アメリカ)を自負するに至って、軍国主義は大戦から昭和年代初期の不況期にもかかわらず、着々と軍備増強を図り、特に農村壮丁は富国強兵の第一要因として位置づけされたのであった。


 軍国主義推進に不可欠の軍備は軍隊づくりからはじまるが、わが国では明治6年に「徴兵令」が布告され、男子国民は兵役に服する義務が課せられ、納税、教育と並んで国民の三大義務とされた。 しかし、未開拓の北海道には適用されず、屯田兵制度の展開もあったから、北見国に徴兵令が施行されたのは、明治31年1月のことであった。
 兵役は徴兵検査(数え年21歳)で甲種合格すると、2ヵ年の現役入隊があり、「祝入営」の幟と万歳の声に送られて入営し、満期除隊すると予備役(7ヵ年)に編入され、在郷軍人として有事に備え、その後は後備役、国民兵として60歳まで義務があった。 また乙種合格以下で現役入隊しない者も、補充兵、国民兵として60歳までの義務があった。 ところが、

 官僚、高等教育を受けたる者、多額の金員を拠出したる者、及び戸主は免除・・・・・・・

という特例があったから、農山漁村の青年に対する徴兵令は否応なしに高くならざるを得なかった。 古老の話によれば、

 兵事は常備兵力として兵員定数がおさえられていたから、「クジのがれ」といって、甲種合格者でも合格者間で抽選を行い、入営者を決めたものだった。

ということもあったが、本町の昭和年代の壮丁は、遠軽まで出向いて徴兵検査を受けたのである。

 しかし、日華事変が勃発すると検査基準を下げて増兵されるようになり、太平洋戦争(大東亜戦争)の戦局が悪化した昭和18年12月には、徴兵年齢を一年繰り下げて満19歳とするいっぽう、国民兵を65歳まで延長し、翌19年10月には、徴兵年齢がさらに一年繰り下げられて満18歳となった。
 また、かっての兵役免除特例も消され、大学などに在学中の学生の卒業までの猶予も、昭和18年6月25日の「額と戦時動員体制確立要綱」により撤廃され、逆に卒業を6ヶ月早めた繰り上げ卒業制となり、いわゆる学徒出陣へと変転した。 本町の兵事資料については、戦後の処分などで散逸し、残念ながら全容を知ることはできない。
 軍人精神の典範とされたものは、明治15年に出された「軍人に賜りたる勅諭」(略して「軍人勅諭」)で、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にぞある」にはじまる長文は、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と天皇の絶対統帥権を謳い、軍人は天皇に対し絶対服従することを第一義とされ、軍人たる者の本文を示す五ヵ条で結ばれていた。 五ヵ条とは次の徳目であるが、とにかく長文の暗誦は兵士にとって苦痛であったという。
1,軍人は忠節を尽すを本分とすべし
1,軍人は礼儀を正しくすべし
1,軍人は武勇を尊ふへし
1,軍人は信義を重んすへし
1,軍人は質素を旨とすへし

在郷軍人分会  明治43年8月1日に陸軍省が「定刻在郷軍人会規約」を制定したことによって、各地に在郷軍人分会が発足し、本町では大正元年に下湧別分会が発足し、武野明が分会長に就任し、大正8年からは飯豊健吾が永く分会長を勤めたことは、広福寺の碑に刻まれているとおりである。
 分会員は、平時にあっては壮丁の予備教育、未教育補充兵の指導、入退営兵の歓送迎、射撃訓練、銃剣術の錬磨を日常とし、年に一度の奉公袋を携えての観閲点呼受閲や教育招集に西進し、青年訓練所や青年学校の教練指導にも当たっていた。 なお、分会活動を地域的に活発にするため、本町では大正9〜10年ころに分会の班編制を行う(例えば芭露=6班、上芭露=7班)とともに、射撃訓練のための射撃場を、芭露6号線(現茂手木一夫所有地内)に設置している。
 日華事変勃発後は、分会員の中から相次ぐ応召者を送りながらも銃後の要として、青年学校の教練指導(指導員)、防空演習の指導、応召遺家族援護、戦没者慰霊などに奔走したが、空しく終戦となり、釧路連帯区司令部の通達で一切を焼却して消滅することになって、昭和20年8月22日に下湧別分会旗を焼いて解散式を行った。 解散時の分会長は小沢虎一であったが、在郷軍人会が即戦力協力団体であったとして、歴代会長ともども公職追放処分の対象となった。

召集令状と
出征兵士
 別称 「赤紙」と呼んだ召集令状は、兵力増強のため現役兵以外の予備役在郷軍人を現役兵にするもので、日華事変勃発とともに、次々と本町にも発せられ、日華事変の拡大、されに太平洋戦争(大東亜戦争)突入とともに、容赦なく舞い込むようになり、「出征兵士」として多くの青壮年が村をあとにした。
 地区住民、村民がこぞって配給の酒で壮行会を行い、地区の鎮守や湧別神社(村社)に武運長久を祈願し、万歳と軍歌の浪に送られて駅頭を汽笛とともに征途についたのであるが、

 昭12・7・16 武運長久祈願祭
 昭12・7・28 校下在郷軍人に出征の動員下る
 昭12・8・2  児童臨時招集出征兵見送りのため3年生以上計呂地駅に赴く
                                                  <以上計呂地校沿革誌>
 昭13 この年東芭露区内に初めて応召あり、佐藤校長が出征した。 これをきっかけに応召の数が増加してきた。
 昭17 総てが戦争にかりたてられ、招集される者、日を追って増える。
 昭19 支那事変以来招集された者50余名に及んだ。
                                                  <以上東芭露校沿革誌>
 そのころ街頭に立って道行く女性に、また各戸に、ひと針ひと針千人針を結んでもらっている女の人の姿を随分沢山見かけた。 その姿はきっと日本女性の歴史に忘れられないものとなって残ることだろう。 戦争をつくり出す者への怒りの姿となって残るにちがいない。   <芭露80年の歩み>


などが、その一端を物語っている。 ちなみに当時の出征兵に村民が贈ったものに、餞別のほかに、代表的なものとして、次の3つがあった。

 寄せ書き  男の人たちが日の丸の旗に激励のことばや、武運を祈ることばを筆で書いて贈り、たすき掛けにした。
 千人針   女の人たちが白布や日本手ぬぐいに、赤糸で千個の結び目を綴って(一人一個ずつ)贈り、弾除けの腹巻きにした。
 のぼり    身の丈の倍もあるほどの白布の上の方に日の丸や軍旗が染め抜かれ、その下に筆太に「祝出征○○○○君」と大書          きし見送りに景気をつけた。
こうして、いつの日帰還するあてもなく、ただ一途に「天皇陛下のためならば、何の命が惜しかろう」と出征したあとの銃後は、一家の支柱や働き手を失い、村としても村勢の中堅となる人材を失い、戦争の悪化とともに深刻な様相を示すに至った。 そして、歯をくいしばって、わが子や夫が出征するわびしさをこらえる留守家族に対し、「軍国の父・母」 「軍国の妻」と讃えた見出しが新聞に書き立てられたのであった。

志願兵制度  兵役については一般徴兵制度のほかに、志願兵制度というのがあった。海軍は伝統的に志願兵制度をとっていたが、ほかにも徴兵年齢以前の少年たちには、 「陸軍少年航空兵」 「陸軍少年通信兵」 「海軍予科練習生」などの志願兵制度があって、紅顔の少年兵士が養成されていた。 本町の昭和15年の海軍志願兵の記録に、
 
 志願人員  三、 合格人員  一  (不採用)
というのがあるが、他は徴兵検査と同様に記録資料は見当たらない。
 昭和18年からは、戦局の悪化に伴う兵員補充のため、徴兵年齢の引き下げに併せて、志願兵制度の普及拡大が勧奨され、国民学校高等科卒業者や中等学校在学中の男子の応募が指導された。 されに学徒動員により 「海軍予備学生」 「陸軍特別操縦幹部候補生」などに大学生が狩り出されていったのである。

戦勝祝賀  日華事変勃発から太平洋戦争(大東亜戦争)初期にかけては、連日ラジオを通じ、新聞を通じて、華々しい皇軍(天皇の軍隊の意)の戦禍が報道されたが、特に敵国の主要都市が陥落したときの銃後国民の歓喜は、すさまじいまでの熱気を帯びたものとなり、戦勝祝賀式、戦捷督祝賀報告祭(神社にて)、旗行列などが村をあげて催されたのである。

 昭12・12・14 南京陥落奉祝式を挙行す、集合者男女青年三七名部落二十余名旗行列をなし後祝賀会を開催す<信部内校沿革誌>
 昭13・12・19 南京陥落祝賀旗行列<計呂地校沿革誌>
 昭13・5・22  徐州陥落祝賀旗行列<登栄床校沿革誌>
 昭13・7・7   支那事変一周年記念式<湧別校沿革誌>
 昭13・10・29 漢口陥落戦捷記念式<湧別校沿革誌>
 昭16・12・14 必勝祈願国民大会参加<湧別校沿革誌>
 昭17・2・18  シンガポール陥落報告式<湧別校沿革誌>
           シンガポール陥落祝賀式旗行列祝賀会<登栄床校沿革誌>
 昭17・12・8  大東亜戦争一周年前線将兵慰問の日<湧別校沿革誌>

こうした行事は、日の丸の小籏と 「愛国行進曲」の声高らかな放唱裡に行われたのである。

無言の凱旋  華々しい戦果の陰にも痛ましい犠牲があることは、戦争においては不可避のことであった。 それは、戦争が破壊と殺戮を手段とするものだからである。 しかも、戦局が悪化の一途をたどるようになると、戦死、戦病死といった戦歿者が日に日に続出し、本町の出征兵士からも多くの犠牲者を生ずるにいたった。
 「凱旋」とは勝ち戦の誇り高い兵士の晴れがましい帰還なのであるが、遺骨の送還を 「無言の凱旋」と表現したあたりに、いいようのない残念無念の意がこめられていた。 戦局のあきらかなうちは、白木の箱に遺骨が納められ、遺品なども添えて送還されていたが、戦局が混迷状態になると、次第に消息不明で連絡が途切れ、南太平洋方面での犠牲者の白木の箱には、一片の骨すら見られないようになった。 されには、戦後まで生死の消息が判明せず、戦死公報が発せられるまで、製缶を待ち続けた遺族もあった。 戦時中、わが夫、わが子の無言の凱旋を、必死に涙をこらえて耐えた妻や父母を 「靖国の妻」 「靖国の父・母」と讃え、美談化して糊塗していたが、支えを失った空しさは、終戦とともに例えようのないものになっていった。

 一億総進撃の大東亜戦争中は、六十戸の区住民の中に、六十名近い応召者があり、銃後に残った家族の労苦は、前線の勇士に劣らぬ苦難の明け暮れであった。 出征の夫や子息、兄弟を偲び、生活物資の窮乏に耐え、ひたすら勝利の日を祈った過ぎし日の苦しみは、私共の脳裏から消える日はない。
 きり深き夏の朝にも声もなく発ち征きし友よ遂に帰らず
不帰の客となられた地区出身者の霊に心より冥福を祈ります 。 <西芭露・佐藤信雄の回想>


こうして、空しく戦場に散華した英霊は、国においては靖国神社に祀られ、北海道においては護国神社に合祀され、村にいおては忠魂碑において慰霊された。
 また、たとえ戦歿しないまでも、不幸にして戦傷で傷痍軍人となって帰還した 「白衣の戦士」、終戦後、捕虜となって収容所や軍事裁判の厳しさに耐えた人々など、多くの傷痕が残されている。 本町出身の戦歿者英霊は、明治38年の日露戦争一柱、大正7年のシベリア出兵一柱を含めて195柱で、次の人々である。
殉公者氏名 身   分 年  月  日 死   亡   場   所
 伊藤 正 一   陸軍 兵 長   昭20・8・16   樺太古屯市街
小笠原  一  陸軍 上等兵  昭19・7・6  ニューギニア・サルミ
 大益 鉄 通  陸軍 少 佐  昭20・3・24  沖縄本島真壁
 岡島 金之助  陸軍 兵 長  昭18・5・29  アリューシャン群島アッツ島
 太田 政 一  陸軍 軍 曹  昭21・11・7  自宅
 兼田 仁太郎  陸軍 伍 長  昭20・2・10  ソロモン群島ボーゲンビル島
 管   正三郎  陸軍 伍 長  昭19・5・19  ニューギニアモロウカ洲ツクヂ島
 兼田 市太郎  陸軍 一等兵  昭19・12・1  上湧別町厚生病院
 木戸 正 義  陸軍 伍 長  昭19・7・31  南バシー海峡方面
 近藤 千代美  陸軍 軍 曹  昭21・1・28  関東第三陸軍病院
 境原 稔 行  陸軍 兵 長  昭20・5・4  沖縄本島小波津
 吉岡 政 雄  陸軍 兵 長  昭20・5・20  沖縄本島
 佐藤 貞一郎  陸軍 伍 長  昭20・8・1  比島ブツカン洲イボ
 竹中 正 美  陸軍 上等兵  昭16・4・17  満州国延去絲満州第八九○部隊
 蔦保 修 二  陸軍 伍 長  昭20・5・1  沖縄本島小波津
 野村 義 美  海軍 上等兵曹  昭19・6・14  小笠原諸島方面
 野沢 吉 雄  陸軍 一等兵  昭20・9・1  中華民国河南省區城県區城
 深沢 朝 市  陸軍 伍 長  昭20・5・4  沖縄本島小波津
 星   忠 助  陸軍 上等兵  昭14・10・22  大阪陸軍病院
 森田 徹 雄  陸軍 大 尉  昭17・9・14  ソロモン群島ガダルカナル
 吉川 秀 治  陸軍 中 尉  昭14・7・1  中華民国河南省泌陽県季封北方
 横山 国 茂  陸軍 兵 長  昭20・3・24  東支那海
 和田  瑞  陸軍 中 尉  昭20・5・5  沖縄本島前田
 飯坂 信 一  海軍 兵 長  昭19・8・2  テニアン島
 岩佐  一  海軍 兵 長  昭19・8・2  テニアン島
 伊藤  茂  陸軍 伍 長  昭19・7・19  サイパン島
 大淵 重義  陸軍 上等兵  昭20・3・17  硫黄島
 大橋 健 二  陸軍 上等兵  昭20・3・17  硫黄島
 岡本 喜九郎  陸軍 一等兵曹  昭19・7・23  グアム島
 兼平 昌 一  陸軍 二等兵曹  昭20・5・10  比島パタアン半島
 国松  闌  陸軍 一等兵曹  昭20・4・24  比島クラーク地区
寒河江 才 一  陸軍 上等兵  昭19・7・4  小笠原諸島方面
 田沢 留 吉  軍属  昭19・3・2  ラバウル
 田中 稲 臣  海軍 兵曹長  昭18・2・11  ソロモン群島方面
 根本 安 浦  海軍 三等兵曹  昭17・9・5  ニューギニア方面
 早川 昇 一  海軍 上等兵曹  昭19・8・2  テニアン島
 佐藤 銀 治  陸軍 上等兵  昭20・4・2  ニューギニアモロッカ島
 三上  穆  陸軍 兵 長  昭18・1・18  ソロモン群島ガダルカナル島マララツ
 茂木 末 蔵  陸軍 上等兵  昭20・9・20  中国四平省
 井籐 広 武  陸軍 曹 長  昭18・8・20  上湧別町久美愛病院
 大前  清  陸軍 上等兵  昭18・1・13  ニューギニアギルク西10q
 鍵谷  巌  陸軍 中 尉  昭19・7・18  南方方面
 田中 保 雄  陸軍 伍 長  昭20・6・20  沖縄本島新垣
 福田 勝 義  陸軍 二等兵  昭20・8・16  沖縄
 吉村 正 一  陸軍 伍 長  昭20・8・16  樺太古屯
 佐野  巌  海軍軍属  昭20・5・1  比島マニラ東方山中
 高木 正 幸  海軍 上等兵  昭18・1・13  南洋群島方面
 田中 一 男  海軍 上等兵  昭19・7・8  サイパン島
 岩間 裕 二  陸軍 上等兵  昭15・5・15  中国山西省陽城県陽城野戦病院
 兼田 福 松  海軍 上等兵  昭18・11・4  群馬県前橋
 草薙 良 一  陸軍 兵 長  昭19・7・18  南方方面
 斉藤 要 作  陸軍 伍 長  昭20・1・18  支那方面
 佐藤 清 治  陸軍 兵 長  昭20・4・30  沖縄本島西原村
 高橋 松太郎  陸軍 曹 長  昭20・6・29  中国広西省藤県蒙江濾
 森山 次 郎  陸軍 兵 長  昭20・5・18  北支内部
 幾島 昌 雄  海軍軍属  昭20・4・10  南方群島トラック島
 大崎 一 正  海軍 上等兵  昭20・3・17  硫黄島
 沖崎 昭 一  海軍 兵 長  昭20・3・17  硫黄島
 関野 国 夫  海軍 兵 長  昭20・4・22  比島マニラ湾ネグロス島
 湊谷 盤 二  海軍 上等兵  昭20・5・27  日本海
 伊藤  晃  陸軍 曹 長  昭14・8・30  ソ満国境ノモンハン
 大柳 武 徳  陸軍 伍 長  昭17・12・25  中国山東省青島青島陸軍病院
 鈴木  清  陸軍 兵 長  昭13・7・16  中国江蘇省無錫
 高久 秋 男  陸軍 兵 長  昭20・4・24  旭川陸軍病院
 藤本 忠 雄  陸軍 上等兵  昭17・11・16  パラオ島東南
 増田 正 雄  海軍 上等兵  昭19・6・29  モルツカ諸島方面
 山下 正 雄  海軍 曹 長  昭21・5・20  沖縄本島運王森
 吉本 清 治  海軍 伍 長  昭20・8・18  北千島占守島
一ノ口 定 明  海軍軍属  昭19・9・26  北太平洋方面
 小川 浅 雄  海軍 兵 長  昭20・3・17  硫黄島
 増田 熊 雄  陸軍 曹 長  昭20・6・20  沖縄本島国吉
 小野 嘉次郎  陸軍 准 尉  昭20・6・28  中国河南省方城県北方5q付近
 加藤 光 之  陸軍 一等兵  昭20・4・30  自宅
 賢持 勇五郎  陸軍 伍 長  昭20・6・25  沖縄本島新垣
 松橋 太吉郎  陸軍 上等兵  昭15・4・28  北支河北省第27師団第2野戦病院
 花本 留 吉  陸軍 上等兵  昭18・3・6  上湧別町久美愛病院
 多田 保 夫  海軍 兵 長  昭19・2・17  南洋群島方面
 岩佐 政 男  陸軍 兵 長  昭20・5・4  沖縄本島小波津
 亀田 健次郎  海軍 一等兵  昭20・2・25  比島コレヒドール島
 青柳 勘次郎  陸軍 兵 長  昭12・1・4  ソ連イルクック洲タイシェト収容所
 伊藤 兵 治  陸軍 兵 長  昭18・11・22  ソロモン群島ガダルカナル島
 小野 一 行  陸軍 兵 長  昭20・6・20  沖縄本島
佐々木  正  陸軍 上等兵  昭18・5・29  アッツ島
 野口  勇  陸軍 兵 長  昭20・5・4  沖縄本島大名
 山田 幸 夫  海軍 上等兵  昭20・7・14  函館湾口方面
 八木 五 郎  陸軍 兵 長  昭19・7・28  ニューギニアヤマウスデス
 後藤  猛  海軍 上等兵  昭20・4・24  比島クラークピナツポ山西北
 小縄 義 弘  海軍 上等兵  昭19・6・1  中部太平洋方面
 金塚 信 二  陸軍 一等兵  昭19・9・25  中支那
 山本  博  陸軍 中 尉  昭20・5・8  沖縄本島
城ノ内 盛 雄  陸軍 二等兵  昭22・2・16  山梨県北都子郡振岡村宮の沢
 佐藤 英 渡  陸軍 上等兵  昭22・3・20  スマトラ島東海岸タンジョバンバレー
 長崎 正 春  陸軍 一等兵  昭21・10・18  簾舞第2療養所
 細田 友 雄  陸軍 伍 長  昭21・5・17  中国江蘇省上海第158兵站病院
 林   辛 嗣  陸軍 上等兵  昭19・7・12  北支那
 神野 守 圀  陸軍 一等兵  昭20・8・21  満州国国黒河省
 天野 長 市  陸軍 兵 長  昭20・4・30  沖縄本島尻郡
 石本 徳 一  陸軍 兵 長  昭21・5・4  沖縄本島小波津
 石田 定 雄  陸軍 兵 長  昭20・6・10  ルソン島
 伊藤 政 美  陸軍 兵 長  昭20・6・18  ルソン島
 大崎 忠 市  陸軍 上等兵  昭20・4・26  満州方面
 折野 善 兼  陸軍 上等兵  昭20・7・28  ルソン島マニラ東方80qフアミ付近
 小野 富 雄  陸軍 伍 長  昭20・6・20  沖縄本島小波津
 菅野 清 助  陸軍 伍 長  昭18・1・21  ソロモン群島ガダルカナル島タナファロング
 工藤  豊  陸軍 伍 長  昭20・6・15  沖縄本島八重岳
 工藤 勇 夫  陸軍 一等兵  昭18・5・17  ビスマルク群島北方洋上
 庄司 喜代太  陸軍 伍 長  昭20・5・1  沖縄本島絡長
 関戸  清  陸軍 曹 長  昭20・7・25  ルソン島
 田宮  賢  陸軍 伍 長  昭20・6・20  沖縄本島新垣
 直原 芳 春  陸軍 兵 長  昭20・6・17  沖縄本島与座
 西坂 仁 男  陸軍 兵 長  昭19・1・16  山東省泰安県第77師団野戦病院
 橋本 末 男  陸軍 兵 長  昭21・3・12  シベリヤルブンカ病院
 武藤 国 治  陸軍 一等兵  昭18・11・1  上湧別町久美愛病院
 脇山 春 次  陸軍 伍 長  昭17・9・14  ソロモン群島ガダルカナル島飛行場
 林   重 信   陸軍 伍 長  昭22・9・27  旭川国立病院
 今野 繁 好  海軍軍属  昭20・3・17  硫黄島
 長野 義 光  海軍 上等兵  昭19・6・6  南支那海
長谷川 栄 吉  海軍 二等兵曹  昭20・2・23  小笠原諸島方面
 木村 武 雄  陸軍 准 尉  昭12・8・19  中国四方省昌平県
 岡本 由 一  陸軍 兵 長  昭19・10・1  山東省城武県曹口
 遠藤  正  海軍 兵 長  昭19・6・29  モロッカ諸島近海
 坂井 喜代彦  陸軍 兵 長  昭19・10・20  中支陸軍病院
 黒滝 三 男  海軍 二等兵曹  昭19・7・8  マリアナ諸島方面
 小倉 義 雄  陸軍 上等兵  昭14・11・14  満州国吉林省屯河
 小林 農夫也  海軍 上等兵  昭19・10・4  ジャバカ方面
 福地  清  海軍 上等兵  昭20・3・17  硫黄島
 福原 昭 二  海軍 水兵長  昭20・2・18  トラック島
 横山 一 郎  陸軍 兵 長  昭20・5・20  沖縄本島新垣
 阿部 源次郎  陸軍 一等兵  昭16・6・22  旭川陸軍病院
 上田 正 範  陸軍 伍 長  昭20・4・10  沖縄本島西原
 加茂 敏 寛  陸軍 軍 曹  昭20・9・11  中国第157兵站病院
 熊野 増 雄  陸軍 兵 長  昭18・7・1  旭川陸軍病院
 福永  勤  陸軍 准 尉  昭17・10・23  ガダルカナル島タサファロング
佐々木 哲 平  陸軍 兵 長  昭16・9・11  中国河南省温恢
 田中 久 之  陸軍 上等兵  昭17・10・28  ソロモン群島ガダルカナル島タサファロング
 高嶋 正 一  陸軍 上等兵  昭17・10・23  ソロモン群島ガダルカナル島マタニウ河口左岸
 真鍋  彰  陸軍 中 尉  昭16・12・17  宇都宮陸軍病院臨時分院
 藤原 健 作  陸軍 伍 長  昭20・6・28  沖縄
 落合 正 則  海軍 兵曹長  昭20・1・3  ナンポロ沖
 山口 登喜夫  海軍 上等兵曹  昭20・4・17  比島方面
 石川 文 雄  陸軍 兵 長  昭20・4・30  アリューシャン群島アッツ島
 越智 正 之  陸軍 伍 長  昭20・4・30  比島ルソン島クラーク西方
 大沢 久 雄  陸軍 兵 長  昭20・7・20  ミンダナオ島ナバカン西北16q
 後藤  好  陸軍 伍 長  昭20・8・16  満州羅子満東南40q
 後藤 三 郎  陸軍 一等兵  昭20・5・22  北見市赤十字病院
 田村 末 雄  陸軍 上等兵  昭17・8・22  京都陸軍病院
 長屋 繁 夫  陸軍 兵 長  昭20・1・28  南洋方面カロリン諸島タンヨン島
 長屋 利 正  陸軍 兵 長  昭20・4・29  沖縄本島
 仁瓶 姫 三  陸軍 上等兵  昭20・4・20  神奈川県相武堂陸軍病院
 仁瓶 正 三  陸軍 伍 長  昭22・12・26  ウラジオ地区アルチョン第6号坑内
 小田 正 孝  陸軍 伍 長  昭20・5・4  中国河南省内郷県豆腐店
 長屋 作 由  陸軍 兵 長  昭20・11・13  中国湖北省武昌県第128兵站
 中岡 二 一  陸軍 上等兵  昭20・7・23  シャムナコンバトリ
 長屋 正 三  陸軍 伍 長  昭20・4・20  セブ島セブ市ポンク
 峰田 武 雄  陸軍 上等兵  昭20・1・23  ニューギニアサルミ
 村井  要  陸軍 少 尉  昭20・3・14  大阪府中河内郡大正村大字一本樟本神社境内
 佐藤  好  海軍 二等兵曹  昭19・12・31  菲島イバ沖4浬付近
 浅井 辰 蔵  海軍 上等兵  昭24・4・5  自宅
大久保  大  陸軍 伍 長  昭20・1・20  マライ
 雨宮 清 光  陸軍 兵 長  昭20・7・25  沖縄本島八重瀬岳
 今井 秀 作  陸軍 兵 長  昭20・5・4  沖縄本島小波津
 大石 国 蔵  陸軍 伍 長  昭20・4・3  沖縄本島新垣
 鏡   五 郎  陸軍 兵 長  昭20・5・10  沖縄本島道玉
 多田 謹 信  陸軍 伍 長  昭20・3・17  比島レイテ島
 福永 秋 雄  陸軍 上等兵  昭15・10・24  北支
 深沢 円 蔵  陸軍 上等兵  昭19・8・30  ニューギニアサルミ
 宮内 義 雄  陸軍 伍 長  昭20・8・10  満州牡丹江省牡丹江
 森谷 正 夫   陸軍 伍 長  昭17・9・13  ソロモン群島ガダルカナル島飛行場南側地区
 森谷 幸 雄  陸軍 伍 長  昭19・7・18  南方方面
 山根 吉 春  陸軍 一等兵  昭20・6・21  宗谷郡稚内市字ウエヌイ国有地内
 中山 安 雄  海軍 上等兵  昭19・8・2  テニアン島
 畑田  修  海軍 上等兵  昭19・6・1  中部太平洋方面
 図子 義 明  陸軍 上等兵  昭12・9・21  支那
 斉藤 次 郎  海軍 上等兵  昭19・2・17  南洋群島方面
 飯坂 徳 治  陸軍 伍 長  昭19・6・1  ニューギニアニアビヤク島
 岡山 久太郎  陸軍 上等兵  大7・8・30  シベリア(アバカイト)
 越田 栄 由  陸軍 一等兵  昭16・1・2  上湧別町久美愛病院
 篠森  孝  陸軍 伍 長  昭13・10・3  上海市共同租界海関第11号碼頭桟橋
 岡野 良 雄  陸軍 伍 長  昭18・1・9  ガダルカナル島ママラ川下流
 関戸 広 志  陸軍 上等兵  昭19・2・24  ニューギニヤサルミ
 浪江 正 二  陸軍 伍 長  昭13・8・2  旭川陸軍病院
 中林 富 雄  陸軍 伍 長  昭17・12・6  ガダルカナル島タサアアロング
 細谷 信 一  陸軍 兵 長  昭17・5・29  アリューシャン群島アッツ島
 洞口 利 勝  陸軍 兵 長  昭19・8・25  遠軽病院
 宮下 松 夫  陸軍 伍 長  昭21・11・28  ソ連イルクック州イルクック病院第1収容所
 稲毛 実 治  陸軍 上等兵  昭14・8・20  ソ満国境ノモンハン
 稲毛 正 生  海軍 兵 長  昭19・5・11  テニアン北方海上
 林   春太郎  海軍 上等兵  昭 20・4・24  フイリッピン
 前田 藤 平  海軍 兵 長  昭19・2・18  南洋群島方面
 尾張 重 高  海軍 二等兵曹  昭19・2・21  南洋方面
沼久内 正 雄  陸軍 兵 長  昭19・10・26  ルソン島
 中川 正一郎  陸軍 伍 長  昭19・10・10  鹿児島陸軍病院
 塩見 為 吉  陸軍 伍 長  明38・2・24  清国馬群丹
 清川  誠  海軍 兵曹長  昭20・5・1  北海道南方海面
 越智  登  陸軍 上等兵  昭14・8・30  ノモンハン

 
(2)銃後体制
国民精神総動員  日華事変勃発翌月の昭和12年8月に 「国民精神総動員要綱」が示され、役場や産業組合に 「国民精神総動員」 「挙国一致」 「尽忠報国」などのスローガンの幕が垂れるようになった。 そして戦争長期化が必至となった同14年からは、本格的な行政の柱に据えられ、戦時行政は、これを基本として推進することとなった。

 昭14・4・1  国民精神総動員新展開の基本方針策定
     物心一如の精神を培養し、生産力拡充、物資動員、物価調整、物資活用、消費節約、貯蓄増強、勤労増進、体力向上、銃後後援を推進する。
  昭14・4・28 時局認識徹底方策策定(物資活用並びに消費節約の基本方針)
     空閉地及び荒廃地の活用、生産刷新新運動、死蔵品活用、廃品回収、政府への金製品献納を推進する。


というのが基本概要であるが、本町では 「時局重大なる為地区住民の集合を求め神社参拝」 <昭12・8・8=信部内小学校沿革誌>にはじまり、湧別小学校沿革誌に、次の記録が残存している。

  昭12・10・13 国民精神総動員強調週間実施
   昭12・11・10 国民精神作興週間実施
   昭13・ 2・11 第二回国民精神総動員協調週間実施
   昭13・ 4・ 3 国民精神総動員精神作興大会
   昭13・ 5・17 国民精神総動員健康週間実施
   昭13・ 6・21 国民精神総動員貯蓄強調週間実施
   昭13・ 8・ 1 国民精神総動員勤労作業週間実施
   昭13・ 8・22 国民精神総動員経済戦強調週間実施
   昭13・10・ 5 国民精神総動員銃後後援強調週間実施
   昭13・11・ 7 国民精神総動員作興週間実施
   昭14・ 2・ 5 国民精神総動員日本精神発揚週間実施
   昭14・ 4・12 国民精神総動員大講演会
   昭14・10・ 3 国民精神総動員銃後後援強化週間実施


   
国民貯蓄奨励運動  国民精神総動員の中から、とりわけて昭和13年4月に本格的展開をはじめたものに、国民貯蓄運動があった。 これは長期戦に備えた膨大な軍需をまかなうための資金に、国民の貯金を振り向けようというもので、主な施策は次のようであった。

 昭14・ 4・29 昭和14年度北海道国民貯蓄奨励方策実施
      道民一人当り年額30円を目標とし、組合貯蓄、愛国公債消化で達成する。
 昭14・6・15〜21 全国百億円貯蓄強調週間
 昭14・ 9・ 6 町村貯蓄奨励委員の設置
      町村は50名内外を設置することが規定され、急速設置町村に 「下湧別村」の記録が残っている。
 昭14・12・1〜31 経済戦協調運動月間

以後、ほぼ似たことが毎年繰り返されたが、昭和15年の本町の貯金高は次のようであった。
区  分 貯金口数 貯金額(円) 一口当り(銭)
貯金先
 郵便局 52.354 285.669 5円46
 産業組合 1.413 384.300 271円97
53.767 669.969 12円46
  右表で郵便貯金の口数が多くて、一口当りの 金額が少ないのは、小学校児童、男女青年団、 各種婦人会、町内会などで行われた貯蓄行為  が、幾重にも輻輳したもので、毎月10銭、20銭 ぐらいを積み立てていたことを物語っている。

  また、 「愛国公債」は、地域ごとに割当消化が 半ば強制され、ほかにも 「国防献金」という寄  付が陸海軍に納められていたが、これらのことはすべて愛国心の発露として成果が評価されたので、各町村、各区が実績を競ったものである。

戦時スローガン  戦時中は、本町といわず全国津々浦々にスローガンが溢れ、それのポスターや垂れ幕や標示が、役場、学校、産業組合などの公共施設に掲げられ、演説や訓辞のなかにも用いられたものである。 「新東亜建設」 「大東亜共栄圏建設」 「八紘一宇」 「肇国の理想実現」など戦争目的を抽象したものにはじまり、

 「聖旨奉載」 「聖寿の無窮」 「江大無辺の皇恩」 「万邦無比の国体」 「尽忠報国」 「義勇奉公」 「国賊宣揚」 「赤誠報国」 「万民翼賛」 「挙国邁進」 「一億一心」 「堅忍持久」 「滅私奉公」
など皇国の大義をアピールしたもの、さらに戦線の拡大から戦局の悪化と進む中では、
 「一億火の玉」 「一死報国」 「聖戦完遂」 「撃ちてしやまん」 「鬼畜米英」 「一億玉砕」 「神洲不滅」 「一人一殺」
など、狂信的な表現で国民の士気を鼓舞したのであった。 そして、もっと印象的だったのが 「欲しがりません勝つまでは」の耐乏生活の標語であったが、やがて 「欲しがりません・・・・」の国民の決意が、あきらかに風化したころ、敗戦の兆候は決定的になった。

国民儀礼  平時にあっては四大節(四方拝=1月1日、紀元節=2月11日、天長節=4月29日、明治節=11月3日)には、学校で儀式があり、児童以外にも村長以下有志や青年団員らが参加して、国家奉唱、御真影奉拝、教育勅語奉読、式辞、式歌奉唱などが行われ、天皇崇拝と日本精神作興を強調していた。
ところが日華事変がはじまると、四大節のほかに 「陸軍記念日」(3月10日=日露戦争で奉天を占領し入城した日)と 「海軍記念日」(5月27日=同戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を撃破した日)が、行事日として加わり、国旗掲揚と国家奉唱、宮城(皇居)遙拝、訓辞、万歳三唱が国民儀礼として行われるようになった。
 昭和14年からは毎月1日が 「興亜奉公日」に、同17年1月からは毎月8日が 「大詔奉職日」と定められ、次のような行事が学校や職場で行われるようになった。

□ 興亜奉公日
   将兵の労苦をしのび、自粛自戒し、一意奉公の誠の源泉とするための日で、宮城遙拝、神社参拝(武運長久祈願)、英霊に対する黙祷、遺家族及び傷痍軍人の慰問、慰問文の一戸一通発想などが行われ、飲酒喫煙の抑制、宴会遊行の自制を励行した。

□ 大詔奉載日
   「宣戦の大詔」をかみしめ、聖戦必勝の決意を昂揚し、挙国一致の団結を促進するための日で、国民儀礼の他に、宣戦の大詔 「天佑を保有し万世一系の皇統を踏める大日本帝国天皇は・・・・・」の奉読が行われた。

銃後後援会  昭和12年日華事変勃発とともに、政府や道庁の行政指導もあって、軍事援護事業の一元化を図るため、銃後後援会組織が各町村に実現し、本町でも住民一丸で、村長を会長とする 「下湧別村銃後後援会」が発足した。 各地区ごとに班を置き、応召兵留守家族及び遺家族の保護慰問、軍事扶助法に該当しない生活困窮者の扶助などを行った。
 また、慰問袋の発送も銃後後援会を通じて積極的に行われたが、後援会活動の具体実践は、主として在郷軍人と大日本国防婦人会員が動員されていた。

銃後奉公会  昭和14年1月長期戦の様相が決定的となったため、銃後体制の強化を目的として、政府は銃後奉公会の結成を通牒し、道庁も同年3月29日に 「銃後奉公会設置に関する通牒」を発して4月1日発足を指示するとともに、準則を明示した。 これにより本町では銃後後援会を改組して、 「下湧別村銃後奉公会」の発足となったが、準則にもとづいた奉公会規則は次のようであった。

      下湧別村銃後奉公会規則(抜粋)
 第三条 本会は国民皆兵の本義と隣保相扶の精神とに基き挙郷一致兵役義務服行の準備を整ふると共に軍事援護の完璧を図り益々義勇奉公の
       精神を振作し国民精神総動員運動の実践を期するを以て目的とす
 第四条 本会は村に居住する世帯主を以て組織す
 第五条 本会は第三条の目的を達成するため・・・・関係団体と緊密なる連絡を保ち左の事業を行ふ
    五 現役並に応召軍人の遺族、家族の援護
    六 傷痍軍人並に其の遺族、家族の援護
    七 現役並に応召軍人及傷痍軍人の遺族、家族の慰問慰藉、弔慰又は労力奉仕其の他家業の援助
    八 現役並に応召軍人及傷痍軍人の慰問慰藉
    九 戦傷病死軍人に対する慰霊弔祭
   十二 軍事援護事業の連絡統制
 第七条 会長は村長の職に在る者を副会長上席書記の職に在る者を推す
       評議員は左の者(省略)に付き会長之を委嘱す
 第十条 本会に実行班を設く実行班の区域は別に之を定む
 第十一条 実行班に班長、副班長各一名並に世話係若干名を置き会長之を委嘱す


 つまり、挙村総動員による銃後後援体制を従軍兵士の戦闘と表裏一体化させたのである。 こうして発足した奉公会の実績資料は乏しいが、昭和14年の道内の慰問袋発送について、人口85人に一個の割合で3回(5月、9月、2月)の町村割当を果たしている。 なお、昭和15年の村予算歳出臨時部に 「戦時費1,320円」とあるのは、ここから奉公会活動の経費が支出されたものと思われる。 これに符合する資料として、昭和17年に村から従軍兵士へ宛てた次の激励の手紙がある。

 謹啓  余寒未だ去らずオホーツク海に真白き流氷来襲と水銀計急降下の日も珍しくありませんが、こんな時等特に東亜の最前線で炎熱或は酷寒に打耐え苦難を拝して滅私死線を乗越え御活躍を続けらるゝ親愛なる郷士出身将兵諸君の御動静が案ぜらるゝ次第ですが如何ですか、謹んで・・・・・
 未曾有の大戦下に於て敵機一機の襲撃も受けず安らかに斯く職城奉公の出来得るのも皆、天皇陛下の御稜威の下皇軍将兵の必死報国の至試溢るゝ御奮闘の腸で、日々の新聞やラジオのニュースで赫々たる大戦果を伝え聞き村民一同大なる御労苦に対し衷心感謝しております。 日頃郷土の近況逐一御報知申し上げて御慰問の一端にもと思ひながらも・・・・武運長久なかれと常に村民と共に神仏に祈願を続けつゝあります・・・・・
 今や米英敵性国家をして容易に再起不能たらしむ大戦果を収めつありとは申し乍ら世界の持てる大強国として自任し居る米英のことなれば此の戦果を以て真に屈服するものとは思はれず、従って長期戦たることは必至であり・・・・故に村民一同は益々諸君の御敢闘に期待すると共に一層決意を新にし打って一丸となり諸君の辛労を心として・・・・・一意職城奉公に努力して居ります。
 次に御留守中の御家族には・・・・頗る健在で軍人の家族として諸君に劣らぬ気魄を以て銃後の御奉公に活躍されて居りますから何卒御安心下さい。 尚ほ今後共及ばず乍らも一層御世話申上げ些かの不安なきを期する所存でありますから御懸念なく・・・・先は近況の一端を申し上げ旁々諸君の武運長久を祈念し御慰問に換える次第であります。
  昭和17年2月16日
                                                    下湧別村村長   森垣 幸一
                                                    <札幌・佐藤熊夫所蔵>


 
国民徴用令  昭和14年7月15日 「国民徴用令」が布告され、9月13日施行と友に、町村役場に国民徴用事務係員の設置が通達された。 これは、従軍しない者の労力を軍需産業や重点産業(造材、炭鉱など)に徴用する事を目的としたもので、いいかえれば 「職業招集」であって、応召者が増え、青壮年労働力が日一日と減少し、食糧増産や鉱工業生産にかげりを生じた事から施行されたものである。
 これにより割当を指令された町村からは、 「勤労報国隊」が結成されて出動したのであるが、戦局が悪化するにつれて、

 昭18・9・22 「女子挺身隊令」で二十五歳未満の未婚女子の動員決定
  昭19・2・10 「国民登録制」を拡大し、男子12〜60歳、女子12〜14歳を徴用の対象とする
  昭19・3・29 中学生の勤労動員大網決定

と徴用の枠が拡大された。 本町でも、

 昭18 軍事産業のため工場建設等に徴用される者続出。 又冬山造材に、松葉油採集に一般人徴用されるところとなる<東芭露>
 昭20 3月農業会が針葉油の採集に村民の協力を求む<上芭露>
  昭20・4・14 高等科1,2年男子志撫子へ出動、2週間針葉油採集<湧別校沿革誌>
  昭20・6・6  高等科男子志撫子へ出動、20日間針葉油採集<湧別校沿革誌>

の記録があるが、松葉油(針葉油)は、航空機燃料の不足を補う代用燃料で、ハッカの名産地である北見地方にはハッカ蒸留釜があったから、特に奨励されたものと思われる。 松葉油について押野健一は、

 湧別国民学校高等科に在学中のとき、志撫子に松葉油の作業に行った。 2クラスの男子が志撫子の造材飯場に合宿しての作業だった。先生から「飛行機の燃料にするのだ、お国のためだ頑張ってくれ」といわれたが、どうして松葉でガソリンがとふしぎに思ったものである。 あとでわかったが、ハッカのかまで作るのだという。私たちの作業はナタで枝を切って集めて、たばねる仕事だったが、飯場での生活は2人で1組のふとん、女子青年3〜4名で炊事してくれる大豆飯やでんぷんの団子といった調子で、子供なりにつらかった。
と回想している。 また、戦後の事だが、灯油のない時代に、
 
 ホタテの貝殻をさらにして、松葉油を注ぎ、羽織の紐を芯にして明かりにしたが、すすがひどいうえ、すぐ燃えてしまった。
という、いい伝えも残されている。

紀元2600年  昭和15年は神武天皇が全国を閉廷して、大和(奈良)の橿原で天皇に即位し、建国の第一歩を踏み出してから26世紀、 「輝く大日本帝国紀元2600年」の年として、全国が慶祝一色に塗りつぶされた。

 戦功のあったものに下賜される「金鵄勲章(功1〜7級)」は、神武東征の際、金の鳶が天皇の弓の先端にとまり、さん然と光り輝くまぶしさで敵を圧倒して平定を果たした。
という、由来があり、当時、戦局は進攻進撃が快調に国民に報道されていたから、26世紀の佳節を遊行に「聖戦完遂」 「一億一心」に利用したもので、皇居前では各界代表を集めて、天皇の臨御のもと、盛大な「紀元2600年記念式典」が挙行され、各道府県単位、町村単位、区単位でも厳粛に記念式が挙行された。 本町でも、

 昭15・11・10 紀元二千六百年奉祝式典
 昭15  紀元2600年に因み神社にて記念式を挙行する<上芭露>
 昭15  紀元二千六百年記念式挙行<志撫子>
 昭15・10 皇紀二千六百年記念二宮尊徳像建立<西芭露>

の記録がとどめられており、学校や神社前で地区ごとに行われたことがうかがえる。
 ところで、この2600年という数は、現在の紀元年より多いが、これは、戦前戦時中を通じて用いられた日本独自の暦年で、神武天皇から今上天皇にいたる万世一系の皇統(天皇家の系譜)を 「皇紀」として数えたもので、現在流にいえば1940年ということになる。
 終戦時、天皇中心の日本歴史の見直しが行われた結果、不条理が指摘されて、それまでの紀元暦年は廃止され、当時「西暦」と呼んでいた現在の暦年を用いるようになったが、その暦年差は660年である。

 
翼賛壮年団  大政翼賛会が翼賛政治確立のため、傘下団体として 「翼賛壮年団」(略称「翼壮」)の結成を企図したのは昭和16年のことで、その目的は、応召で歯の抜けた壮年層を結集して、高度国防国家体制を推進するための中核体に据えようという点にあった。 昭和16年8月に内務大臣を団長として中央における結成が行われ、翌17年1月18日には北海道翼賛壮年団が発足し、引きつづき各支庁を単位とする地域翼賛壮年団、そして市町村を単位とする市町村翼賛壮年団の結成をみて、中央〜支庁総括支部〜町村支部の体系ができあがった。
 翼壮の活動は国防体制強化の緒方策への協力ということで、軍需生産増強への勤労報国隊活動、食糧増産への援護活動、国民思想の強化と防諜活動、統制経済下の経済事犯防止、銃後援護活動と幅広いもので、団員は政治的思想的な活動の経験のない人物が、翼賛会の示す基準によって厳選された。 本町においては、

 昭和17年3月に40有余名の団員をもって発足し、3年数ヶ月にわたり課せられた使命に挺身し、支庁管内においても、もっとも優秀な団として認められていた。 特に登栄床分団が全分団員で勤労報国隊を結成し、室蘭の軍需工場に出動したときは、全道から集まった報国隊の中で抜群の成績を上げ、全道に下湧別団の名を馳せ、その美談はいまも語りぐさとして残っている。<土井重喜談>
 上芭露においては6名が入団を許可されて、下湧別村団長たる土井重喜の指揮下に参じた。年1〜2回上湧別村の翼壮と合同で、湧別国民学校を会場に、白襦袢に袴、白鉢巻き姿で集合し、 「みそぎ錬成会」を催すなど、不屈の精神を養う鍛錬がなされた。<上芭露70年史>


 昭和18年5月14日 村翼壮主催生産従事者並に軍人遺家族に国策徹底等戦争士気昂揚を図るため慰安映画会開催せり、入場者160余名<信部内小学校沿革誌>
 
 などの活動のあとがみられたが、昭和20年6月に政府が戦局の急迫に対処して、本土決戦体制をしくにおよんで、 「国民義勇兵役法」が布告され、 「国民義勇戦闘隊」が編成されることになり、昭和20年7月7日に湧別神社前において、翼壮の解散式が行われた。

 団長は一貫して土井重喜が任じ(網走地区翼壮団長重任)たが、戦後、GHQ(連合国軍総司令部)から即戦協力団体の指定を受け、公職追放の対象となった。 土井重喜の回想を聞こう。

 戦争の終結にあたり、われわれまでが戦争犯罪人扱いを受けたことは、いささか過大審判のように思うが、悔いるところはない。 公職追放解除後は、戦後の民主主義による平和国家建設を推進してゆくには、われわれがいつまでも主導性を持つべきでないと信じ、これを貫いて今日にいたった。そのため、その後、社会のために何の貢献もできなかったことを申しわけなく思っている。


援農受け入れ
  国民徴用令とは別に、農山村の耕作や造林作業に 「援農」と称する出動があった。
 農家の労力不足を補うもので、近隣都市部や村内市街地からの出動もあったが、もっとも戦時色を反映したのは、学生、生徒の出動であった。 
 男女中等学校生徒や大学生の出動が行政処置として示達されたもので、男子学生生徒は長期間農家に分宿したり、学校に合宿したりする例が少なくなかった。
 本町でも、全村的な資料は見当たらないが、

 昭18
   山形県村上農学校生徒14名が援農に来る<志撫子>
 昭19
   静岡より援農入る<志撫子>
   静岡県、山形県などの学徒援農生が当地にも入来<東芭露>
 昭20
   網走中学校生徒援農に入る<志撫子>


 などの記録に、その当時がしのばれる。
いっぽう、昭和18年に 「教育に関する戦時非常借置方策」が発表されると、国民学校高学年(特に高等科)に対する「勤労動員の年間3分の1実施」が課され、それが援農という形で当てこまれるようになった。

 春から秋にかけて小学生も農家の重要な働き手であった。 先生に引率されて、出征兵士の留守宅へ援農に出かけたことを、いまでも時々思い出す。 小学校高学年でも一人前に働いたものだ。弁当やおやつの時間に援農先で出してくれたイモや南瓜の味はいまも忘れていない。<東芭露>

がその一端を物語っている。
 これらの援農受け入れのため、当時の役場や農業会の係員は、雪解けから霜がおりるまで、種々の手当に忙殺されたものである。
 戦後35年を経た昭和55年に、かって芭露に援農に来ていた静岡県引佐中学校生徒でいまは枢要な社会人に成長した面々が、懐旧の情をいだいて芭露の地を訪れ、

 すっかり酪農化して変貌した農村の様態、機械化され大型化した営農事情に目をみはりながらも、かって自分が足跡をしるしたあたりの畑に立ち、あるいは、いまは古老となった老夫妻と回想を交し、鼻ったれの国民学校っ児だったいまの一家の主と35年の推移を語り・・・・いまわしい戦争の中に体験した思い出にふけった。

という後日譚もある。

(3)防空と戦闘体制
防空体制  第一次世界大戦で、初めて航空機が実践に登場して世界の注目を集めて以来、各国の軍備充実に占める航空機の研究は著しいものがあり、日華事変の先制攻撃は東支那海を超えて空襲する「渡洋爆撃」で行われる時代にまで発達した。
 このため、軍部は「制空権を握るものが勝利を制する」という基本戦略をたて、銃後に対しても敵機の羅異種に備えるよう指示した。
 特に太平洋戦争(大東亜戦争)突入後は、 「持てる国アメリカ」を意識して、防空体制が厳しく点検されるようになった。 防空体制の主な次項を掲げると次のようである。

(1)対空監視硝
 敵機の飛来をいち早く察知し監視するもので、本町では連絡容易な範囲内に適当な高地がないため、上湧別村の監視硝と密接つな連絡を取るとともに、役場前に監視硝を建て、在郷軍人、警防団員、青年学校生徒が当番制で配置に付いていた。 これに関する予算借置として、昭和15年の村歳出臨時部に「防空費600円」の記録が残っている。

(2)灯火管制
 夜間の灯火が空襲の目標になることを防ぐため、街灯など不急不要の灯火は消灯または撤去するとともに、家庭や公共施設の事務室及び事業体の事務所では、電灯やランプに黒布をおおい、窓や出入り口の採光部に暗幕(遮光布)をカーテン状に備えるというもので、 「警報発令」とともに戸外は暗闇の世界と化したのである。

(3)防空壕
 空襲を受けたときの避難場所として、防空壕を学校、職場、各戸に設けるよう指示され、壕内には非常食糧、救急薬品、貴重品などを保全するよう指導され、避難訓練が行われた。

(4)防火演習
 空襲による火災発生は 「焼夷弾」という爆弾の出現で避けられない現実となったため、隣保班組織ごとに警防団の指導で防火演習が行われた。 婦女子による編成訓練で、バケツリレー(水)による消火、屋根への梯登り、ぬれむしろなどによる消火などが定期的に訓練された。

(5)血液型表示と防空頭巾
 空襲による負傷者への緊急輸血のための借置として、児童のはてまで血液型の表示布を衣服に付するほか、いまのヘルメットに相当する厚い綿入れの防空頭巾の携行が指導された。

(6)警報伝達
 空襲を告げる警報には 「警戒警報」と 「空襲警報」の二種類があり、これの伝達は隣保班や職場に伝達当番(責任者)を置き、ラジオや電話連絡に基づいて警報の発令と解除を、メガホンで大声で触れ回ったのである。 昭和15年当時、町内に230戸のラジオ保有戸数があったが、そのラジオは貴重な存在として、大いに活用されたものである。

当時の防空訓練などの模様を学校沿革誌や経験者の談話からひろってみると、断片的ではあるが、次のようである。

 昭14・ 5・13 防空演習参加、避難訓練実施
  昭14・10・ 2 防空演習参加、避難訓練実施
  昭15・ 9・10 防空演習参加、避難訓練実施
  昭17・10・23 学校長防空団結成に出席
        <以上湧別国民学校>
  昭18・ 4・ 5 警戒警報発令さる
  昭18・ 4・25 防空演習をなす
  昭20・ 5・ 2 防空壕掘りに青年団来校
  昭20・ 6・22 沖縄敵に帰す、警戒警報しばしばあり
  昭20・ 7・ 4 防空頭巾の検査をなす
  昭20・ 7・30 防空演習
        <以上登栄床国民学校>
  各戸に防空壕掘りがふれられたが、私の家では掘らないうちに終戦となった。 しかし、湧別校では校庭の周囲に掘って木枠に板張りして土を盛った防空壕が作られていたし、避難訓練もやった。<押野健一談>


また、東芭露小学校の同窓生は、
 
 「敵機来襲、空襲警報発令、避難開始」これらの言葉を今の子供達は知っているだろうか。 知っていたとしても、それはテレビドラマの上の知識であり、娯楽の一部でしかない。 しかし、当時の小学生にとって、それは生活の一部であり、直接生命にかかわることとして入学と同時に、頭と身体にたたき込まれた言葉である。 警報の出されるたびに外に飛び出し、木の陰にかくれたり、防空壕に逃げ込んだり、演習とはいえ真剣なものであった。

としみじみ述懐しているが、幸いにも本町は、昭和20年7月14〜15日のアメリカ第三艦隊高速空母部隊艦載機の全道空襲に際して、網走、斜里、小清水、清里、美幌、女満別などが襲撃されたにもかかわらず、難をまぬがれた。

 なお、これは仮説の想定になるが、もしも明治31年の 「サロマ湖軍港計画あり」<東開基85年史=古老談>が実現していたら、あるいは本町が筆舌に尽くしがたい激しい空襲にさらされていたことであろう。

 
北見青年国防総動員  太平洋戦争(大東亜戦争)突入とともに網走支庁管内26市町村の青年団は、 「北見青年国防総動員運動」に組み込まれることになった。 これは管内がかって屯田兵によって開拓されて日露戦争に備えた体制にならって、青年を屯田兵団化したものであった。

 ・第一屯田兵団  斜網地区
   海に面した網走、常呂、斜里の各町村は舟艇訓練、山村の東藻琴、上斜里、小清水は騎馬訓練とした。
 ・第二屯田兵団  
   美幌、女満別、津別の3町村は、女満別の海軍飛行場の除雪作業に協力し、滑空訓練をする。
 ・第三屯田兵団
   (北見)、留辺蘂、端野、相内、訓子府、置戸のアック市町村は、トラックと森林鉄道のあるところから、
   車両機甲訓練を主とした。
 ・第四屯田兵団
   遠軽、生田原、佐呂間、上湧別、下湧別の各町村は乗馬訓練を主として、一朝有事のときには後方連絡要務に当たる。
 ・第五屯田兵団
   紋別町を中心に、紋別郡以北の各町村が加わり、舟艇訓練を主とした。

 この運動の資金は、それぞれの単位団の負担と市町村の援助でまかなわれ、指導は釧路連隊区司令部の将校と各市町村の在郷軍人分会幹部に委嘱するものであった。 しかし、兵団幹部の特別訓練や年に一度の兵団訓練大会には、多額の資金を要することから、 「名入れ南瓜」運動を企画した。
 名入れ南瓜とは、管内3万人の団員が、南瓜を1山に3粒播く運動で、結実したときに単位団名と氏名を刻み込むと、収穫時には文字が淡白色に盛り上がり、みごとな名入れ南瓜に成長する。 これを食糧配給制度下に放出したから飛ぶような売れ行きだった。 1人が3個を売り、1個分を支庁の兵団本部に、他は各兵団、単位団の資金にしたという。
 本町の青年団は第四屯田兵団と第五屯田兵団に2分して配属され、後日、登栄床には海洋訓練本部が置かれた。 登栄床国民学校沿革誌に次の記録がある。

 昭19・5・17 網走青年屯田集団海洋訓練本部として指定さる
  昭19・8・13〜17 海洋訓練指導者錬成会


 
沿岸特設警備隊  太平洋戦争(大東亜戦争)の戦局が日ましに悪化し不利となった昭和18年8月、アメリカ軍の日本本土上陸に備え、水際での撃滅作戦のため,オホーツク沿岸警備を任務とする沿岸特設警備隊が編成された。
 正式には 「熊第二二八五部隊」に属し、一個中隊編成で中隊幹部は湧別国民学校に本部を置いて常駐した。 隊員は本町と上湧別の在郷軍人あわせて200〜250名で編成され、未教育者は旭川の陸軍第七師団へ教育招集され、2ヶ月間の訓練後に警備隊に復帰した。 「タコ壺」と称する穴を掘って対戦車攻撃に備えたり、年3回ぐらい湧別国民学校を兵舎として1週間程度の実戦さながらの演習が行われたもので、1週間の演習を終わって家に帰っても、連日の緊張と訓練の疲労で、すぐには農作業が手に付かなかったという。 しかし、実効をみぬまま終戦とともに解消された。 ちなみに幹部の編成をみると、

  中  隊  長  陸軍中尉  飯野 哲三
  副     官  陸軍曹長  武田 小七
  副     官  陸軍曹長  室井幸一郎
  副     官  陸軍伍長  清水 清一
  第一小隊長  陸軍軍曹  渡辺 満雄
  第二小隊長  陸軍軍曹  築部 勇吉
  第三小隊長  陸軍軍曹  上条 三郎
  第四小隊長  陸軍軍曹  柳橋勲一郎

と、開拓当時の屯田兵を思わせるものであった。 また、この警備隊には、緊急の際に陸軍第七師団から部隊が派遣され合流することになっていたという。押野健一は国民学校時代の思い出として、次のように語っている。

 校庭のまわりに沿岸特別警備隊のタコ壺がいくつも掘られていた。 演習が行われるときは、学校を休みにして教室をあけ、隊員の宿舎に供したものだった。 当時、あちこちに掘られたタコ壺のうち、東2線道路側の海岸線(現牧野)のものは、いまでも、その跡がたくさん見られる。

 
「暁部隊」駐留  志撫子開基70周年史に 「昭和19年11月あかつき部隊千島よりくる」の記録がある。 当時のこととて軍事機密に属したので詳細は不明であるが、多田直光ら古老の談を総合すると、およそ次のようであった。

 千島に派遣されていた陸軍の船舶部隊の一部が、千島から撤退して一時駐留(あるいは避難)していたものらしく、約17隻70名の部隊であった。 昭和19年の7月末に擬装して志撫子の湖岸に接岸したもので、隊員は湖岸にテントを張って(いまでいえばキャンプ風)野営し、日中は志撫子国民学校宇良で6反歩ほどの野菜作りをしていた。 11月に去ったが、当時の通過列車は窓を遮閉して車内からそれが見えないようにして去っていった。

軍用機献納
 太平洋戦争(大東亜戦争)が敗色を示しはじめると、日本軍は圧倒的なアメリカ空軍に押されて、本土上空の制空権さえも制圧されるほど空軍力が弱体化しつつあった。 それほど軍用機の消耗と製造力減退が激しかったわけであるが、何よりも航空機の資材であるジェラルミンの乏しさが製造力減退に大きく影響していたことから、木造機製造が研究され、陸軍では江別の王子製紙工場を木製機製造工場に転換させたほどである。
 こうした時の動きを反映して、一般国民からの軍用機献納運動が盛んになり、本町でも住民からの募金で 「下湧別村号」の献納を果たしているが、当時の記録として、

 昭和18年緊迫せる戦時下下湧別村号軍用飛行機の献納のため苦しいくらしの中、寄付を行い戦争遂行のための一翼を担った。<信部内>
 昭18 飛行機献納金として六百二十三円寄付<志撫子>
 昭19 軍用機下湧別号献納応募=地区割当金8,500円<上芭露>

が残っており、陸軍に献納されている。 また下湧別村号に先だつ昭和12年には、ホタテ漁民が寄付して軍用機(通称「漁組号」)を海軍省に献納し、時局がら一大美挙として大いに賞揚されたものである。
 軍用機献納とは別に、軍の指導(圧力)で軍用機部品製作工場設立の議が起こり、配線の色濃い中で 「北見航空」(遠軽)建設のため、管内町村に呼びかけて半強制的に出資取りまとめを行ったことがあり、本町でも役場が窓口となり町内会部落会を通じて真剣に奔走したのである。 しかし、政策の緒についたところで終戦となり、戦後この工場は北見総合木材に変身(のちの大火で消失)・・・・聖戦完遂の雄図は空しく幻と化したのである。

国民義勇隊  昭和19年8月1日政府は 「一億総武装」を閣議決定して布達したが、これは、極度の戦局悪化からアメリカ軍の本土上陸必至と読んだ本土決戦借置の前兆であって、在郷軍人や青年団員および青年学校生徒を核とする予備軍体制をめざしたものであった。 本町では、すでに在郷軍人による沿岸特別警備隊があったが、同年10月に青年層による 「青少年総武装突撃大会」が催されている。
 一億総決起総武装の総仕上げは、昭和20年6月23日の 「国民義勇兵役法」の公布で、在郷軍人、翼賛壮年団、大日本婦人会、大日本青少年団を統合して 「国民義勇隊」(15〜60歳)を編成し、明確に本土決戦を決意させるものであった。 本町でも7月1日を期して、村長を隊長とする 「下湧別国民義勇隊」の結成が行われ、地区単位の戦闘隊編成が進められた。 登栄床国民学校沿革誌に次の記録がある。

 昭29・7・ 1 地区の国民義勇隊結成式が校庭で行はれた
  昭20・8・12 登栄床地区国民義勇隊戦闘隊結成式


しかし、8月15日あえなく終戦となって、なんらの実効をみぬまま解消されたが、実効のなかったのが、せめてもの幸いであったといえよう。
 参考までに、布陣や武器のない青年たちは、どんな戦技訓練をしたのかを要約すると、竹槍による刺殺訓練、木刀による撲殺訓練、はては空手突きなどの訓練が、わら人形を相手に行われ、 「エイッ」 「ヤッ」という黄色い声がとんだという。 つまり 「一人一殺」 「差しちがえ」戦法の精神的徹底だったのである。

   
非戦闘員の待避計画   昭和20年7月初めに釧路連隊区の厳しい秘密指令で、戦闘力のない老人や子供および婦女の待避準備が通達された。 この指令は国民義勇隊の戦闘と表裏するもので、足手まといになることを回避する借置であった。 本町でも村長と兵事係主任など、ごく少人数で策定され、村民の動揺を防ぐため極秘にしているうちに終戦となった。 のちに風聞したところでは、待避地は 「社名渕の奥」が計画されていたという。

(4)戦没者の慰霊
村   葬 戦勝祝賀行事とは悲喜背反する戦没者の慰霊行事は、村長が主催し村民こぞって参列する絶対のものであり、単に慰霊にとどまらず、敵愾心を発揚し、聖戦完遂の決意を新にすることにつながっていた。
 日華事変から太平洋戦争(大東亜戦争)初期にかけては、戦没者の無言の凱旋も少なく、終戦までの戦没者193名中25名にとどまっており、いっぽうで戦勝祝賀にわいていたから、戦没者遺家族や近親者以外には、沈痛な悲嘆が、少なくとも表面上はみられなかった。 それは敵弾に 「天皇陛下万歳」を叫んで散華するという戦死の美化が、精神教育でたたき込まれていたからといえよう。
 しかし、太平洋戦争(大東亜戦争)が進展、そして悪化する過程で、いやおうなしに戦没者は累増し、相次ぐ無言の凱旋をみるにおよんで、痛々しくも空しい敗戦への道程が次第に浮き彫りにされ、 「撃ちてしやまん」の大和魂とは裏腹に、いっぽうで重苦しい悲壮感が村民に伝播したのであった。 村では、これら英霊に対して村葬(公葬)をもって武功を讃え、冥福を祈ったのである。
 村葬のしきたりは、遠く 「明治38年5月20日村葬執行児童一同参列」<湧別小学校日誌>とあるように、日露戦争に発している。 日華事変以降では、

 本村出身故陸軍歩兵准尉木村武雄君は旭川歩兵第二十七連隊入営再役をなし満州守備隊として軍務に従事中北支事変に際し奈良部隊に属し出征8月19日松樹辺奥付近の戦闘に於て勇奮活躍中遂に敵弾の為め名誉の戦死を遂げられ、之が村葬を9月21日湧別小学校に於いて仏式を以て執行せり、事務報告>

が昭和12年に執行され、之が戦没者村葬の第一回となっている。 村葬は在郷軍人分会、銃後奉公会、国防婦人会、青年団など村内各種団体も協賛して、盛大に執行されたが、戦争祝賀の景気の良い行進曲とはうって変わって沈痛な 「海ゆかば」の楽曲が胸を打ち、読経の韻がこもり、弔辞の一言一句が寥々と耳にひびくのであった。 数多い英霊の村葬執行の全容は不詳であるが、次の記録が散見される。

 昭13・8・26 故浪江伍長の村葬、区葬<計呂地校沿革誌>
 昭16 村葬執行、田中久之、阿部源次郎の両勇士<上芭露校沿革誌>
 昭18・9・30 アッツ島で玉砕した後藤大尉以下七柱の村葬<湧別校沿革誌>(注・英霊名簿は3名で後藤大尉なし)

しかし、数多い英霊の中には村葬がなされなかった例もある。 それは、戦後の21年10月に公葬が禁止されたからで、以後、戦没が確認され無言の帰還をした英霊の無念を、村葬で弔うことが出来なかったのである。

忠魂碑と招魂祭 大正7年に国際情勢が悪化してシベリア出兵、山東半島出兵など局地紛争があり、在郷軍人の使命が高揚されたのにかんがみ、同11年摂政宮(今上天皇)の本道巡行記念事業として、在郷軍人分会が湧別神社境内に忠魂碑を建立し、塩見為吉(明38戦死)、岡山久太郎(大7戦病死)の霊を祀り、以来、毎年6月15日に招魂祭が行われ、以後の村内戦没者を合祀している。

地域の忠魂碑と
招魂祭
村一円の忠魂碑のほかに、地域で建立した忠魂碑あるいは忠霊塔が3つあって、地域住民の英霊に対する尊崇の念がこめられている。

□計呂地の忠魂碑
 大正8年9月に在郷軍人分会計呂地班が4号線の元計呂地神社境内に木造の忠魂碑を建立、いっぽう大正13年10月に13号線神社境内に、氏子によって忠魂碑が建立されたが、祭祀に不都合を生ずることもあったので、在郷軍人分会班が主体となって統合を図り、昭和5年4月計呂地尋常小学校敷地内に新に建立した。
 昭和18年10月大沢重太郎の寄贈により石碑にかわり、翌19年の地区内三神社の合祀に伴い、同20年新しい計呂地神社に移転し、8月15日を招魂祭としている。

□志撫子の忠魂碑
 昭和15年に福永秋雄が戦死したのを機に忠魂碑建立の声が高まり、翌16年に馬頭尊敷地内(現桜ヶ岡公園)に木造の碑が建立された。 以後、一度建て直しもしたが、ぜひ石碑をという声が強く、同45年の地区総会で区費3万円を特志寄付をもって石碑にすることが決まり、 「志撫子忠魂碑再建委員会」が設立され、同46年8月16日完成し除幕入魂式が行われた。 招魂祭は8月16日である。

□上芭露の忠魂碑
 昭和17年7月に上芭露出身の 「支那事変・大東亜戦争皇軍勇士に感謝を捧ぐ」と銘して、水野一重(傷痍軍人・勲八等)が寄進した忠霊塔 「殉国之霊碑」が、報国寺境内に建立された。 昭和23年6曙町漁業権津からは 「芭露地区殉公遺族後援会」に移管され、毎年6月15日に慰霊祭(追悼祭)が営まれてきたが、昭和31年から町費で招魂祭が営まれるようになって、芭露方面一帯の英霊87柱を合祀するようになった。

 
殉公慰霊の推移  戦没者の遺骨の帰還に際して、村葬をもって弔慰したことは前述したが、毎年開かれる招魂祭(湧別神社境内の忠魂碑)も、村葬と同様な主催、協賛の形で行われてきた。
 ところが、村をあげての招魂慰霊の儀も、昭和21年を最後に中断のやむなきにいたった。 それは、昭和21年10月にGHQが、公的機関による宗教儀式の一切を厳禁したためである。 このため本町の招魂慰霊の祭礼は、戦時中の銃後奉公会が戦後になって 「遺族後援会」へ衣がえしたが、その遺族後援会が主体となり、町内、地域有志の協力を得て、控えめに継続されていた。
 しかし、昭和26年9月に文部次官通達で 「戦没者の葬祭などについて」が出され、民間団体などが公然と司祭することが認められ、同年10月遺族後援会主催の町内合同慰霊祭が、湧別中学校屋内運動場で、盛大に執行された。
 次いで翌27年講和条約発効を迎え、5月2日に政府による全国戦没者追悼式が新宿御苑で行われてからは、再び町をあげての招魂慰霊の儀となり、同31年からは芭露地区の招魂祭も町費で執行されるようになり、毎年、湧別の忠魂碑と上芭露の忠霊塔前で行われている。

(5)悪夢の機雷事故
浮遊機雷発見 機雷は会場に敷設する爆発装置で、陸上でいえば地雷に相当するものであった。 交戦国が、お互いに自国沿海に敷設して敵艦艇の侵入を警戒するとともに、敵国艦船の行動半径に敷設して、艦艇の作戦行動の制限ないしは損耗を図り、併せて輸送船舶の束縛と損耗による兵員、兵器輸送力の減退と敵国の経済封鎖をねらったのである。
 直接に本町方面の沿岸水域に敷設された機雷はなかったと思われるが,オホーツク海面のひろがる範囲には、当時の軍事情勢から、わが国およびアメリカ、ソビエト連邦の機雷敷設が想像されるところである。
 機雷は、あるいは線状に連鎖されたり、あるいは機雷原といわれるように面状に連鎖されたりして繋留敷設されるのであるが、時として繋留索が切れて危険な浮遊機雷となることがある。 機雷は艦船などの接触で起爆するが、浮遊機雷は岩礁や巨大浮遊物などの接触でも起爆するから、当時は沿岸住民や船舶に注意を警告していたのである。
 昭和17年に、その浮遊機雷2個が本町海岸に漂着したのである。 4月ごろから浮遊機雷らしいものが見えるという噂があり、5月下旬になってワッカ海岸とポント海岸に漂着発見されたもので、戦慄感が住民の脳裡を走ったのである。

爆破作業と惨事 浮遊機雷漂着の報を受けた遠軽警察署では、これを安全な場所に引き揚げ、爆破処理する計画をたて、5月26日正午ポント浜において爆破作業を実施することとし、一般に通報した。 一般への通報は、もちろん危険防止の配慮によるものであったが、戦時中ゆえに戦時教育の手段として、機雷の威力の恐ろしさを認識させるために見学(公開)の途を開いたものであった。
 
 爆破準備は、爆破現場を中心に半径1,000bの範囲を危険区域と志撫子、周囲に警戒線を設けて赤旗で標示し、2個の機雷を50bぐらい離して配置する作業が、下湧別警防団の手で行われ、前日までに一切を完了した。

 爆破当日は遠軽警察署長指揮のもと、下湧別村警防団が総動員され、午前9時に浜にただ一軒点在する番屋に集結した第一分団は、ただちに現地に赴き第二、第三分団と合流して作業に着手したが、最初の作業は、

(1) 見学の効果を高めるため、2個の機雷の爆破に時間差を設ける。
(2) 先に爆破したとき、その爆風で50b間隔の他の一個に誘導爆破の恐れがある。

ため、波打ち際にあった1個を、砂陵の向う側に移動させる作業であった。 17名の警防団員が綱をかけ、綱を曳く者、押す者で、ようやく丘陵を超え路上に達した時、大音響とともに機雷が爆発し、一瞬にして作業員と見学者合わせて106名の死者と、多くの重軽傷を出し、開村以来空前の大惨事となった。

 
大惨事の誘因  惨事の原因については、危険物に対する警察署など当局責任者の科学的専門知識の浅薄さと、爆破公開による見学を認めた計画の疎漏による人為的なものと総括されたが、そのあたりを諸資料から抜粋しよう。

 この惨事は、危険物に対する専門的知識のない千葉遠軽警察署長の指揮により移動させ、さらに見学者近づけさせた無謀にして浅はかさは誠に遺憾といわざるを得ない。 <芭露80年の歩み>

 爆破実施の報道は学校、隣組組織等を通じてあまねく知らされ、当日は臨時列車も運行されて見学者の便宜が計られ、各地から小学生を始め多数の人々が押し寄せて市街は祭りのような混雑、快晴の好天気に人の心も浮かれてか、重箱に酒を携える者もあり、続々と現地に足を運び、芭露方面から入った見学者を合わせ爆発時には、3,400人ほどが到着していたと云われる。 <湧別町史>

 ・・・・・近隣町村の警防団から見学、参観の問い合わせがあり、警察署の行事として、これを全面的に認めたのである。 爆破当日は朝から快晴、例年になく気温も上がって真夏の如き日和であった。 下湧別市街から一里離れた所、漁場の番屋が一軒あるだけ。
 警察官、警防団員、青年学校生徒、一般見学者約1,000名、湧別国民学校生徒も列をなして現場に向かっていたと言われる。<東開基85年史>

こうした、陸続する見学者の模様から、もし爆発時刻が、もう10分遅かったら、災害は計り知れないほど拡大したであろうと、当時をしのぶ人々は語っている。

痛ましい犠牲  惨事は見学に赴く人々によって直ちに伝えられ、役場を中心に救護対策が迅速に行われ、負傷者の救出は現地に医師が派遣されて応急手当が施された後、上湧別厚生病院に収容、死者の遺体収容所は劇場とされたが、運び込まれる遺体が次々に増加したため、湧別小学校裁縫室や寺院にも収容した。 救出後重傷のため死亡した6名を加えて、被害者は、次表のように多くを数えた。
区  分 死    者 負  傷  者
区  分
村  内 82 80
村  外 30 32
112 112
  凄惨な現場の状況は、
 
  みじんに破砕されて痕跡をとどめない者、砂まみれになって飛散 する五体の断  片(遺族によって識別され死体として収容)、死者、 負傷者が累積して無惨をき   わめ、丘陵を覆う浜茄子は鮮血と肉片 で色どられて、りつ然たるもので、上芭露  、床丹青年学校生徒の  中にも多数の被害者があった。
                        <湧別町史>
  一瞬機雷が爆発し、大音響は原野や山林に反響し、湧別市街の窓ガラスも響きでこわれた位という。 特に5月26日午前11時26分。 煙が立ち去ったあとの現場には直径10b、深さ3bの大穴があき、50b四方には死傷者2百数十名が折り重なって、これらの悲鳴とうめき声でさながら地獄の絵図を現出した。 死者百六名の中には、一度に3名の犠牲者を出した東在住の海谷家の悲惨な姿もあった。<東の古老談>


と伝えられている。
 この痛ましい犠牲に対して、戦時立法の 「戦時災害救助法」が適用されたが、これは北海道では最初の同法適用であった。 羅災者および遺族に対しては遺族給与金、生活扶助金、応急医療費、埋葬費などが支給され、警防団員には警防団給与金が併給されたほか、各地からの義捐金も配布された。
 なお、殉職警防団員の遺族援護及び追悼については、町長の尽力により、戦後35年を経て道が開かれたが、これについては福士編で詳述する。

合同慰霊祭

 昭和17年6月5日に悲惨な余韻が漂う爆発現場跡で、しめやかに死者の冥福を祈る合同慰霊祭が執行された。 村内外から多数の参列者があったが、その中に、北海道庁長官戸塚九一郎、泉北海道警察部長、釧路検事局検事正、札幌鉄道局長代理、網走支庁長らの列席のあったことが、時局がら事の重大さを物語っていた。














殉難者慰霊碑  機雷爆発事故発生の翌年に、警防団員40名を含めた村内犠牲者82名の霊を弔うため、村費をもって発生現場ポントに 「殉難者慰霊碑」が建立され、厳粛に一周年追悼祭が営まれた。 碑には、 次のように刻まれている。

 昭和17年5月26日午前11時30分突如一大轟音凄まじく爆破作業中の浮遊機雷爆発し瞬時にして百6名の生霊を奪ふ凄惨の状筆舌に尽くし難し
         昭和18年5月16日

昭和25年に碑の立地事情を視察した大口村長は、碑柵が波浪で倒壊して荒んでおり、管理も行き届かず、碑も早晩倒壊しそうなことを憂慮して、湧別神社境内への移転を戦没者遺族会長の千葉敏に勧奨した。 意を受けた千葉敏は百方奔走して移転費用10余万円の寄付を募り、翌26年6月に消防団の協力によって移転を実現した。
 
 移転に際しては解体の供養も行われ、跡地には木標を建てて受難の地を標示したと云われているが、現在は波浪に洗われて、海浜には当時の惨状をしのばせるハマナスの群れも姿を消し、地形の変容とともに痕跡をとどめなくなり、町有牧野として夏は牛の放牧の光景に変わっている。

 町では、移転した受難者慰霊碑の前で、毎年6月15日に、招魂祭にあわせて慰霊祭を行っている。







機雷殉難緒霊之塔 芭露では機雷爆破事故の翌々日の5月28日午前10時から、芭露国民学校において、犠牲となった警防団員と見学者ら13名の合同葬を営み、翌29日には上芭露で、警防団員と見学の青年学校生徒の犠牲者22名の個人葬を営んだが、戦後復興とともに、そうした地域連帯の弔慰の伏線がよみがえって、昭和29年に上芭露の犠牲者を弔う 「機雷緒霊の塔」を報国寺境内に建立し、毎年招魂祭にあわせて供養するようになった。

昭和35年になって、加藤満が石塔資材を寄付したことから、従来の木塔に代えて 「機雷殉難緒霊之塔」を、上芭露消防分団の奉仕で建てることになり、2月26日に完成し、同時にテイネー以東の犠牲者44名(警察、警防団員、青年学校生徒、一般見学者)を合祀した。


















「汝はサロマ湖にて
   戦死せり」
 昭和55年4月に竜渓書舎から宇治芳雄の著になる 「汝はサロマ湖にて戦死せり」が発刊された。 A五版270頁の冊子で、その冒頭に、

 これは天災ではない、人災と呼ぶべきかどうかも迷う。 いずれにせよ、湧別の町の人達、いや、湧別だけではない、この付近の人達にとっては忘れ難い、ふって沸いた大事件がある。
 死者236名。 おそらく、この種の事件では前代未聞の大惨事であろう。 にもかかわらず、これまで、余り公にならなかった。 少なくとも、日本の事件史上から忘れられている。 当時の軍の報道管制によるものか、或いは、北の果ての寒村の出来事だったためか。 おそらく、そのいずれもの理由で歴史から消されてしまったのだろう。

と記し、 「オホーツク海からの贈り物」〜「署長の計画」〜「青い火花」〜「ハマナスとサーベル」〜「夫の目じるし」〜「慰霊碑はポント浜に向かって」など15章からなるノンフィクションが、凄惨な悲劇の始終を綴っている。

(6)生産及物資の統制
農業統制  日華事変の勃発は、急速に 「時局作物」という字句で象徴される米、麦、えん麦、大豆、馬鈴薯、玉葱、亜麻、ビートの増産を助長し促進した。
 昭和15年4月農林省は 「重要農林水産物増産計画」を発表し、地方長官に対して生産の基準数量と増産数量を示達したので、道庁では同年10月に 「戦時農業生産拡充計画」を樹立して、市町村ごとの目標を布達した。同時に、それらの計画達成の推進体制として、昭和15年に農会法の改正が行われ、農会を末端推進機関の座に据え、翌16年さらに改正農会法に基づく、 「農業移動統制規則」を制定して、 「労働力の不足を補う農機具、畜力の共同利用」を指令したのをはじめ、逐次生産計画、供出割当など農業生産の総ての事項が、農会を通して規制される事になった。

 昭和16年2月には勅令で 「臨時農地管理令」がこうふされて、不急不要作物の作付け制限と禁止、および重要作物の作付け命令が規定され、同年12月には道庁令 「農地作付統制規則」の制定によって、 「昭和15年9月1日以降に農林大臣指定作物(稲、麦、馬鈴薯、大豆)を作付けした農地には、当分の間同指定作物以外の作付けはできない」ことを柱とした作付統制が指示された。 さらに同じ12月に公布された勅令 「農業生産統制令」は、農会が地区内の農業者に対し 「作付統制、農作業調整、農機具および役畜に対する統制、離農統制を職権で行使できる」ことを規定し、その策定計画と結果を地方長官に報告することを義務づけた。
 生産統制と表裏する時局作物の集荷管理については、昭和17年から 「主要食糧の供出方式」が採用され、生産者に供出割当による完全供出が強制されるようになった。 挙国臨戦体制下とあって、いちおうの成果をみたが、実際面では一部に弱肉強食的な不公平があって、裸供出に泣く零細農家もあったという。 参考までに、昭和17年3月14日付北海タイムスの 「馬鈴薯の禁令出づ贈答でも規則違反」の記事を掲げよう。

 馬鈴薯は昨年8月公布の農林省令藷類配給統制規則並に同9月に道庁が発表した馬鈴薯配給統制要綱によって統制されて来たが配給は遺憾乍ら不円滑であり、反面需要は今後愈よ増大しつゝあるので道庁では供出促進と横流れ防止によって配給の円満を期さうと総動員法に基き13日付道庁令で馬鈴薯譲渡制限規則を公布即日実施したがこの規則により、従来はやゝ
大目にみられてゐたことが厳正な禁令の下におかれることになった。
 この場合の譲渡の意義は頏る広く売買いでも、贈答でも苟くも他人へ現物を渡すことは凡て禁ぜられたヾ生産者は日本甘藷馬鈴薯株式会社から委託を受けてゐる指定集荷人または産業組合に渡すことが認められるのみである。 更に本庁令は馬鈴薯五俵以上を持つ者は何人も皆3月10日現在における数量を所定様式により市町村長に対し届け出るべきことを規定している。


 次いで昭和19年3月には、北海道農業会が 「食糧の責任供出体制確立要綱」を決議し、生産計画の樹立と責任供出量の割当を市町村におろした。 以来、同要綱に基づく 「挙村精農運動」 「赤誠献殻運動」 「食糧増産突撃運動」といったスローガンによる営農を強制されることになった。

しかし、戦争が長びくにつれて農家の疲労は、目に見えて増大していた。 働き手の中心を戦場に送り、あるいは徴用されたあとの農作業は、子供や不慣れな援農者を励ましながらの高年者や主婦の背に重くのしかかり、肥料、農機具、農薬など営農資材の乏しい配給になやむ中で、供出達成に歯を喰いしばっていたのである。

漁業統制  日華事変勃発を機に漁業組合が、漁村のあらゆる機能を戦時体制に動員する末端帰還に位置づけされた点は、農業に於ける農会と軌を一にしている。 昭和13年以降組合は、もっぱら戦時食糧確保のため漁民に対する増獲奨励と。漁民からの漁民からの貯金吸収に奔走し昭和15年4月農林省が 「重要農林水産物増産計画」を発表して、地方長官に対して生産の基準数量と、増産数量を示達してからは、漁業動員はますます激しいものになった。

 しかし、中心となる労働力を戦場に送り、漁労力の不足になやみ、加えて漁業用資材は乏しい配給でやりくりはままならず、漁場は遠洋漁業が閉鎖され、沖合漁業も戦火の危険で放置するなど荒廃が進行して、再生産は不可避的に縮小と麻痺の途をたどらざるを得なかった。 一尾に漁業組合を経由しない闇資材購入や、闇価格による漁獲物販売がみられたという話もあるが、止むに止まれぬことだったという得よう。 ちなみに漁業用資材の配給統制の推移をみよう。

 昭13・5 石油販売取締規則(石油類)
 昭15・5 漁網配給統制規則(綿漁網、綿撚糸、マニラトワイン、マニラロープ、マニラ類、マニラ岩糸)
 昭15・7 北海道地方綿材製品統制要綱(綿材製品)
 昭15・9 農機具用ゴム製品配給統制規則(ゴム製品)
 昭16・2 故五ガロン缶配給統制規則
 昭16・11 移入藁工品需給統制規則(わら製品)


木材の需給統制  戦局の進展とともに、輸入材確保の道が次第に閉ざされ、太平洋戦争(大東亜戦争)突入とともに輸入材は絶望的となったが、ソ連より木材五千石(いかだ)入る<志撫子開基70周年史>
という珍しい記録が残っている。
 しかし、飛行機用材、艦船用材、建築用材として軍に納入するものを筆頭に、石炭増産のための抗木伐出などが、戦局の拡大とともに厳しく要求され、造林の手当もないままに、乱伐気味の増産が強行されたのである。 こうした軍需、重点産業本位の木材需給のため、民間需要を抑制し、それの供給を抑止する統制が行われ、流通機構も国策の大義名分のもとに整理されたのである。
 昭和14年9月に 「用材生産統制規則」 「用材規格規程」が制定されて、木材の規格と用途指定が行われ、翌15年10月には 「用材配給統制規則」の二つがあって、既成の林業および木材団体を指定した配給統制に一部着手し、同14年の 「価格停止令」、同15年の一般材、パルプ材および抗木の公定価格設定と相まって、規格、配給、価格の3本柱からなる統制体系が着実に進行した。
 そして昭和16年3月に、木材統制の総仕上げともいうべき 「木材統制法」が公布され、5月から施行された。 この法は、それまでの木材生産と取引の自由業を一切禁止し、道府県単位に生産機関と配給機関を、それぞれ一元化する挙に出たもので、それが日本木材株式会社(日木社)と地方木材株式会社(地木社)であった。 同法施行後一年間に限り、届出により個人営業が認められたものの、以後は日木社と地木社への企業合同が進んだ。

 北海道地方木材株式会社(地木社)は、昭和17年4月に、森林所有者、木材業者、大口需要者の出資で設立され、軍需商業組合を督励し、木材需給の円滑と価格の公正を推進したが、道庁令により 「道内で用材生産販売する者は、地木社のみを対象とする」ことが定められていた。 なお同庁令では、地木社の下部単位となる業者に対し許可制をとり、企業合同を行うよう指導されたので、木材小売業者はほとんど許可されなかった。
 昭和19年7月に、 「物資統制令」に基づく 「木材配給統制規則」が公布されると、全道26地区に出張所が編成され、伐出組合、製材組合、木材小売商業組合を吸収し、文字通りの全道の一元化が実現した。

 参考までに、戦時中の軍需用材の様相を、 「他移動山林史」から抜粋するが、本町から伐出された木材の多くが、この方面にふり分けられたものと思われる。

 陸海軍の軍需用材の供出並に石炭増産に伴う抗木使用量の増加により、本道木材の需要度は俄に増えてきた。 すなわち軍需用材としては、エゾマツは米松の代用として、又ヤチダモは欧州産アッシュの用途に、マカバは米国産マホガニーの代用として、飛行機または艦船用材に本邦産木材中もっとも重要なる分野を占めるようになった。 そうして昭和13年度より海軍に対しては・・・・・飛行機用材、艦船用材としてエゾマツ、トドマツ,ナラ、ヤチダモ、マカバ、シナ及びオニグルミ丸太を、陸軍に対しては・・・・・飛行機及び建築用材としてエゾマツ、トドマツ、マカバ、シナ丸太を多量に供給するようになった。

ともあれ、戦局が長びくにつれて、造林を伴わない乱伐いっぽうの用材伐出で、山林に極度の荒廃をもたらしたことは、これもやはり戦禍であったといわざるをえない。

物価統制  昭和10年から物価がじりじり上昇しはじめたが、それが軍需インフレ的根幹につながっていたことを、一般国民は気がつかなかった。 しかし、日華事変の勃発で商業界は大試練を迎えることになった。
 事変勃発当時の軍需物資は、それまでのストックで調達されていたが、長期戦の様相を強めて消耗が増してくることが予想されると、供給の確保が強く要請されるようになった。 そこで政府は、思惑買いや売り惜しみ、あるいは買い占めに対する応急的な取り締まりを強化するため、国家統制の方向を打ち出したが、第一弾が昭和12年8月の 「暴利取締令」であり、第二弾は翌13年の同令改正による価格表示の強制であった。
 物価統制は価格調整による最高標準価格の設定、次いで価格の公定という手順で進められたが、北海道における物価調整は、昭和13年4月に設置された北海道地方物価委員会の審議により長官に答申され、 「北海道標準価格」設定の運びとなり、同年内に次のとおり公示された。

 綿製品、麻製品、アルミニュウム製品、アルマイト製品、皮革製品(以上8・1付)、追加綿製品、毛製品、工業薬品、ゴム製品(以上8・23付)、追加綿製品、追加亜麻製品、追加ゴム製品(以上10・1付)、追加綿製品、ほうろう鉄器、家庭用石炭、洋紙、追加工業薬品、追加ゴム製品(以上10・22付)、追加綿製品、手編毛糸(以上11・12付)、浴場用石鹸(11・15付)、履物類、札明練炭、ガスコークス、鶏卵、追加工業薬品(以上11・22付)、肉類(11・23付)、豆練炭(12・11付)

こうした動きの中の7月に商工省が 「物品販売価格取締規則」を公布して、公定価格制度の確立を期したので、北海道では最高標準価格が、そのまま公定価格に移行した。
 このあと、昭和14年10月20日に物価を停止する緊急策が決定され、いわゆる 「九・一八ストップ令」といわれた 「価格統制令」が勅令で公布され、物価、運賃、賃金など一切の水準を、前月18日現在の水準で停止することになった。 そして翌15年6月から ○ー公(公定価格)、 ○ー協(協定価格)、 ○ー停(停止価格)の完全標示が実施された。

物価統制と配給  生活に必要な物資や食品の消費を切りつめて備蓄する手段として、民需を抑制するため、物資統制と配給制度が施行され、両者は表裏して進行した。 すなわち、昭和13年6月に 「物資動員計画」の施行をみたのがそれで、生活物資と食糧の二本柱で推進された。 統制配給のおもな経過をみよう。

□生活物資

 昭13・ 3 綿糸配給制規則(割当制)
  昭13・ 5 石油販売取締規則(ガソリン、揮発油、重油の切符制)、石炭統制規則
  昭13・ 6 綿製品製造販売制限規則
  昭14    石油配給統制規則
  昭14・ 7 マッチ、家庭用石炭、綿製品(ネル、肌着、かすり、木綿、手ぬぐい)の配給制
  昭14・10 物資統制令
  昭16・ 2 鉄鋼品配給統制要綱
  昭16・ 4 生活必需物資統制令
  昭16・10 物資配給取締規則
  昭17・ 1 繊維製品消費統制規則(2月1日より衣料切符制)
  昭18    木炭および薪の配給制
  昭19・ 3 新聞の夕刊廃止(用途制限)


以上のうち 「衣料切符」について略述すると、最初は国民一人当の年間消費点数は、甲種(郡部)が80点、乙種(都市)が100点とされ、消費規制の基礎は戦前の消費量の40〜50%におかれ、衣料1点に対する指定消費点数の例をあげると、

 背広50点、男子オーバー40点、女子オーバー40点、袷48点、単衣24点、レインコート30点、タオル手ぬぐい3点

のようであったから、いきおい綿布、ぬい糸、肌着、下着、手ぬぐいなどの消費に止まらざるを得なかった。
 この切符制が改正されて、消費量をさらに5%削減し、製品の種類および点数が変更されたのは、昭和18年1月からで、されに翌19年には繊維製品の極度の不足から、都市と農村の区別が廃され、31歳以上40点、30歳以下50点となり、製品も作業服、肌着、ぬい糸、靴下(軍足)、手袋(軍手)などに重点が置かれた。
 以上は一般の衣料切符制であるが、ほかに特別配給制度があった。 その一つは婚約の整った女性、妊婦、災害羅災者など特殊事情にある者への交付であり、もう一つは業務用特定物資であった。 業務用特定物資というのは、労働者に配給される作業衣、手ぬぐい、軍手や、理容業者、旅館、病院などの業務用の者であるが、それらも次第に窮屈になって、例えば重点生産現場への配給についてみれば、昭和19年には必要量に対して、

  農山漁村=軍手2%、 作業衣26%
  工場ほか=軍手2%、 作業衣25%

という配給実績に落ち込んでいる。

□食糧および嗜好品

 昭14・ 4 米殻配給統制法
  昭14・ 7 砂糖配給統制規則
  昭15・ 6 麦類配給統制規則
  昭15・ 7 青果物配給統制規則
  昭15・ 8 小麦粉等配給統制規則、澱粉粕類配給統制規則、臨時米穀配給統制規則
  昭15・10 米穀管理規則、雑穀類配給統制規則、大豆及大豆油等配給統制規則
  昭16・ 8 藷類配給統制規則
  昭16・10 酒類配給統制規則
  昭17・ 1 食塩の配給制
  昭17・ 2 味噌醤油配給統制規則、食糧管理法
  昭19・ 3 料理飲食店などの休業指導
  昭19・ 8 家庭用の砂糖の配給停止
  昭19・11 タバコの配給制(1人1日6本、翌年からは5本)


以上のうち米の配給について略述すると、米穀配給統制法は米穀商の許可制、米穀取引所の日本米穀株式会社への統一を内容としていたから、全国の米の相場はあっという間に消滅したが、こうした価格の停止は配給制の予告であり、北海道では他府県にさきがけて昭和15年2月に 「米穀配給調整」の指示を発し、配給体制に入っている・次に1人1日分の配給量の推移をみよう。
年齢別 1〜2歳 3〜5歳 6〜10歳 11〜15歳 16〜25歳 25〜60歳 60歳以上
年 次
昭15・6 330〜345
昭16・4 120 200 330 300
昭20・5 120 170 250 360 330 300
昭20・7 108 153 225 325 330 270
単位=g、  330g=2合3匁

なお、米の配給は昭和18年半ばころから乱れはじめ、各市町村の集荷程度により差が生じ、遅配が表面化したため、終戦前の1年間ぐらいは、雑穀、馬鈴薯が米に換算され、でん粉粕も代替えに加えられるようになった。
 もう一つ、昭和19年に配給停止になった砂糖の1ヶ月分の配給量をみよう。
世帯員別 1人世帯 2人世帯 3〜4人世帯 5人世帯 6〜7人世帯 8〜9人世帯 10〜11人世帯
年 次
昭 15 0・5 1・0 1・5 2・0 2・5 3・0 3・5
昭 17 0・5 1・0 1・5
  単位=斤、 1斤=600g

    
商業統制  物資の統制配給と表裏して行われたのが、商店を含む業者の統制で、他産業界組織同様に、統合整備が進められた。

□下湧別商業組合
 昭和15年4月 「商業組合法」の改正強化があって、商業界も戦時体制に即応する事になり、同年9月に 「下湧別商業組合」の設立となった。 政府が進める物資統制と配給に即応する末端配給組織に据えられたもので、加入の各商店は、 「配給所」という自主性のない取扱店と化した。 昭和17年の村の事務報告にも、

 本村商業組合は設立以来日尚浅く其の内容を見るに未だ稚々たるものありて、遺憾とする次第なるも、上局の指示もあり、商業組合の機構を整備するは、刻下の急務にして時局下生活物資の配給機関として円滑に適正なる配給統制を行ふ有力なるものとすべく、機会ある毎に之が指導を為し来る処、昭和17年5月専務理事を置き陣容を強化し万全を期しつつあると雖も、未だ幾多の改善を要する点あるに鑑み、之が機構を改革して益々強固なるものとし以て戦時下必需物資の円滑にして且つ迅速なる配給機能を発揮せしむる様善導せんとするものなり。

とあるように、まったくの官製品といっていい立場にあった。
 昭和17年に中小商工業の再編成、職業転換政策が打ち出されて、5月15日に小売業の第一次整理が行われたが、組合は行政勧奨のもとに、転廃業者の選定処理に協力させられた。 昭和18年の村の事務報告にも、

 商業組合を督励し之が推進方に鋭意努力したる結果は小売業整備と相俟って相当率の自発的廃業者を出せり

とあり、昭和13年当時の商業戸数158戸が、同17年114戸に減っているのが、その辺の一端を物語るものであろう。
 昭和18年になると、すでに主食糧の流通が食糧営団に移行しており、このころから業務用特定物資は、役場から直接事業所や農業会、あるいは隣保班を経由して割り当てられるようになったし、底をついた一般配給衣料品も商店を経由せず、組合から直接町内会部落会に一括配給されるなど、組合員としての商店の機能はますます狭められたうえ、配給量も減少の一途をたどっていった。 また、配給物資取扱店以外は販売商店に事を欠き、転廃業しなければならない深刻な局面を迎えていた。 政府は、そうした中小商業者の転業を想定して、昭和18年6月に繊維工業、製紙工業などへの転庸を意図し、末端補助作業員に組み入れる事を見込んだ 「戦力増強企業整備要綱」を決定した。

□下湧別村配給統制組合
 昭和19年5月、戦局はいよいよ重大段階に達し、従来の商業組合体制では物資流通業務に適合しなくなったとして、

 国民経済の総力を最も有効に発揮せしむる為小売商業の統制及び之が為にする経営を行ひ、且小売商業に関する国策の遂行に協力するために・・・・・ 

を目的として、配給統制組合の設立が布達され、商業組合を改組する形で 「下湧別村配給統制組合」が発足したが、ますますさびれる商業行為は、例えようもないわびしいものであった。 昭和19年の村の事務報告を掲げよう。

 戦局の推移と物資の統制は  愈々強化を加へつつありしが6月1日商業組合を配給統制組合に改組し従来の如き商業者援護の立場を脱却し配給統制の真使命を帯びたる公共性ある組合の設立を見其の現れとして生活必需品衣料品他24品を指定し之が末端配給は直接配給統制組合にて取り扱ふとことなれり

□食糧営団
 昭和17年2月に政府は、主食の確保と統制を強化する目的で 「食糧管理法」をスタートさせ、米を中心に麦、でん粉、馬鈴薯など米に準ずる食料の流通と配給を一元化して、 「食糧営団」を設立した。 現在でいう公団、公社にあたるもので、その末端配給所が本町にも設置された。 食糧管理法の骨子が、

 主要食糧の自由販売を禁止し、生産者の自家保有米を除き、供出制度によって農業会に集荷、配給は食糧営団で行ふ。

であったから、食糧営団は管理と流通の中核に据えられたわけである。

ぜいたく追放  「欲しがりません勝つまでは」に併せて、戦時中には 「ぜいたくは敵だ」の合い言葉が叫ばれた。
昭和15年7月7日に公布された 「奢侈品製造販売制限規則」(7・7禁令)で服装から装飾品が消され、同時に男の長髪と女のパーマネントおよび化粧追放の声が上がった。
 また、極度の繊維不足と銃後諸活動の歩調を整える意味から、男はカーキ色の国民服に統一され、それにゲートルと戦闘帽着用のスタイル、婦人は上っぱり風の簡単服にモンペのスタイルが指導され、 「美」などの形容は縁のないものとなった。

代 用 品  昭和13年6月の 「物資総動員計画」は、生産と消費の両面から臨戦体制を志向したが、物資が欠乏するにつれて 「代用品」が物資総動員の一環として登場するようになった。 「ステープルファイバー」(スフ)と呼ばれた木材からの加工布地、イラ草の繊維で作った服、豚皮の靴、再生ゴム底の地下足袋、魚油と灰で作った石鹸、イタドリの葉のタバコなどが、その好例であった。 もちろん、質も、耐用も、利用効果も、すべての点でほん物には遠くおよばない代物であった。

 朝おろしたばかりの靴下のかかとに、夕方にはきまって穴があいていたスフ。 板のように堅くて、すぐに底が割れてしまう地下足袋。 ネズミにかじられるのを心配しなければならなかった豚革靴。キリギリスに狙われたイラ草の服。 魚油臭く砂が混じっているのではと思えるほど肌に痛みを感ずる石鹸・・・・・

などという語り草が残されているが、これも、れっきとした配給品の仲間だったのである。
 なお、之も代用品の範囲にはいるが、 「代用食」ということばがあった。 配給されるわずかな米に、豆、いも、うどん、山菜、えん麦、玉葱黍を混入した飯。 でん粉に南瓜や馬鈴薯を潰して混入した団子やスイトン。はては、馬鈴薯、南瓜、玉葱黍をそのままゆでて食べるのまで、代用食というようになったが、それほどまでに主食となる米や麦が欠乏していたのである。

(7)敗戦と終戦
戦争終結  昭和17年になってアッツ島守備隊の玉砕、さらに翌18年ガダルカナルからの退却があったころから、戦局は悪化の一途をたどっていたが、一般国民の思考や批判の自由は認められておらず、新聞やラジオも報道管制(軍の検閲)されていたから、戦局の推移は軍の発表以外関知する術はなかった。
 昭和20年に入ると2月に硫黄島、6月に沖縄と、わが国固有の領土が、守備隊の玉砕とともに敵の手中に帰し、米軍爆撃機が全国主要都市を連日空襲するようになった。 こうした窮地に立った日本帝国陸海軍は、ついに 「特別攻撃隊」(特攻隊)戦術に出て、 「必死体当たり」の反撃を試みたものの、いたずらに悲壮な犠牲を積み重ねるだけであった。 ついには手話20年8月6日広島に、同9日長崎に原子爆弾が投下され、されにソビエト連邦の参戦をみて、敗戦は決定的なものとなった。

 こうして昭和20年8月15日正午、ついに戦争終結を告げる天皇のラジオ放送となった。 この放送は 「玉音放送」といわれたもので、 「耐え難きを耐へ、忍び難きを忍び・・・・・万世に太平の基を開かんと欲す」と訴え、国民に終戦を告げるとともに、敗戦の重苦しさを伝えたものであった。

 国民の懸命な努力も空しく、無条件降伏となる。 この報伝るや地区住民ひとしく無念の涙にくれ、落胆言わんかたなし。 家業も手につかぬ有様であった。<東芭露の古老の回想>

は、当時の本町民の真情を代弁したものであるが、中には 「中間指導に献身した部落会長の中に責任感から村長の指導をきびしく避難する者もあった」という。 しかし大勢は、明日からの展望こそ持てなかったものの、戦争から解放された安堵感で、虚脱感との矛盾を抱えながらも、いちおう平静を保つことができたのである。

終戦後の混乱  精神的には平静であったとはいえ、終戦直後の混乱と困窮が、人心を攪乱せんばかりの局面をみせたのは、敗戦国のおかれたやむを得ない立場だったといえよう。
 昭和20年は大凶作であったから極度の食糧不足を来し、そこへ武装解除された復員者と、日本の領土から除外された外地からの引揚者があって、その受入に苦慮したほか、戦後開拓者の入地(開拓編に概述)もあった。 こうした中でインフレーションは、止まるところを知らぬありさまで、村民の生活は物質的にも経済的にも、戦時中以上に苦汁をなめさせられたのであるが、それらについては、次章で詳述することとする。

村長の危難  昭和20年8月16日は終戦の翌日であったが、この日、計呂地では国民義勇隊の戦闘隊結成式が予定され、村長も出席することになっていた。 ところが、いざ挙式となって不穏な空気がただよいはじめたのである。

 夫(伊藤庄恵)は当時、部落の連合会長や村会議員をしていて、戦争のため脇目もふらず没頭していたから、前日終戦とも知らず、この日も先頭に立っていた。 だから村長が終戦を知らせず、この日になって終戦になったから義勇隊の必要もないといわれて気が動転したのでしょう・・・・・<伊藤サキ=庄恵夫人の回想>

やがて、ねぎらいの酒盛りとなったところで、空気を察した誰かが村長を逃がしたのであるが、自転車で逃げる村上村長と、同席していた巡査のサーベルを奪って自転車で追いかける伊藤庄恵の姿が、床丹、円山をかけめぐり・・・・・幸いにも危難をまぬがれたが、

 おさわがせしましたが、事件は不問となり、一切は水に流され、その後、夫は選挙のときは村上候補と共同戦線を組んだり、農協組合長を勤めたり・・・・結局は戦争が生んだ悲劇だったと思っています。 <伊藤サキ>

と、なにか当時の民心(世相)の一端をうかがわせるものがある。

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