第9編 教 育

昭和の小漁師top
百年史top

第1章 教育勅語時代の教育
第2章 民主教育への転換 
第3章 学校教育の進展  
第4章 社会教育の進展  


第1章 教育勅語時代の教育

(1)庶民教育の創成 (2)戦前の教育の流れ (3)軍国主義教育の洗礼 (4)父母の後援組織 

(1)庶民教育の創成
学制発布と学区制  わが国の教育史上に庶民教育が国家施策として萌芽したのは、明冶維新になってからで、明冶5年8月2日の太政官布告による「学制」発布に始まっている。
  華族、士族、平民の区別なく「必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス」「男女共必ス卒業スヘ牛モノトス」
と規定し、国民皆教育を標ぼうしたもので、近代国家形成の布石のーつとして位置づけされていた。ちなみに、学制発布に際して太政官から併せて布達された「学事奨励二関スル披仰出書」にも、
  邑二不学ノ戸ナク、家二不学ノ人ナカラシメンコトヲ期ス
これの具体的な展開は、まず「学区制」を設け、全国を大学区8、中学区256区、小学区53、760とし、各学区ごとに大学、中学校、小学校を一校あて設置するというもので、北海道は奥羽(東北)とともに第8学区に組まれ、翌6年に大学区七と改められたことから、第7大学区に変わったものとおもわれる。また、「学区取締役」を任命して修学の勧奨指導も行われることになった。
 そうした全国的な伏勢の中にあって、未開の北海道はどうであったのかーーー学制発布の年の一一月に、開拓史開墾局から「奨学告論」が出されている。
 今般各村へ筆算教師ヲ被置広く教化ヲ被施候条一同御趣意ヲ聴認シ各子弟共ヲ入学セシメ其の親ヘ厳重督促致シ可申尤教師タルモノハ専ラ方今ノ時勢ヲ弁ヘ上朝廷御開拓ノ御意二基キ下自己ノ職業ヲ不失様総テ有用ノ学ヲ努メ急務ノ術ヲ修ムル様可心懸事
一、農夫ハ農業ヲ努ムルハ専要事ナレ共文字ヲ知ラサレハ空シク力ヲ尽シテ収穫少ナキハ勿論時上ヨリ御触達面モ了解シ難ケレハ不覚罪科二陥リ候義モ可有之誠二憫然ノ至二付篤ト此趣意ヲ弁へ可申事
二、学校ハ村中便宜ノ地ヲ選メテ村内合力ヲ以テ覚構可致事但シ教師ノ宅ニテモ妨ナシ
                       開墾局

といった趣旨であったが、かなり学制とはニュアンスに距たりがあるのは、未開拓ゆえに法令に基づく画一的実施が困難であったことを物語っている。つまり太政官でも正規によらないの特殊性をみとめたのであった。
 開拓史の学事奨励は、明治6年6月に開拓史の事務機構に学務局を設けるという形で進められ、根室支庁でも「根室支庁記録」によれば、
 明7・5  私懇規則ヲ設ケ志アル者ハ皆学二就カシム
 明9・11 学校ヲ興シ壬申公布二基キ幼童萬六年二至レバ男女ヲ論セス皆就学セシムベキ旨ヲ告論ス
 明9・12 学務係ヲ置くク

の施策が行われている。ちなみに明治7年の「学校私塾規則」制定に際して出された奨学告論には、
 夫人ハ動ル事アリテ年ヲ終ル迄飲食ヲ安ンスルヲ得一日其勤ヲ欠至リテ十日ノ貧困ヲ蘇生スト皆是人ノ知所ニシテ、今更陳ルニ足ス、抑当根室創業以来人々御趣意ヲ奉体シ逐次人民増加学齢子弟モ少ナカラサル処、土地ノ習風ニテ動モスレハ遊情ノ簇モ有之実二燗然ノ至二不堪候、仍テ今般更二義熟ヲ設ケ、仮ノ子弟成ハ仮令晩年ノ者ト雖モ学シト欲スル者ハ之ヲ許テ、学業二就シメ漸次遊情放送ノ習幣ヲ去リ、村二凍餒ノ民ナク家二不学ノ子勿ラシメント欲ス、其父母タル者ハ子弟ヲシテ学業進達ノ一途二勉強セシムベキナリ、此趣意ヲ領解シ永住寄留ヲ問ハス、厚ク教論ヲ加へ追々開花ノ域二進マンコトヲ心掛ヘシ。
とあり、学校創設の記録としては、明治9年12月14日に官立花咲小学校の開校があるが、未開の奥地である北見国方面にはおよぶべくもなかった。 ちなみに、根室支庁管内の公立小学校には、明治15年でも9校にすぎなかった。

教育令と国民皆教育  一時代を画するほど進歩的であると思われた「学制」も、国民の維新意識の低調と、それによる教育に対する誤解と危惧の念の表面化から、廃止の運命になった。明治12年9月29日ついに学制が廃しされ、新たに「教育令」が公布されているが、その要点は、
一、従来の学区制を廃し、各町村は数カ町村連合して公立学校を設置すること。
二、学区制による取締役を廃し、選挙制の学務委員を置くこと。
三、学齢は6歳より14歳までとするが、土地の事情により四年まで短縮することができる。この間16ヶ月以上就学すればよく、また学校外就学授業の制を認めた。

というもので、政府の権限を縮小し、民意による教育の伸長を期待したアメリカ式の地方委任方式への転換であった。しかし、当時の貧弱な地方財政では実現性に乏しく、就学率の低下となって現れたため、翌13年末に改正された。改正教育令は要約すると、
一 就学義務の強化
  就学最短規定16ヶ月を3年に延長し、巡回授業は取締を厳重にし、不就学は群区長の許可制とした。
二 地方官の監督権限の強化
  学校設置は地方官の指示に従い「学齢児童ヲ教育スルニタルヘキ……小学校ヲ設置スベシ」とされ、学務委員は任命制とする。また教員の任免は学務委員の申請に基き地方官の決に任された。
という骨子が貫かれていて、中央統制的な勧学干渉主義に移行するものであった。これにより全国的な就学率の上昇をみたが、明治17年以降再び就学率の下降をみるようになった。明治15年以来の不況から、政府が緊縮財政に転じて、小学校補助金を廃止し、教育費はすべて町村費負担としたため、町村財政が圧迫され、いっぽう国民生活の窮乏から教育費の負担に酎えられない者が統出したための現象であった。こうした時局に処して政府は、明治一八年ハ月さらに教育令を改正し、次のような妥協的な線を打ち出した。
 一 就学を容易にするため、従来の体制を緩和し、地方の実情に応ずる簡易な教育施設として家塾的な「小学教場」や巡回授業、あるいは半日または夜間授業の制度を認める。
 二 学務委員を廃して、その職務を戸長に掌握させて教育費の節減をはかる。
 三 小学校設置の資力のない場合に設けられた教場を除き、授業料徴収を命じ、もってあくまで学校維持を図る。こうして、二転、三転した教育合ではあったが、一貫して基底に流れた特色の一点に、子供を就学させることは父兄の責任であって、必ずこれを果さなければならないという趣旨があった。つまり、国民皆教育(ある意味で変則性を合んだ義務教育)を指向するものであったが、この時期におけるそれらの紋別郡への波及の状況を、各種資料から披草してみよう。
 □「北見国漁場統計」=藤野伊兵衛
 明治十二年網走、斜里、紋別、常呂四郡学校人員三八人金員九00円
 明治十三年〜明治十五年金員同上
 □ 「北地履行記」=明12酒井忠郁記
 教育所、本年創メ、漁場持藤野伊兵衛自費ヲ辺テ、八月二十匹日開校ノ積リ、該郡ノ男女二十五、六人入校スベキ見込ナリ。
 □「根室支庁記録」
 明治十五年一月学務委員選挙規則及ビ事務章程ヲ定ム
 根室県布達 甲第三十二号
  明治十五年十二月甲第五十五号布達管内学区区画別冊ノ通改正候条本年七月一日ョリ可施行此旨布達侯事
    明治十八年六月一日
                   県令湯地基代理根室県少書記官
                         広 田 千 秋
  (別冊第一番小学区から第二十四番小学区まで、 地域名省略)
    第十八番小学区 北見国紋別郡各村
などであるが、藤野伊兵衛にかかわるものは、開拓使庁根室支庁時代の状況を伝えるもので、当時の産業経済界に支配的立場をもっていた藤野伊兵衛が、奨学告諭や根室地方の学校開設の機運をとり入れ、学校設置に積極的な熱意を傾けた経緯を物語るものである。

小学校令と義務教育  明治21年12月に中央官制の大改革があり、国家統治は太政官制に代わる内閣制度によるものとなった。その結果、教育行政は文部省が管掌することになり、初代文部大臣に任命された森有礼の構想に基づいて、学校教育体系の整備が行われ、同19年4月に、大要次のような「小学校令」が公布された。
 一 従来の初等中等高等の組織体系を尋常(四年)と高等(四年)とし、土地の情況により小学簡易科で代用せしめることを得とする。
二 学齢は6〜14歳(8年間)とし、従来の3ヵ年義務制を「尋常小学校ヲ卒ヘル」まで、つまり四ヵ年制とする。
 三 経費は従来の区町村費主義を授業料本位とし、不足する場合に町村費で「補フコトヲ得」とする。
 四 学科は省令(明19・4)による。

というものであったが、時運の進展に伴って、明治22年10月に次のように改正され、確かな義務教育体系の発足をみることになった。
 一 尋常小学校(3年または4年)を義務制とし、簡易科を認めない方針とする。
 一 高等小学校を土地の事情に適応させるため、2〜4年の幅を持たせる。          一 尋常、高等の併置を認め、専修科、補習科を設置し得ることとする。
 一 授業料は市町村の収入とし、代りに市町村に村し校舎、校具、俸給、その他の経費を負担させることとする。
 一 学務委員制度を施行する。
 小学校令は、明治33年8月さらにー改正されて、
  一 尋常小学校の年限を一律4年の義務制とする。
  一 高等小学校を2年、3年、4年の三種とするが、2年制高等小学校を尋常小学校に併置することを奨励する。
  一 従来の授業料本位を廃し、原則として徴収しないこととする。
  一 高等小学校を2年、3年、4年の三種とするが、2年制高等小学校を尋常小学校に併置することを奨励する。
  一 従来の授業料本位を廃し、原則として徴収しないこととする。
となり、のちに尋常小学校の修業年限6ヵ年へ進化する伏線がしかれ、明治40年3月の改正で、義務教育年限は6年となった。
 本町では、この時代から学校の創設をみ、開拓期の子弟教育がはじまっているが、その経緯は後の項に詳述するとして、紋別郡の動向をみると、「紋別市史」に、
   明治19年には村内の各有志がはかり、戸長役場を教室にあてて紋別学舎と称し、非番巡査が交替で授業を担当したが、なんらかの事情で開もなく廃校の状態となった。そこで明治22年再びこの状態を取りもどすために府田栄次郎を雇い、民家や寺を借り受けて、子弟教育に従事させたもののこれまたなが続きせずに廃校された。
と記されていて、苦難の大井私塾程度の営みのあったことを物語っている。ちなみに、紋別郡に簡易小学校が開設されたのは、明治25年のことである。

学校の開基  網走支庁管内の各郡に1校ずつしかなかった学校施設が、本町にも次のような経緯で開基をみている。
 (1)本町の学枚教育のはじまりである湧別小学校は、明治27年6月ようやく戸口の増加をみた浜市街における私塾の開設にはじまり、私塾教育の限界に達した同30年に有志による学校設置計画が進められて、同年6月1日に小学校設置認可となり、7月15日の戸長役場開庁とともに村営事業として建築費予算を計上し、翌31年3月9日に住宅付則43・5坪の校舎が落成した。
 (2) 北湧尋常高等小学校は、他の学校の開基とは異なり、屯田兵村子弟の教育を主眼として、明治31年12月に官費で建設されたもので、網走支庁管内では網走小学校に次ぐ高等科併置枚であったから、開拓開拓初期の村内教育に重きをなし、湧別や学田からも高等科入学を志す者が多かった。
 (3) 明治30年開設の学田農場では、農場経営者の積極的な配慮で、分教場の設置を土合として、同33年に小学校設置を実現した。(現在の遠軽小学校の前身)
 (4) 地域の学校は明治39年9月の芭露簡易教育所設置を皮切りに、相次いで設置をみているが、いずれも父兄の子弟教育に対する熱意を核として、経済的な安定にはほど遠い入植初期から、地域住民の協力で施設を準備し、学校設置の基礎工作がなされた。従って、民家を借りあげたり、計呂地のように地域民の手で堀立小屋を造ったりという粗末な施設でのスタートであり、もちろん教具といえるようなものはなかった。

このように、北湧小学校を除いて学校設置が住民の直接負担によらなければ成し得なかったのは、設置義務を負わされた町村に対する国の適切な財政援助がなかったことに起因している。貧困な村財政では、広大な区域に多数の学校を設置することは不可能であったから、教育行政に消極的であったことも、やむを得ない時代の流れであったといえよう。従って地域住民の希求による施設の準備がなされたのち、学校設置を定めるという経過が多かった。
 設置後においても、多額の経費を必要とする増改築などは、地域住民の負担に依存することが慣例化し、大正5年の計呂地小学校の改築などは、実に九〇%が地域住民の寄付企てまかなわれるありさまであった。従って、
  寄付金ハ到底満足ナル収納ヲ見ルコト至雄二属スルヲ以テ聊力推街上如何トハ思慮セラルヽモ今日ノ場合他二策ナ牛ヲ以テ忍ンデ戸数割二寄付金四百円ヲ加算シ可決セントス
といった強硬手段が賛成多数で議決(明40村会議事録)されたり、理事者もまた、
    明治四十年書面会議提出議案
 建築工費ノ半額ハ其ノ関係部落民ノ寄付ヲ以テ建築スルコト二相成居候処本年ハ薄荷不作ノタメ、該寄付金モ容易二儘リ兼候趣二有之候、而シテ芭露校ハー坪十五円上芭露敦育所ハ一坪十円二有之侯、之ヲ競走入札二付スル時ハ予算超過ヲ来ス事ト披考候依テ予算ノ範囲内二於テ該地区関係者二随意契約ヲ以テ請負シメ若シ不足ヲ生スル場合ハ地区関係者ノ寄付金ヲ増サシ補充セシメ度

といった提案を行ったりということは、めずらしいことではなかった。このような実情下の村の学校建築への財政投資をみると、明治30年から大正6年まで(大5不明で欠)の20年間に1万2、510円39銭9厘を支出しているが、うち、約44%の5、466円29銭9厘が子弟寄付金として収納されており、また学校関係建物890・25坪(大8「基本財産目録」)のうち、32%にあたる285坪は寄付採納の建物であり、労務出役も加えて、きわめて大きな往民負但になっていた。

北海道の特殊事情  「学制」および「教育令」時代は、北海道の行政史上「開拓使」「三県一局」時代に当り、開拓行故においても、また教育行政面においても草創期で、統一を欠くところが多かった。明治19年4月の「小学校令」発布は、同年3月の北海道庁開庁と奇しくも一致し、以来本道の教育行政は道庁の統轄により、肴々軌道に乗ることになったが、なお、開拓途上という特殊事情から、暫定措置的な教育行政があったことは、やむを得ないことであった。
 明治19年の小学校令の公布を受けて道庁は、翌20年4月に小学校令に適応させるための「小学校規則及小学簡易科教則」を庁令で定めたが当時の開示事情から、道内小学校のうち、尋常小学校と高等小学校の併置は3校、尋常小学校単置は7校が指定されたのみで、残りの250余校は、すべて簡易科教則によるものであった。簡易科とは、およそ次のようであった。
    小学簡易科教則
 第一条 小学簡易科ノ修業年限ヲ三ケ年トシー日ノ授業時間ヲ三時間トス
 第二条 小学簡易科ノ学科ハ読書、作文、習字、算術、実業演習トス
     但実業演習ハ定時問外二於テー週三時間之ヲ課ス
 第三条 小学簡易科ヲ卒業セシ後猶修業セントスルモ他二修業ノ途ナキモノノ為二温習科ヲ設ケ六ケ月以上十二ケ月以内既修ノ学科ヲ温習シ且之ヲ補習セシムルコトヲ得、但其期限ハ郡区長二於テ土地ノ情況ニョリ適宜之ヲ定ムヘシ

 次いで明治23年5月に、同12年の市町村制に次ぐ「府県制」および「郡制」が公布されて、地方自治制度が整備されたのに伴い、関連させて教育行政の体系を充実させるため、23年10月に勅令二ー五号により「小学校令」が改正された。これによって、自治制度の末端組織である市町村が小学校の設置経営の全責任を負い、郡および府県がそれを統轄する体系が確立されたが、いちおう市町村制を施行した府県に適用するものであったから、市町村制を施行する段階に達していなかった北海道は適用外とされた。
 改正小学校令の適用外とされた北海道に対する措置として公布されたのが、明治25年4月の勅令「市町制ヲ施行セザル地方ノ小学教育規程」で、同28年4月から施行されている。大要は、
 第二条 区町村ハ北海道長官ノ指定スル区域及ビ位置二於テー小学校若クハ数小学校ヲ設置スベシ
 第三条 本令施行ノ時期ハ北海道長官ノ具申二依り文部大臣之ヲ定ム
 第四条 明治十九年勅令第十四号小学校令其他本令二抵触スル成規八本令施行ノ地方二於テ其施行ノ時期ョリ総テ之ヲ廃止ス

と、後進地域の普通教育の方向が示されており、道庁がこれを受けて制定した明治28年3月の庁令第一〇号「小学校教則」および訓令第八号「小学校修業年限指定標準」により設置経営されることになったものであり、木釘における学校教育の創成も、この規定の枠内で行われたものであった。小学校教則第一条には、
 尋常小学校八分チテニ類トス、第一類ノ修業年限八三箇年又八四箇年トシ、第二類ノ修業年限八三箇年又八二箇年トス。第二類ノ尋常小学校ハ特殊ノ地方二設クルモノトス。第一類ノ尋常小学校ノ教科目ハ修身、読書、作文、習字、算術、実業、裁縫(女子)、体操トス………
 とあり、湧別小学校沿革史の発足当初の教科目「修身、読書、綴方、習字、算術、体操」が、それを実証している。
 また小学校修業年限指定標準には、尋常小学校について、次のように示されていた。
 一 尋常小学校ノ修業年限八四箇年トス
 ー 小学簡易科ヲ尋常小学校ト改メ、其修学年限八三箇年トス、但シ土地ノ情況二依り小学簡易科ヲ第二類ノ尋常小学校二変更セントスルトキハ事由ヲ具申シ長官ノ認可ヲ径ヘシ
       修矢年限指定標準
     等  科     修業年限     戸数    学令児童概数  生徒概数   教員数
    第二類尋常科  二箇年又八三箇年  亘戸未満   凡八十未済   凡四十未満   一
    第一類尋常科  三 箇 年     百戸以上   凡八十以上   凡四十以上   二
    第一類尋常科  四 箇 年     二亘戸以上  凡百六十以上  凡八十以上  二以上

 しかし、小学校教則や指定標準により難い開拓地もあったため、明治31年2月に庁令第一一号「簡易教育規程」が定められ、開拓地の実情に適合する施策として施行された。
 第二条 小字数百二関スル普通ノ規程ヲ実行シ難キ情況アルモノハ姑ク簡易教育ヲ施行スルコトヲ得
 というもので、これについては町村成立の年および翌年は小学校教育を行わなくてもよく、成立五年未満の町村、戸100戸未満の町村、アイヌ居住地区では、原則として6年以内の期限で簡易教育を行うことができるとし、教科目は修身、読書、習字、算術を必須として程度は尋常小学校第二類に準じ、毎月25時間以上を行うことというもので、逐次、小学校教則に基づく形に移行できるようにとの配慮がなされていた。これによって特別分教場の設置が認められ、本町でも学田分教場が創設されたようである。
 翌明治32年に簡易教育規程の一部改正があって、設置基準がより緩和され、奥地開拓の実情に即したものとなったが、それは、

  一、出張教育は一小学校設置区域内に分教場を設け……
  一、嘱託教育は一私人で相当の経歴を有する者……

といった点にあらわれている。さらに明治33年の小学校令改正に伴う小学校教則の廃止により、翌34年4月に簡易教育規程も改正され、旧規程第二条が、尋常小学校設置二関スル費用ノ負担二堪ヘサルモノハ此ノ規程二依り簡易教育所ヲ設ケテ尋常小学校二代フルコトヲ得と書きかえられて、施設の必要が明示されている。芭露、計呂地、上芭露の簡易教育所は、これによって創設されたのであった。
 明治41年3月になると、義務教育期間延長の改正小学校令の要旨を容れて、簡易教育規程、旧土人児童教育規程が廃止され、代って、それらを統合した庁令第二十二号「特別教育規定」が定められたが、この新規定で計呂地および上芭露の簡易教育所は教育所と改称された。次いで大正5年12月に、第一次世界大戦による経済の好況から庁令第八十四号で「小学枚教科目教授の程度及教授時教二関スル規程」が設けられ、教育の充実発展が図られ、それにあわせて特別教育規程も改正され、翌6年4月1日から施行された。改正の要点は、付則に「従前ノ教育所八本会施行ノ日ョリ本会二依ル尋常小学校ト見倣ス」と謳われ、訓令で、
 上略等シク義務教育ヲ施行スル学校ニシテ尋常小学校ト称シ或ハ教育所ト称スルガ如キハ動モスレハ児童保護者等ヲシテ両者ノ軽重ヲ疑ハシメ延テハ就学ノ普及発達ヲ阻害スルノ虞ナシトセス故二教育所ナル名称ヲ尋常小学校ナル名称二改メタリ
と布達されている。この改正規程により、計呂地教育所は尋常小学校と呼称されるようになったが、内実的には改まることはなかった。そして、この改正規程は国民学校令施行まで存続したのである。本町の大正10年4月8日の村会に提出された議案の中に、

   教授場資格変更ノ件
  理由 小学校令ニョル尋常小学校二組織変更セントスルトキハ費用ノ負担二堪ヘザルニョリ特別教育規程ニョル小学校ヲ設置セントスルニアリ−−ー


とあるのが、そのあたりの事情を物語っており、村財政の事情から、単級複式学校のほとんどは、特別教育規程による小学校とされていたのである。東芭露および信部内の小学校が、その好例で、小学校の資格が認可された後も8年余にわたり、学校長は隣接学校長の兼任とされ、施設、人事ともに小学校令による小学校よりも低い内実のまま存立していたのである。こうした状況の経過を、古老たちは次のように語り継いでいる。
  とにかく学校を地域に設けたいという一途な親心から、乏しい家庭経済の中から智恵と労力を出し合って学校を建てたもので、学校の格とか何とかは二の次だった。<計呂地>
  当時は教員養成機関が北海道にあったわけでなく、学校をつくっても先生を物色するのがたいへんだったようだ。学校が地区内にもあるというだけで、気持が安らいだ一面が確かにあったといえよう。<東芭露>


高等科の創設  明治19年の小学校令で、普通初等教育の年限を8ヵ年と示し、前半の4年間は尋常科として義務教育に、後半の4ヵ年は高等科として設置と就学は任意とされたが、本道は開拓途上の地域事情から、小学校教則 (明28・庁合第一〇号)第二条で、
 高等小学校ノ修業年限八二箇年、三箇年又八四箇年トシ……
と弾力性をもたせて高等科設置を容易にするよう計らった。本町の高等科の創設は、これによるもので、次のように開設された。
 明31・12 北湧尋常高等小学校=四年制
 明38・7  湧別尋常高等小学校=二年制

その後、明治41年の義務教育(尋常科)6ヵ年の施行により、高等科の修業年限は原則として2カ年とされ、3年制も設けることができるとされたが、本町に3年制の設置はみられなかった。
 北湧小学校の高等科が、開校当初から4年制で設置されたのは、屯田兵村という特殊な背景があったからで、「屯田兵移住給与規則」第十四条の恩典によるものであった。湧別小学校に高等科が設置されるまでの状況は、
  設置を奨励された高等科も、村財政事情で簡単には設置されず、また義務教育普及の過程での民度と社会環境から、父母の関心も浅く、尋常科ほどに切実な問題とはならなかった。
  しかし、教育熱心な人々は、遠く湧別、学田方面からも子供を北湧校高等科に通学させたので、北湧校は全村の教育の核心的な存在であったばかりでなく、管内では網走校に次ぐ高等科設置校として、管内の初等教育にも重きをなす存在であった。

と伝えられている。村内全体の高等科就学状況をみよう、女子就学の低率がみられる。
   区分
年次
総      数 うち女子のみ
尋常科卒業 高等科卒業 高等科入学率 尋常科卒業 高等科入学 高等科入学率
明38〜44
大元〜10
347
708
269
476
77・5%
67・2%
150
328
81
139
54・0%
42・3%

教育費の重圧  住民負担の犬きさは、そのまま村財政の貧困を物語るものであるが、乏しい村財政もまた、教育費の重圧に苦しめられていたのである。統計にみると、
   区分
時代
歳   入 教育費支出
総  額
(円)
うち村税額
(円)
村税比率
(%)
総   額
(円)
対村税比率
(%)
対歳入比率
(%)
戸長時代
明31〜38
39.092・293 28.724・551 73・48 23.591・098 82・12 60・38
湧別村時代
明39〜42
80.987・410 56.311・972 69・53 36.296・661 64・45 44・81
下湧別村時代
明43〜大6
94.874・416 72.384・560 76・29 48.372・228 66・82 50・98
通計(大5欠 214.954・119 157.421・083 73・24 108.259・987 68・77 50・36
となっており、開拓の進展に伴う学級増加への苦心の対応をのぞかせているが、学校規模の増大は教員の増員にもつながり、給料の支弁が経常費増大をもたらすようになり、村財政を圧迫する要因となった。
     区分
時代
経常費支出総額(円) うち教育給料額(円) 給料比率(%)
明40~42
明43~大6(大5欠)
54.238・192
44.927・639
39.838・781
35.536・199
73・45
79・09
このような実情から、大正二年の凶作による税収率の著しい低下に際しては、村財政が破綻状態に陥り、一時借入金や基本財産の流用などで、次のような苦しい決算が行われている。
    歳入繰上補充ノ件
       【大正四年十二月村会提出】
 大正三年五月二十三日普通基本金ヨリ同年度一般会計二繰入レタル金壱千円ヲ大正二年度歳入二繰上補充ヲナスモノトス
 理由 大正二年度ハ全道大凶作ニシテ本村モ亦被害激甚ナリシカバ納税成績不良ヲ極メタリ、次テ三年度二至ルモ前年ノ余響ヲ受ケタル結果滞納者多ク経営至難二付、大正三年四月十八日村会二於テ決議ヲ経典ノ筋ノ許可ヲ受ケ基本金二千円ヲ大正三年度一般会計へ繰入充当シタリ。其ノ内壱千円ヲ更二二年度二繰上決算スルノ止ムナキ事情アリタルニ因リシモノニシテ事後ノ承認ヲ要求スル所以ナリ。
  「註」 大正二年度予算額 一万五、六三四円九一銭
         歳入決算額 一万一、七七三円九二銭

このことは、教員給料の支弁など中止できない支出の比重が高かったためとみられ、道内各地に俸給支払遅延現象がみられた。道庁では、こうした窮状を教うために、俸給無利子貸付金の方法を講じたものの、支払困難な町村の教員数は全教員の37・4%もあったのが実情であった。さらに第一次世界大戦の勃発により、戦争景気が現出して物価高騰をみるにいたって、教員に対する臨時手当支給の必要に道られ、町村財政に対する教育の重圧は一層度合を強くしていった。


学校財産の設定  教育費の重圧に対する自衛措置として創設されたものに、「学校財産」の設定があった。原拠となったのは、明治21年11月告示の「町村立小学校付属地下付手続」と、同23年の法律八十九号「地方学事通則」で、後者の第九条には、地方公共団体および学区が学校の設置維持のために、学校基本財産を設けることができると明示された。
 以上を受けて北海道庁では、明治24年12月に訓令を発して、学校経済の補充と不時の需要のために、基本財産の増殖確保の必要を強調した。本町では明治35年に小学校設置の基礎が固まったのに合わせて、
  北湧小学校 八万七、四七〇坪
  遠軽小学校 八万元、ご二〇坪
  湧別小学校 八万五、九六五坪
の未開地払下許可をうけ、それぞれの学校財産とした。
  学校別
項目
北湧校 湧別校 遠軽校
第一款 財産より生ずる収入
     一項 預金利子
     二項 公債利子
     三項 貸 地 料
377円37銭
27円37銭
350円00銭
-
12円80銭
-
-
12円80銭
8円40銭
-
-
8円40銭
そして同39年の二級町村制の進行で「学校基本財産特別会計」が設けられ、財産から生ずる収入は全額蓄積されることになった。初年度決算は上表のようであった。
 この学校基本財産の運用の推移を、翌40年の北湧小学校の校舎全焼の復旧にみると、復旧費8000余円のうち7、000円は、臨時事件公債を付加発行(額面五〇〇円×一四枚)し、これを北湧校基本財産収入蓄積で買う形で調達され、同41年から7ヵ年年賦で付加北湧校基本財産に價還すというもので、恵まれた北湧校の財産蓄積の力は大きかった。しかし、北湧校以外の例は、あまり効果的でなかったとみえ、大正8年の役場事務の合理化の際に、この会計は普通基本財産特別会計に吸収されている。吸収時の学校基本財産特別会計の蓄積は、次のようであった。
 湧別小学校 三、六六〇円五四銭一厘
 芭露小学校    七七円○四銭
 
授業料の徴収  学制公布以来、教育経費の一部は受益者(実際は披教育児童の後見人である父兄)が負担するという原則が建前とされ、授業料の徴収が行われた。
 明治12年9月の教育令公布で、授業料の徴収は自由とされ、教育行政を地方の自主性に委ねたが、当時の他方財政の実情から、廃止その他の実効のほどは明らかではない。そうした実情を反映して、同19年4月公布の小学校令では、第六条に、
  父母後見人等ハ小学校ノ経費二充ツル為メ其児童ノ授業料ヲ支弁スヘ牛モノトス。其ノ金額ハ府県知事県令ノ定ムル所二依ル
と明記して、旧に復し、授業料は教育費の主要財源とされ、不足分は町村費で補うこととされた。これをうけて北海道では同年「町村立小学校授業料徴収規則」を制定し、翌20年4月から高等科は月額30銭以上1円以下、尋常科は20銭以上50銭以下と布達した。
 明治23年に町村制にあわせて公布された改正小学校令では、学校設置および経営の責任を負う町村の財源として、授業料は町村収入とされ、第四〇条に次のように明示された。
  市町村小学校二就学スル児童ヲ保護スベキ者ハ授業料規則二依り授業料ヲ納ムヘシ、授業料ハ市町村二属スル収入トス
さらに明治28年3月に庁令で「区町村立小学校授業料規則」が公布され、尋常料は1ヵ月20銭以下、高等科は一円以内の範囲で区町村長示顕を定め、長官に届け出ることとされた。このときの本町の月額は明らかでないが、同34年度決算書によると、授業料収入額は67円10銭で、村税の戸別割404円16銭の16・58%に相当し、村財政の主要財源に位置していた。
 授業料不徴収の原則がうち出されたのは、明治33年の改正小学校令で、これは義務教育の強化普及にそった措置であって、第五七条に、
  市町村尋常小学校二於テハ授業料ヲ徴収スルコトヲ得ズ但シ補習科ハ此ノ限リニ在ラズ特別ノ事情アルトキハ府県知事ノ認可ヲ受ケ市町村尋常小学校二於テ授業料ヲ徴収スルコトヲ得
と謳われていたが、北有道の多くの町村では、財政事情の貧困から完全実施にはいたらなかったようである。それを証するものに、同36年に道庁内務部長から支庁長に宛てた、

  学校新築等幾分繰延べ侯ても都合を付け筍も義務教育に属する児童の授業料は一日も早く全廃方御配慮相成度
 という通達がある。本町では明治34年に尋常小学校の授業料を廃止したが、同41年の義務教育年限延長により財政事情が厳しくなったため、
  四十一年度ョリ義務教育延長実施二付、従来ノ高等科一、二年生ハ自然尋常科五、六学年トナルニ至ル、由来本村ハ高等科生徒ョリ授業料ヲ徴収シ、殆ンド三百余円ノ歳入ヲ得テ歳入ノー部ヲ補足シ来り歳計上一ノ好財源ナリ、然ルニ義務教育延長二伴ヒ益々出費多端トナラントスル今日従来ノ高等科一、二学年生徒ョリ授業料徴収セザルトキハ頓二財源ノ欠陥ヲ醸スル恐アリ、故二元高等科タリシ尋常科五、六学年二対シテモ授業料ヲ徴収セントス
 との理由書を付した議案が村会にはかられ、小学校令第三七条但書によって、授業料徴収の期限付認可(明治45年までの5年間)を受け、高等科1ヶ月30銭、尋常科5、6学年1ヶ月10銭を徴収した。
 時限認可は大正2年から、さらに五年間(大正六年まで)延長継続され、大正6年の期限満丁とともに尋常科の授業料は姿を消し、同特に高等科は月額五〇銭に改正された。この高等科の授業料は、戦後の教育改革による新制中学校発足により歴史を閉じたが、その間の授業料月額の推移は、
 昭=5 一円 昭10=七0銭 昭22=一円 昭23=二0円
であった。

義務教育費の国庫負担  教育費の重圧に苦しむ町村財政は、北海道に限らず、全国的なすう勢であったことから、「教育費はこれを義務づけた国が負担し、町村の教育費負担の軽減をはかり、町村財政の安定を期する」声がおこり、それが全国的な盛り上りとなって、本町でも大正5年に次のような請願書を運動推進団体に提出している。
    区町村義務教育費国庫分担二関スル請願
  義務教育ハー般人民ノ子弟二国家ノ強制スル所ニシテ、其ノ振否ガ国運ノ消長二関スルモノタルハ今更費スルヲ要セス、然モ義務教育二要スル莫大ナル経費ヲ今日ノ如ク悉ク区町村民ノ負担二委シテ顧ミザランカ、其弊害ノ及ブ所測リ知リ難カラントス、実二我ガ区町村教育費ハ先年義務教育年限延長ノ結果膨張二次ク膨張ヲ以テシ、今ヤ区町村歳出額ノ半ヲ占メ、之ガ為メ地方産業ノ開発上緊切ナル諸般ノ事業モ勢ヒ中止又ハ縮小スルノ已ナキニ至リ、加フル二人ロノ増加二連レテ、学齢児童数八年ト共二多キヲ加へ以テ益々地方教育費ノ膨大ヲ促サントスルノ情態二在リ、思フニ現今我が農村ノ疲弊ヲ救済スルノ途ハ一二シテ足ラスト雖ドモ、区町村ノ教育費ヲ軽減スル為メ其ノー部ヲ国庫補助二待ツガ如キハ最モ適切有効ノ手段タルヲ失ハズ、翼クハ政府ハ以上陳述セル地方自治体現下ノ窮状二鑑ミ区町村義務教育費ノー部ヲ国庫ョリ補助スルノ途ヲ講ゼラレンコトヲ
  右村会ノ決議ヲ以テ謹ミテ及請願侯也

こうした運動は根強い世論の支持を得るところとなり、ついに、大正7年3月の帝国議会で「市町村義務教育費国庫負担法」(法律第十八号)が制定され、同年から交付されるようになった。骨子とするところは、国と町村が連帯して教育費を負担するという原則にたって、教員俸給額の二割を国が負担するというもので、開法第二条には国の分担額の最低限が明示され、なん度か改正されて増額をみている。
 この結果、町村の教育費支出事情が好転するかにみえたが、第一次世界大戦後の農業恐慌と経済恐慌の二重苦から、住民の担税力が窮迫の度を加え、
   区分
年次
教育経常費支出 同上中給料支出 国庫下渡金 同上の対給料
比   率 
大8〜昭4
昭5〜昭14
361.914円81
308.482円00
326.504円52
264.316円89
108.468円17
160.193円03
38・21%
60・60%
いっぽうでは国庫負担法の目ざすものを超えて経常支出が増大するインフレーションに見舞われたことから、さらに昭和7年に「市町村立尋常小学校臨時国庫補助法」が公布されて増額をみ、かろうじて危機を乗り切ったのであった。本町における当時の経過をみよう。
 また、大正15年4月現在の本町の教員事情を示すものに、次の統計がある。
学校数 教員数 教育予算 児童数
尋 常
高等校
尋常校 特 別
教授場
正教員 準教員 代用
教員
教育経常費 臨時教育費 うち国庫
下渡金
就学数 一人当
教育費
2 8 1 11 14 10 16 40 36.685円 4.923円 8.835円 1.736 25円75銭

学務委員  学制時代の学区取締が、明治12年9月の教育令公布で廃止され、新たに選挙制の学務委員を置くとされたのが、「学務委員」制度の創始であった。そして翌42年の改正教育令で任命制に改められ、同18年の教育令改正で廃止となったが、この時期は、本町に教育機関が存在しなかったので、学務委員も存在しなかった。
 新たな学務委員制度が、明治23年の改正小学校令で施行されることになり、北海道では明治27年2月「市町村制ヲ施行セザル地方ノ学務委員二関スル規程」が勅令で公布されたのをうけて、翌28年5月庁令で「学務委員規則」が具体化され、同規則に示された、
  区町村立小学校設置区域内二学務委員ヲ置クベシ
の規程により、名誉職の学務委員が置かれるようになった。学務委員が行う職務は「区戸長ノ指揮命令ヲ受ケ其区域内二属スル小学校ノ事務ヲ補助スル」というもので、
 (1) 学齢児童の就学督促と就学義務の猶予または免除に関すること
 (2) 家庭で就学する者や出張授業の監督に関すること
 (3) 教育予算の下調べと学校設備、学校基本財産、授業料、物品労力代納などの加除改廃に関すること
 (4) 修業年限、教科目、補習科などの設定改廃に関すること
について諮問に応じ、自ら行動することも多かった。
 本町に学務委員が置かれたのは、明治33年12月に小学校施行規則に基づいて、庁令第一〇七号で大改正された「北海道学務委員規則」が布達されたときからで、明治34年事務報告に宮崎覚馬、西沢収柵、吉田喜代作、秋葉定蔵の名があり、職務は町村長、戸長を補助し、その諮問に応じて意見を述べるなど、諮問機関の性格が濃くなった。
    学務委員職務事項
  一 就学督促二関スルコト
  ニ 家庭又ハ其他二於テ尋常小学校ノ教科ヲ修ムル者ノ認可二関スルコト
  三 就学義務ノ免除又ハ就学猶予二関スルコト
  四 設備二関スルコト
  五 経費予算ノ調整二関スルコト
  六 授業料二関スルコト
  七 学校基本財産二関スルコト
  八 教科目ノ加徐二関スルコト
  九 修業年限二関スルコト
  十 小学校及ビ補習科ノ設置廃止二関スルコト
2年後に、規則改正があって、町村立小学校男教員を必ず加えなければならないとされて、明治32年には次のように任命された。
 教員 菅原繁蔵(湧別小学校長)、安部清柔(遠軽小学校長)
 一般 和田鱗吉、信田寿之、角谷政衛、橋詰弘太、柏倉多賀蔵
 明治39年の二級町村制施行を迎え、村独自の「学務委員組織二関スル規程」が設けられ、村会議員の互選による三名を加えることになり、次の構成をみている。
  議員 鈴木峰次、佐川子之告、樋口幸告
  教員 高橋斌、川添健次郎、島崎卯一、越智頼義
  一般 三沢長之肋、樺沢金八
以来、この方法で選任され、人員は大正15年7名、昭和7年10名、同11年11名とふえ、戦後学制改革まで存続したが、前記以降の歴代学務委員については、残念ながら記録が散逸し、概略を知る資料も見あたらないので省略する。
 ちなみに、学務委員制度時代の学齢児童修学状況は、次のようであった。
区分
年次
就学児童数 不就学児童数 就学歩合
(%)
備考
明39
明42
明43
大15
昭11
昭15
596
958
379
-
1.190
1.201
527
745
312
-
1.112
1.142
1.123
1.703
691
1.738
2.302
2.343
21
22
26
-
5
2
36
27
29
-
2
1
57
49
55
4
7
3
94・92
97・12
92・04
99・77
99・70
99・87
二級町村制施行

上湧別分村



教育勅語と教育の
      中央集権
 明治22年2月11日発布の「大日本帝国憲法」には、教育の基本に関する条文がなく、教育に関してはすべて勅令をもって示すことが定められ、翌23年10月30日に「教育二関スル勅語」の発布となり、教育理念が明示され、以後、この勅語が教育の中心に据えられた。「克ク恵二克ク孝ニ」にはじまり「一旦緩急アレハ義勇公二奉シ」にいたる諸徳目は、君国日本(「君」とは天皇のこと)つまり天皇制を根幹として富国強兵を指向したもので、日清戦争(明27〜28)、日露戦争(明37〜38)のいちおうの勝利結着による軍国主義の急激な台頭とともに、ますます教育典範として重きをなし、太平洋戦争終結まで存続した。
 教育勅語発布と同じ月に公布された改正小学校教則には、逐条ごとに国家主義が盛られ、翌24年11月制定の「小学校教則大綱」では、徳育優位の方針を明らかにし、修身科においては、
  教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養……
と、徳育の中心を教育勅語におくことを規定し、また歴史教育では、
  建国ノ体制、皇統ノ無窮、歴代天皇ノ盛業……等ノ概略ヲ……
教授することなど、忠君愛国のイデオロギー注入が組み込まれた。
 教育勅語の謄本は、まもなく道内の学校にも下賜されるとともに、天皇と皇后の御真影(写真)も同じく下賜され、道庁では、これらの奉置(管理)について、明治24年と同27年に訓令を発し、文部省が公布した明治24年6月の「小学校祝日大祭日儀式規程」とあわせて、学校儀式においても「教育勅語」と「御真影」が、中心的役割を果すことになった。校地の一隅に勅語謄本や御真影を奉置する奉安殿(もしくは奉置所)が設営され、その前を通るごとに停止して脱帽最敬礼を行わされ、儀式では御真影奉拝と勅語奉読が厳粛に行われた。古老の思い出を聞こう。
  御真影を拝受するということは、一人まえの学校として認められることだというので、校下中が緊張し、多くの父兄が紋服に威儀を正してお迎えしたものだ。この風韻は、後に家庭でも両陛下の写真を掲げるようになり、神棚同様に拝んだものだ。
 こえて、明治33年に小学校令の教則および小学校編成について、それまで道庁長官、府県知事が定めて文部大臣の許可を得ることになっていた規程が、文部大臣の定めるところによると改正されたため、文教行政も次第に中央集権化の道を歩むことになった。ともあれ、修身の時間に勅語の暗誦をさせられた思い出は、戦前戦中の就学者の頭の中に、いまも消えることなく焼きついている事実である。

通俗教育の始動  いまでいう社会教育が、行政的に配慮されるようになったのは、もちろん明治椎新になってからのことであるが、その始動は年代的にも、質的にも学校教育の体系に比して遅れていた。
 明治32年に「図書館令」が公布され、一般大衆教化の方策として図書館設置をすすめたのが、最初の布石とみられる。次いで同44年に政府は通俗教育調査委員会を設置して、施策の計画に当ったが、これが、学校教育と並んで社会教育が体系づけられた最初で、「通俗教育」と称する分野が、明確に文部省所管に位置づけされたのである。その内容とするところは、
 ー、文化啓蒙
  1 書籍館、文庫、展覧会などの観覧施設
  2 幻灯、活動写真などの娯楽施設
  3 講演会
 二、青年団活動
であったが、文化啓蒙については、開拓初期の本町には及ぶべくもなかった。しかし、このとき従来は使用禁止とされていた学校施設を一般に開放して、通俗教育の場に利用すること、学校教員も本務の余暇には、積極的に通俗教育に参加して指導的立場に立つことが要望されたので、開拓の進捗とともに通俗教育が開花する誘因となったことは催かである。

修養団体としての青年団  通俗教育の中で特に明示され重視された青年団体については、本町においても明治44年以前に、すでに胎動があった。
 明32・9  四号線で青年活動芽吹く
 明32・10 湧別最初の組織「北見青年会」旗あげ
 明35    「川西青年会」結成
 明42    四号線で「北斗青年会」創立

という経過が、それを物語っている。
 青年団体の創成や沿革の詳細は文化編に記述するとして、通俗教育が組織性のない一般大衆を対象として行われる中にあって、自主的教養団体として芽生えた青年組織が、通俗教育の一つの領域として重視されることになったのは、きわめて当然な時流であったといえよう。明治38年12月に早くも政府から地方長官宛に、次のような「地方青年団休向上発展二関スル通牒」(普通学務局長通牒)が出されている。
近年各地方二於テ風儀ノ矯正智徳ノ啓発、体格ノ改良、其ノ他各種公益事業ノ幇助ヲ目的トスル青年団体ノ設置ヲ見ルニ至レル八通俗教育上二於テモ其ノ効果尠カラザルコトト存候処向後益々是等団体ヲ誘掖掖指導シテー層有効ノモノタラシムルト同時ニ其設ナキ地方二対シテハ之ヲ設置セシムル等十分御奨励相成様致度

こうした地方改良運動の一翼として位置づけされた青年団体の設立奨励は、一面官製化の底流を内包することになったが、北海道でも明治43年に、青年団体の活動を中核とした「通俗教育奨励規定」を設けるなど、青年団体育成への行政の積極的な取り組みが行われるようになった。
 以来、大正2年9月には「地方青年団体二関スル通牒」が出され、青年団体の政治活動禁止を骨子として「地方青年団体ノ政治運動関与、町村政ヘノ容喙ノ警戒」をうたい、一種の規制が行われ、同四年九月には内務、文部両大臣の地方長官に対する「青年団ノ指導発展二関スル件」の訓令が出され、それには、
 一、青年団は青年修養の機関とする
 二、青年団は行政単位をもって設置組織する
 三、指導者は団員以外から定める
と明示していた。
 これを受けた道庁は、各町村に対し「青年団設置要項」や「青年団規程準則」などを布達し、より積極的な設立と指導育成を奨励したが、これは修養団体として自主的に発足した青年団体に対する国家的規準を明確にした統制政策のあらわれであって、その大綱に示されたのは、大要次の性格内容であった。
 一 青年団体の組織は、義務教育を終えた者(または同年齢以上の者)をもって組織し、最高年齢を二〇歳とすること。
 一 青年団体の設置は、市町村を区域とすること。
 一 青年団体の指導者、援助者は、小学校長、市町村長その他名望ある者のうち、適当と認める者を指導者とし、市町村吏員、学校職員、警察官、在郷軍人、神職、僧侶その他篤志家中適当と認める者を協力指導の任にあたらせること。
 一 青年団体の維持はつとめて団員の勤労による収入をもってすること。


 昭和の小漁師top 百年史top (1) 

(2)戦前の教育の流れ
社会教育と教科団体  大正6年に文部省は「臨時教育会議」という大臣の諮問機関を設置したが、これは第一次世界大戦という時局に処して、教育行政の新たな展開を期したものであった。翌7年12月に同会議が政府に対して行った通俗教育に関する答申では、「国家主義的画一的な思想善導」の色濃い方針を建言しており、それが引き金となって、その後、大正10年6月23日勅令によって通俗教育は「社会教育」と改められ、青年団体のほか、宗教団体、婦人団体、在郷軍人分会など、すべての在郷教化団体を受け皿にした教化活動を盛りあげることとなり、体系的に国家的指導統制の態勢がとられるようになった。これは、第一次世界大戦後の経済恐慌や外来思想の影響で、国民生活の物心両面にわたる荒廃に処するものであったが、北海道においても、大正11年から道庁が社会教育振興策を展開し、精神面については「民力涵養二関スル告諭」の中で基本方針として、
 冷徹ナル思想ハ断乎排撃シ民本主義ニツイテハ能ク之ヲ粗嚼究明シ、我国固有ノ思想ト調和同化セシムル
ことの必要を力説して、広汎な教化団体の動員体制がしかれ、内容的にも「思想善導」に加えて「国体明徴」がスローガンに据えられた。そして、やがて国民精神作興運動の展開とともに、社会教育は国民精神作興運動の中にいやおうなく組み込まれ、社会教育のすべてが国民精神作興運動に塗り替えられていったのである。参考までに、大正15年当時の本町の教化団体をみると、次のよう<「村勢一班」より>であったが、教化対策の中核に据えられたのは青年団体であった。
      区分
団体名
人員
帝国在郷軍人分会
愛 国 婦 人 会
青  年  団
処  女  会


12
12
410
140
460
400
 中核に据えられた青年団に対する国家的指導統制についてみると、大正9年11月22日に閉院宮殿下から青年団に対して発された次の令旨が、根幹に据えられていた。
  国運進展ノ基礎ハ青年ノ修養二須ツコト多シ諸氏能ク内外ノ情勢ヲ顧ミ恒二其ノ本分ヲ尽シ奮励協力以テ所期ノ目的ヲ達成スルニ勗メムコトヲ望ム
 これに関連して講ぜられた前後の行政借置の経過には、およそ
 大9・1   団員の最高年齢を二五歳にしてもよい
 大10    会を団と改め、すべて青年団に統一する
 大10・9  北海道連合青年団結成(団長は道庁長官)
 大11   「青年団体補助規定」が制定され幹部養成と事業に地方費補助

があり本町でも大正12年に下湧別村連合青年団および網走外3郡連合青年団に対して村費補助の記録がある。なお、村連合青年団の結成は大正3年6月のことであった。
 いっぼう女子青年団体は、男子にくらべてかなり遅れているが、これは、当時の男女差別の封建社会では、やむを得ないことであった。ようやく大正年代末期に萌芽をみているが、その足どりは、
 大10・6 芭露処女会結成
 大15   上芭露処女会創立
 大10   下湧別連合処女会結成
 昭2    処女会の名を女子青年団に改称
とあって、結成創立はいずれも小学校長の指導でなされ、おおむね校長が会長となっていた。急速に処女会結成の気運が醸成されたのは、大正12年3月に道庁告示で「処女会補助規程」が公布されてからで、同一五年の連合処女会結成時には前の表にみられるように、各校下に単位処女会が結成され、12を数えている。連合処女会会長は村長で、事業に封し村費補助がなされるようになった。その後昭和2年に男子の下湧別連合青年団に準じて、「下湧別連合女子青年団」となった。以後の男女青年団体の推移をみよう。
  年次
区分
昭   9 昭  12
団 数 団員数 村費補助 団 数 団員数 村費補助
男子青年団
女子青年団
14
12
407
313
431円
215円
14
12
419
342
413円
268円

国民精神作興運動  第1次世界大戦後の不況にうろたえる民心の引き締めのため、大正12年11月10日に「国民精神作興二間スル詔書」(勅語)が喚発された。
 詔書は以後の唱導と教化の基幹に据えられ、経済緊縮、勤倹備荒、自力更生などに関する行事、通達のほとんどに「質実剛健ノ気風ノ振興」などといった色濃い精神主義や禁欲主義をあらわに盛りあげられた。北海道の体制としては「北海道精神作興会」の記録があるが、これは、詔書の趣旨をうけて大正13年3月に、多くの教化団体が連合し、それを官側か主導する強力組織で、道庁長官を会長として発足している。この会は市、支庁単位に支部を、町村単位に分会を置く組織体系で、昭和三年ごろまでには、全道にわたる組織化を果しているが、残念ながら本町に関する資料は散逸して見当らない。
 運動の典型な例としては、昭和4年9月から「教化総動員」と「経済緊縮運動」が表裏一体で展開されたことがある。また昭和8年の精神作興10周年の11月に設定された「精神作興週間」によると、
第1日(11月 7日) 時間尊重デー
第2日(11月 8日) 敬神修養デー
第3日(11月 9日) 節倹貯蓄デー
第4日(11月10日) 克己デー、精神作興10周年記念式
第5日(11月11日) 報恩感謝デー
第6日(11月12日) 職業礼讃デー
第7日(11月13日) 勤労奉仕デー
といった実践強調のあとがみられるが、昭和4〜8年は満州事変を真ん中にかかえ、農村が連続大凶作に苦しんだ時代であったから、国民精神作興運動は深刻に進行する軍国主義調の色彩を強めつつ、民生は緊縮と自力更生という名分で勤倹力行を強いられたのであった。

青年訓練所  学校教育における小学校課程以外の各種課程については、明治23年の小学校令第二条第三項に示された「徒弟学校及実業補習学校モ亦小学校ノ類トス」にはじまり、
 明26・11文部省令「実業補習学校規程」
   諸般ノ実業二従事セントスル児童二小学校教育ノ補習ト同時二簡易ナル方法ヲ以テ其ノ職業二要スル知識技能ヲ授クル所トス
 明32・2 「実業学校令」
    実業補習学校は実業学校の一種とする

と、次第に明文化されたが、単に奨励される程度のもので、北海道ではあまり設置をみなかった。しかし、第一次世界大戦を径験した過程で政府は、戦後不況の克服もさることながら、世界の列強に伍するための国民の資質の向上が課題であることを痛感し、大正9年になって時勢即応の法改正を行った。
 大9    「実業補習学校規程」改正
    小学校ノ教科ヲ卒へ職業二従事スルモノニ対シ職業二関スル知識技能ヲ授クルト共二国民生活二須要ナル教育ヲ為ス
 大12     設置に対する「国庫補助要項」
 大11・12 北海道庁令「実業補修学校補助規定」

こうして積極的な設置奨励が行われたが、ここらあたりから国際軍事均衡に一大転機が到来して、男子青少年に関しては、実業補習学校課程とは異質のコースを歩まされることになるのである。それが青年訓練所である。
 青年訓練所は、大正15年4月の勅令第七十号「青年訓練所令」によるもので、「青少年ノ心身ヲ鍛錬シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」を目的とし、16〜20歳の小学校課程修了の男子を対象に、徴兵検査までの期間中軍事教練を施すために設置された。
 設置者は町村長(一部大事業所など)で、小学校に併置され、各小学校長が主事に任命され、四カ年の課程が課せられた。訓練科目および時間数は、
  科目
時数
修身公民科 普通学科 職業科 教練科
年  間
全 課 程
25
100
50
200
25
100
100
400
200
800
で、履修の内容とするところは、
(1) 修身公民科 道徳の要旨、公民心得
(2) 普通学科 普通文の講義および作文、筆算および実業数学、内外地理および歴史の大要
(3) 織 業 科 農村においては農業
(4) 教 練 科 体操および軍事教練
  となっており、(1)(2)は小学校教員の兼務、(3)は農会技術員、(4)は在郷軍人の中の適任者が委嘱されて指導に当る仕組みであった。なお、訓練所修了者には軍隊の在官現役年限(二年)を半年間短縮するという特典が与えられていた。
 本町でも大正15年7月1日から、湧別、川西、芭露、上芭露、計呂地の各小学校に併置して、訓練を開始している。青年訓練所で物々しかったのは、年に一度の教練査閲で、陸軍の連隊区司令部から査閲官(佐官板の将校)が来村して、厳しい査閲を行い、関係者は査閲官の講評の一言一句に緊張したのであった。
 満州事変を契機として、青年訓練所は益々重要性を加え、軍隊の予備校的色彩が強くなったのに伴い、適齢者の入所難緩和のため、昭和八年から東芭露、床丹に、翌9年から志撫子、中番屋、西芭露にそれぞれ増設をみ、昭和10年の青年学校設置まで存続した。その間の設置状況を、村勢要覧などから抜粋してみると次のようである。
 区分
年次
訓練所数 主事 指導員 生徒数
昭7
昭9

10

10
14
33
166
273
 なみに、昭和10年4月(青年学校開校は八月)の入所適齢者は567名で、うち入所者は323名と、入所率は57%弱に止まっていた。
女子実業補修学校  青年訓練所の項で既述した実業補習学校の法制経過から、「実業補習学校補助規程」が設けられて、助成金の裏付がなされたことと、道庁の積極的な設置奨励指導方針があったことを背景として、本町では昭和3年10月27日の村会で、女子青少年を対象とした「村立女子裁縫専修学校」の設置がきまり、翌4年1月20日から湧別小学校に併置して開校した。その学則の第一条には、
  本校ハ女子ノ為メ実業補習学校ノ規程二基キ裁縫、家事、手芸二関スル知識技能ヲ授ケ併テ義務教育ノ補習ヲナスヲ以テ目的トス
とあり、通年制2年課程と半年制(季節制)の二部を設け、校長は湧別小学校長が兼任した。こうして男子青少年の青年訓練所に見合う女子青少年の補習教育施設ができたのであるが、就学者は少なかったらしく、当時の村勢要覧によると、昭和4年7人、同5年9人、同6年2人という状況で、翌七年から通年制は廃止され、農漁業という地域事情に応じた季節半年制のみとなったが、それでも村勢要覧によれば、昭和7年15名という就学状況であった。
 昭和8年「村立女子実業補習学校」と改められ、村としても就学勧奨を積極的に行って、昭和9年の村勢要覧では47名を数えている。なお、実業補修学校設置に伴い、全村的に女子教育を志向する気運が高まり、実業補習学校の教育内容に準じて、各小学校下で青年団事業として営まれた冬期開設の裁縫塾などがあったが、本町では学則に準拠するものとして、補助金を交付していた。

高等科の増設  高等科進学への関心が高まるにつれ、芭露、計呂地方面からの入学者もあったが、それらの児童は湧別に寄宿しての通学であったため、精神的にも経済的にも支障があった。大正7年に上芭露尋常小学校に補習科が併置されたのは、そうした実情を緩和するための便宜的借置であったと思われる。同14年の村会で、
 テイネー以南各校通学区域二高等科ナク各校卒業生百四十名二対スル高等科進学ノ道ヲ開クタメ上芭露を最モ有利トス
との提案理由で、上芭露尋常小学校に高等科設置がきまり、芭露方面の進学条件が好転した。同校高等科のその後の入学状況の推移をみよう。
     区分
年次
学  年 在籍数 うち女子数 女子の割合(%)
大14(設置年) 一年
二年
13

15・38
14・30
昭 6(五年後) 一年
二年
57
31
17
29・82
22・58
昭11(十年後) 一年
二年
37
23
13
35・13
26・09
次いで昭和4年、同じような理由から芭露尋常小学校と計呂地尋常小学校に高等科が設置された。両校高等科の当初5年間の就学状況は、
区分
地区
昭2〜6尋卒者 昭4〜8高卒者 進学率(%) 高卒中女子 同上割合(%)
芭 露
計呂地
135
120
55
48
40・74
40・00
14
不明
25・4
となっているが、上芭露、芭露、計呂地の各高等科が設置されて、ほぼ全村に進学の利便がおよんだ時期の村内全体の就学状況は、次のとおりである。
   区分
年次
総   数 うち女子数
尋常科卒業 高等科入学 入学率(%) 尋常科卒業 高等科入学 入学率(%)
大11〜昭6 711 612 86・0 339 240 70・8
 全掲の三つの表は統計基礎が異なるため、正しい比較はできないが、就学の地域差と男尊女卑的な女子の就学の低さがうかがえる。

教育費の推移  農業開拓がほぼ全村におよび、産業形成が複合して市街や集落の形成が進むにつれて、義務教育学校の建設が進み、厳しい村財政のやりくりで充実がはかられ、昭和一桁年代には、近年の統合以前の学校配置が実現し、全村を網羅する形となった。
  【学齢児童数】
年 次 昭  2 昭  4 昭  6 昭  8 昭 10
児童数  1.861  2.027  2.181  2.247  2.347
  【学校配置】
    年次区分

学校名
昭7 昭9 昭11
学級数 児童数 学級数 児童数 学級数 児童数
尋常科 高等科 尋常科 高等科 尋常科 高等科
湧別尋常高等小学校 13 604 116 720 13 639 127 766 14 593 150 743
芭露  〃 5 239 26 265 5 219 36 255 6 279 52 332
上芭露 〃 4 208 54 262 5 217 82 299 5 297 85 282
計呂地 〃 4 166 28 194 4 183 35 218 4 193 36 239
川西尋常小学校 2 92 - 91 2 95 - 95 2 89 - 89
信部内 〃 2 93 - 93 2 97 - 97 2 85 - 85
東芭露 〃 3 165 - 165 3 136 - 136 3 146 - 146
西芭露 〃 2 92 - 92 2 80 - 80 2 84 - 84
志撫子 〃 3 142 - 142 3 153 - 153 3 150 - 150
床丹  〃 2 142 - 142 3 148 - 148 3 142 - 142
登栄床 〃 湧別小学校所属特別教授場 同  上
    計 40 1.942 224 2.166 42 1.967 280 2.247 45 2.024 323 2.347

i以上に加えて青年訓練所および女子実業補修学校が設置されたので、各種補助規定があるにはあったが、町村間の財政力の相違により、教員給与や学校施設に不均等がある時代であったから、平均以上の水準を維持経営するためには、なみなみならぬ村財政の運用がなされたことは想像に難くない。







  【教育費支出予算】
 区分
年次
経     常     部
小学校費 実業補修学校費 青年訓練所費 学事諸費 小  計
昭 7
昭 9
昭11
44.747円
45.934円
49.658円
625円
617円
青年学校費
1.043円
2.232円
3.195円
1.005円
1.125円
1.246円
47.420円
49.908円
54.099円
区分
年次
臨   時   部 合  計 村予算に対する
教育費割合
教育費1戸当負担 児童一人当
教育費
小学校営繕費 教員住宅
営繕費
小  計
昭 7
昭 9
昭11
24.570円
822円
1.362円
839円
160円
200円
25.409円
982円
1.562円
72.839円
50.890円
55.661円
52・2%強
43・0%弱
40・0%強
27円弱
28円弱
26円強
21円強
21円強
22円弱
 ちなみに、大正と昭和のさかいとなった大正15年の村予算で、教育費の比重をみると、歳入79,517円に対し、経常部歳出36,685円、臨時部歳出4,923円で、教育費歳出合計は41,608円となり、割合は52・3%であったから、昭和11年の40%強への道程は、学校教育の創成期をうけた充実期であったといえよう。

 昭和の小漁師top 百年史top (1) (2) (4)

(3)軍国主義教育の洗礼
青年学校  青年訓練所が、青年教育の名目を冠した軍事教育の場であったことは、概述ののとおりであるが、昭和年代に入って満州事変(昭6)、上海事変(昭7)と相次ぐ戦乱状況による格差異常性の悪化にかんがみ、より徹底した青年教育の構成の必要性を、軍部をはじめとして叫ばれるようになり、昭和10年3月1日に青年訓練所令と実業補修学校規定の廃止、同年四月一日に「青年学校令」と「青年学校教練査閲令」公布の運びとなった。
 青年訓練所と実業補修学校を統合改革した形の青年学校であったが、注目されたのは査閲令が加わったことで、初めて軍部の教育現場介入が法制上明示されたわけである。青年学校の本旨は青年学校の第一条に、
 男女青年二対シ其ノ心身ヲ鍛錬シ徳性ヲ涵養スルト共二職業及実際生活二須要ナル知識技能ヲ授ケ以テ国民タルノ資質ヲ向上セシムルコトヲ目的トス
と掲げられ、課程は次の四段階に組まれた。
課 程 入学資格
普通科 二年 尋常小学校卒業者
本 科 五年 三年 高等小学校卒業者・普通科修了者
研究科 一年以上 本科卒業者
専修科 特に定めぬ
また、履修科目と年間授業時間数も、次のように定められた。
時数
科目
男    子 女  子
普通科 本科1〜2 本科3〜5 普 通 科 本  科
修身公民科
普通学科
職 業 科
家庭裁縫科
体 練 科
教 練 科
  計
20
90
60

40

210
20
50
70


70
210
20
90



70
180
20
80

80
30

210
20
50

110
30

210
 本町では昭和10年8月1日から、湧別は青年訓練所と女子実業補修学校を統合して「湧別青年学校」とし、芭露、上芭露、東芭露、西芭露、志撫子、計呂地、床丹、川西の各青年訓練所は「農業青年学校」に改組、登栄床青年訓練所は「水産青年学校」に改組して発足した。校長は各小学校長、教科担任は小学校教員、教練科は在郷軍人の中の適任者に委嘱して指導が行われ、翌11年からは信部内にも農業青年学校が開校されて村内十一校となった。当時の開校状況は次のとおりである。
  区分
年次
学校数 学校長 指導員 生 徒
昭 11
昭 12
11
11
11
11
24
25

548

419
712
967

天皇の親閲  昭和9年4月3日に宮城(いまの皇居)前広場では、全国小学校教員代表を集めて「全国小学校教員精神作興大会」が聞かれたが、あたかも青年学校発足の前年であった。
 そして昭和11年の秋、青年学校生徒にとって晴れがましい出番がおとずれたのであった。この年9〜10月に北海道一円を舞台にした陸軍特別大演習が行われ、天皇は演習統監のため来道し、各地に行幸し、9月29日は帯広緑ケ丘飛行場において、天皇の親閲が行われた。本町からも在郷軍人や国防婦人会員、青年団員の代表に伍して、青年学校生徒の代表も帯広飛行場で受閲したが、男子は分列行進を行い、女子は奉唱隊として奉唱歌を歌って親閲を受けたのである。これに関して報告された参加者代表の記に、次の一節があるので参考までに記そう。
 九月十三日女満別飛行場二於テ網走支庁管内全員参集ナシ御親閲予行演習セリ、団員及ビ青年学校生徒、女子青年モ参加ス
九月二十九日曇天 五時起床六時校庭(注・帯広小学校)集合、中隊大隊ノ編成ヲナシテ飛行場二向ケ行進九時着、少憩ノ後二回予行演習ヲ行ヒテ昼食、三時十分ョリ分列行進開始三十数分間ニテ何ノトドコホリモ無ク修了ス、一同ハ芽出度陛下ノ御姿ヲ拝受スルコトガ出来タコトハ此ノ上モナキ名誉ナルコトデアル

 こえて昭和14年5月22日には、宮城前広場で全国から参集した青少年学徒の行進の親閲があり、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が伝えられ、文部大臣からも奮起を促す訓令が発せられた。以来この日を記念して青年学校では、毎年5月22日にこの勅語を奉読し、部隊行進、神社参拝、軍事演習などの行事をもつようになったのである。
 こうした一連の親閲行事は、青少年の天皇に対する忠誠心を固め、時局認識を洗脳するという教育的意義をもち、戦時国家統制と軍国主義を鼓吹する目的で行われたのである。
青年学校の義務化  戦線の拡大と兵力の補充は、徴兵の拡大に進み、壮丁教育調査の結果から、ひとしく強靭な体力と兵事知識および戦技能力を備えた青少年の練成が急務となったため、昭和14年4月に青年学校令が改正され、満一二〜一九歳の男子生徒(普通科と本科)の課程が義務制となった。
 義務化は、昭和14年4月1日現在の普通科第一学年から適用され、同20年で全学年義務化を達成するというもので、義務化に伴い校長や教員の専任化も進められることになった。この時期の青年学校の一端をうかがう資料に、昭和15年の「北見青年学校訓練大会」の記録がある。赤軍と白軍に分かれての戦闘演習であって、本町の青年学校生徒が赤軍であったか、白車であったかは不詳であるが、そのときの赤軍の記録は次のようである。
 七月四日 四時の汽車にて友軍続々来り、靴音高く遠軽中学校々庭(注=旧制中学校)に集合、其の場にて一千五百の生徒が赤軍になり、午後五時演習地中湧別に向け強行軍を開始した。
  七月五日 午前二時起床上湧別校発、愈々目的地中湧別に向ふ、しとしとと小雨降る中を三時半頃演習地に到達、すぐ其の場で戦闘開始せり、敵は中々手強く我が軍苦戦、豪雨の中五時半頃休戦ラッパが鳴る。

 次いで昭和18年に、道庁長官通達によって、青年学校整備拡充のため一町村一校の原則が示達された。その趣旨とするところは、
青年学校の整備統合、教授および訓練の強化徹底を期し、青年教育の画期的振興を図るべく・・・というものであった。これをうけて本町では、同年4月22日に登栄床水産青年学校、および川西、信部内、芭露、東芭露、西芭露、志撫子、床丹の各農業青年学校を廃止し、地理的条件を考慮して、次の三校に整理統合をおこなった。
校   名 旧  名  称 通  学  区  域
下湧別第一青年学校
下湧別第二青年学校
下湧別第三青年学校
湧別青年学校
上芭露農業青年学校
計呂地農業青年学校
テイネー以西一円
バロー地域一円
シブシ・ケロチ・トコタン地域一円

 区分
学校名
教員
(兼任)
指導員 男子生徒 女子生徒 生徒
合計
普通科 本 科 研究科 小 計 普通科 本 科 研究科 小 計
湧 別
川 西
信部内
登栄床
芭 露
上芭露
東芭露
西芭露
志撫子
計呂地
床 丹











23











26




13





12
55
114
17
26
24
64
51
46
43
48
62
34
529




14






53
122
21
35
27
91
60
57
52
57
66
49
637




15
12
19
12
13

22
113
35
17
13
10
35
34
32
10
24
33
27
270




10




11

66
44
23
17
60
54
57
25
41
51
55
449
166
44
57
44
151
114
114
77
98
117
104
1.086
と同時に、第一青年学校には専任校長が任命されたが、他は国民学校長の兼任が統いた。専任校長は沢西武雄(昭19‐6〜21・1)、菅原俊一(昭21・―〜22・4)であった。
 こうした青年学校の義務化は、明治時代以来なかった義務教育年限延長という点て、教育史上画期的なものではあったが、動機が戦争であり、国民学校高学年まで動労動員の対象がひろがって、教育全般が空洞化する中では、青年学校の統合整備による水準向上は望み得べくもなかった。終戦と同時に教練科の廃止や教科内容の転換が行われたが、目的を失った青年学校は就学者も激減し、新学制施行とともに消滅という形で姿を消した。参考までに、昭和16年当時の開校状況を後表にみよう。
国民学校  昭和16年3月1日に「国民学校令」が公布され、4月1日から小学校は国民学校に衣がえして、初等教育の臨戦体制が進行した。初等教育改革の趣旨は、
 未曽有ノ世局二際会シ国本ヲ不抜二培フタメ、国民全体二対スル基礎教育ヲ拡充整備シテ名実共二国民教育ノ面目ヲー新シ克ク皇国ノ負荷二任スベキ国民ノ基礎的錬成ヲ完フシ、将来二於ケル学制ノ根底タラシメン
というもので、「皇国民の錬成」が大眼目に掲げられ、知的な面よりも精神面の教育に重点が移された。
 本町でも湧別、芭露、上芭露、計呂地の各尋常高等小学校が、高等科を有する国民学校に、東芭露、志撫子、床丹、川西、信部内、西芭露、登栄床の各尋常小学校が、初等科のみの国民学校へと衣がえを行った。昭和16年の国民学校への移行当初の開校状況は、次の表のようであった。
 知識の統合、修錬と訓練の重視、教育と生活の融合、体位の向上を前面に押し出して、皇国日本の将来における学制の根底たらしめんとはいえ、戦時即応の措置でもあった国民学校の目的は、国民学校令第一条に、
  国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ、国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス
と明記され、到達すべき資質を次の五つの柱で示した,
(1)国民精神を体認し、国体に対する確固たる信念を有し、皇国の氏名に対する自覚を有していること
(2)透徹せる理知的能力を有し、合理創造の精神を体得し、もって国運の伸展に貢献しうること
(3)闊達剛健な心身と献身奉公の実践力とを有していること
(4)高雅な情操と芸術的、技能的な表現力を有し、国民生活を充実する力を有していること
(5)産業の国家的意義を明らかにし、勤労を愛好し、職業報国の実践力を有していること

校 名 学 級 数 教員数 児童数
初等科 高等科  計  初等科 高等科  計 
湧 別
川 西
信部内
登栄床
芭 露
上芭露
東芭露
西芭露
志撫子
計呂地
床 丹
 計
10
2
2
2
5
4
3
2
3
4
3
40
4
-
-
-
1
2
-
-
-
1
-
8
14
2
2
2
6
6
3
2
3
5
3
48
15
3
4
3
7
7
4
3
4
5
4
59
554
76
106
79
232
191
154
83
152
212
149
1.988
181
-
-
-
62
105
-
-
-
59
-
407
735
76
106
79
294
296
154
83
152
271
149
2.395
また、課程と教科編成でも大変革が行われた。
 (一)課 程
   修業年限は8年(初等科六年、高等科二年)で義務教育とする。ただし高等科は昭和19年からとする。
      国民学校令第八条
   保護者ハ児童ノ満六歳二連シタル日ノ翌日以後二於ケル最初ノ学年ノ姶メョリ満十四歳二達シタル日二属スル学年ノ終マデ之ヲ国民学校二就学セシムルノ義務ヲ負フ

 (二)教 科
 教科
区分
国民科 理数科 体練科 芸 能 科 実 業 科
初等科 修 身
国 語
国 史
地 理
算 数
理 科
体 操
武 道
音楽・習字・図画
裁縫(女)
高等科 右に家事(女)を加える 農業・工業・商業・水
産から選択
   各教科にわたり東亜及び世界、国防、郷土、公民の教材を重視する。
しかし、国民学校の歩みは当初の意図とは裏腹に、戦禍の洗礼で、青年学校同様に曲折の道をたどり、終戦を迎えたのである。大きな曲折には、
 (一)太平洋戦争の敗色が濃くなった昭和十八年一〇月に「教育二関スル戦時非常措置方策」が発表され、「義務教育八年制ノ実施ハ当分ノ内之ヲ延期ス」によって、高等科の義務化は延期され陽の目をみなかった.しかも非常措置方策の中には、高等科の勤労動員年間三分の一という要項が含まれていて、高等科の力が生産にあて込まれるようになった。
 (二)昭和二〇年三月に「決戦教育措置要綱」が出され、国民学校高等科以上の学徒は、同年四月一日から翌二ー年三月三一日まで、授業をやめて食糧増産や軍需生産、防空防衛の業務に動員されることになり、学校教育は著しくゆがめられ、後退を余儀なくされた。

といった時代相があった。当時、湧別国民学校に在学中であった押野健一は、次のように回想している。
  屋内運動場に神棚が設けられ、初等科一年生でも出征兵士の武運長久祈願の黙祷をしていたし、宮城遥拝、軍隊式の団体行進や体練のための駈け足訓練もあり、それらが毎日の日課に組み込まれていた。また、勤労奉仕で、何日も針葉油採集に出動したこともあった。
こうした曲折を学校沿革史からひろってみると、湧別国民学校では、
   昭19・10・ 9 軍人援護援農開始
    ″20・ 4 ・14 針葉油採集(高等科一、二年男子志撫子出動二週間)
    ″20・ 6 ・ 6 針葉油採集(高等科男子志撫子出動二〇日間)
    ″20・ 5 ・ 7 援農援漁動員下令

 があり、登栄床国民学校では次の記録があって、当時の村内国民学校全般の様態を物語っているといえよう。
   昭20・7・26 四年以上登栄床牧場二援農二行ク

高等科ほぼ全校に設置  結果は無期延期になったが、高等科の義務化が昭和一九年から施行されるという状勢が、高等科設置の気運に拍車をかけたことは確かで、本町においても、
   昭17 床丹
   昭18 志撫子
   昭19 信部内、登栄床
   昭20 東芭露
   昭21 西芭露

の各国民学校に高等科が設置され、高等科未設置校は川西尋常小学校のみとなった。これによって村内全体の高等科進学は次のように推移した。
 区分
年次
初等科在籍数 同   上
一学年平均
高等科在籍数 同   上
一学年平均
一学年平均の進学率
   (%)
昭16 1.908 男 953 318 405 男 227 203 63・83
女 955 女 178
昭20 2.001 男 1.024 333 445 男 243 222 66・66
女 979 女 203
 なお、上表の進学率は前節に記した大正11〜昭和6年の進学率に比して低下しているが、それは義務化された青年学校の存在が大きくかかわった結果とみられる。
義務教育費の負担軽減  昭和15年の画期的な行制改革に伴い、「市町村立義務教育費国庫負担法」が「義務教育費国庫負担法」に改正され、教員の俸給は市町村支弁から道府県支弁に移され、同18年さらに同法の全面改正があって、市町村負担として残されていた、年俸加俸、賞与、赴任旅費など、一切の人件費が道費支弁となり、学校創設以来なやみつづけた高比率の教育費問題も、大きく緩和されることになった。
    区分
年次
歳出経常費総額 同上のうち教育経常費 同上比率(%)

明31〜38
明39〜42
明43〜大6
大8〜昭14
昭15〜17
昭18
円  
30.779・150
53.433・932
78.535・875
1.348.190・735
404.957・430
129.777・840
円  
19.355・369
32.278・739
44.927・639
742.396・361
137.581・980
19.780・570

62・88
60・40
57・20
55・00
33・97
15・24
ちなみに、昭和16年度当初の国民学校教員俸給の村内概要は、次のようであった。
  区分
俸給
本科正教員 尋常科正教員 専科正教員 助教員
人  員 23 0 8 3 0 1 6 18


最高
最低
平均
135
55
78
-
-
-
105
50
73
55
40
47
-
-
-
65 65
28
44
40
25
27
 ※助教員の人員比率が多いのは、船倉による応召などで教員不足をきたし、中学校、女学校卒業の無資格者を採用したためである。
 こうして、経常教育費の大幅な負担減をみたことは、村財政の運用を助け、投資的教育費の捻出をやりやすくしたのは確かで、教育費支出は次のように漸減している。
 区分
年次
経常費 臨時費   計   一戸当負担 児童一人当

昭12
昭14
昭16
昭18

54.398
66.196
39.574
19.781

12.522
9.252
0
0

66.920
75.448
39.574
19.781

34・91
40・50
21・45
10・25

28・64
32・20
16・52
8・60
 ちなみに上表のうち昭和16年の経常費を、昭和11年のそれと比較してみると、青年学校義務化による強化的支出のほどが、次のようにあらわれている。
 区分
年次
小学校・国民学校費 青年学校費 学事諸費

昭11
昭16

49.658
30.568

3.195
7.606

1.246
1.400

54.099
39.574

強化団体の改編  社会教育の組織団体は、中央、地方を通じて、その数や系列が多く、末端町村では無益な重復がみられたが、日華事変〜太平洋戦争と進行する中で、国策の面から整理統合して活動の強化(一本化)を図ることが指導された。
 青少年団体の大きな改編の第一波は、昭和14年のことで、4月に、それまでの「大日本連合青年団」が「大日本青年団」に改組され、機構的な統合による中央集権化が期された。そして団存立の趣旨や使命も、それまでの「全国青年団の連絡提携に任じて、その共同の進歩発展を因って」きたものが、
  令旨を奉戴し、綱領に則って、今庄青年団の統制指導を計り、全国一体としての青年団の積極的活動を遂行する。
ことになった。令旨とは大正9年の閑院宮殿下のそれである。こうして北海道連合青年団も翌15年5月に「北海道青年団」に改組され、各市町村の青年団を傘下におさめた。この時点で下湧別連合青年団も「下湧別村青年団」に移行し、従来の単位青年団は分団組織となった。道庁はこうした流れの中で時宜に即して昭和14年、独自の青年運動として、五ヵ年を一期とした「青年勤労総動員」計画を策定し、修養団体としての青年団に銃後実践活動を期するよう布達するとともに、翌15年には道庁訓令によって「青年団設置要綱」を定め、
  時局ノ進展ハ青年団ヲシテ単ナル修養団体タルコトヲ許サズ、国運推進ノ主流トシテ活躍スルニ於テ真二其ノ存在ノ意義ヲ有スルモノナリ
と性格の変革を強調した。次いで昭和16年1月に第二波の改組が行われ、大日本青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会の4団体を統合して、「大日本青少年団」が結成された。北海道では2月に「北海道青少年団」が発足して、町村青年団の改編が進められ「下湧別村青少年団○○分団」の呼称が用いられるようになった。この時の本町の青少年団組織は次のようであった。
 区分
男女別
分 団 団   員   数 村費補助
25歳以上 25歳未満 20歳未満 16歳未満
男 子
女 子
 計
14
12
26
15
2
17
87
86
173
208
198
406
35
63
98
345
349
694
150円
100 
250 
しかし、男女別の分団組織は、当時を知る人の、
  団員の中で20歳を超えた者は次々と召集され、残るは20歳前の少年ばかり、これはいずれの団にも通ずるところで、反対に女子青年の方は非常に充実し、そのため時には男子青年の代り役を務めることがしばしば……
といった経過があって、16年中に合体し単一組織分団となった。そして、昭和17年には社会教育の元締めであった文部省社会教育局、道庁社会教育課が廃止されて、社会教育機構が消滅し、社会教育の空白を招来するとともに、すべてが決戦行政に組み込まれていったのである。昭和17年の道庁の指導方針をみると、
  本道開拓ノ聖勅ヲ奉シ、道民伝統タル質実剛健不屈不挑ノ屯田兵魂(道民精神=日本精神)ノ昂揚ヲ基調トシ、高度国防国家体制確立強化ノ要清二即応大東亜建設ノ指導者タルニ相応シキ国民錬成ヲ主眼トス
とあり、神祇奉仕、貯蓄運動、生産増強、銃後後援、国防訓練、勤労奉仕、健民運動が強調され、組織体制としては学校教育と不離一体のもとに地方長官を道の団長、青年学校長および国民学校長を末端単位団長としたが、この青少年団も、昭和20年「国民義勇隊」編成(行改編参照)のため解散させられた。
 婦人団体は日華事変が勃発したころから、動きが活発になったが、愛国婦人会や国防婦人会は、時局の要請に対応する特殊な性格のもの(文化編参照)で、社会教育上の教化団体とは異質の存在であった。教化団体としての婦人団体活動が本町でみられるようになったのは、昭和17年2月に時局を反映して、大日本連合婦人会、愛国婦人会、国防婦人会の発展的な統合をみ、「大日本婦人会」が発足してからのことである。大日本婦人会は20歳以上を会員資格とし、町村に支部が置かれ、戦時体制に即して国体観念の涵養、婦徳の修練、国防思想の普及および徹底を柱に、軍人遺家族援護、家庭生活刷新、非常事態への対処のための準備、隣保協力、貯蓄奨励、国防訓練などに励んだが、昭和20年に青年団体とともに、国民義勇隊に統合のため解散の運命をたどった。

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(4)父母の後援組織
父母会  学校教育の場ができて子供が通学するようになると、父兄は子供を通じて学校と教育のことに関心を深めるようになったが、初期においては、それが統一された組織活動にはいたらなかったようである。湧別小学校の沿革訪には、
  明治三十七年二月十一日父兄会、保護者八十名出席
   明治三十八年二月二十六日父兄会、学務委員有志ニテ三十八年度新教室増築決議

 とあって本町最初の「父兄会」の記録となっているが、教室増築決議が学務委員有志によってなされていることから推測すると、組織体としての機能はなく、時に応じて単発的に開いていた保護者の集会を、記録の便宜上[父兄会」と記したものと思われる。
 また、大正2年に開設された東芭露校では、同年「父兄会組織サル」「大正12年6月26日父兄会ノ発議ニョリ学童用雨傘70本ヲ学校二寄贈」とあるが、たぶんに地区機構の一部としてのものであったと伝えられている。
 地区事業と学校という関連では、川西にも教授所時代の明治43年7月に、部で催された馬頭観世音祭祭典寄付金の剰余金をもらって運動会を実施したところ大好評を受け、以来運動会は部の経費負担で行われるようになったという例がある。
 以上の例でもみられるように、地区事業の一環として学校建設や学校経費の負担補助の営みがなされていたことは、最初の「庶民教育の創成」でも述べたように、「学校の開基」「教育費の重圧」に起因する初期の一般的な流れで、区自体がおのずと保護者組織の機能を果たして経過していたといえる。従って、独自の保護者組織創立の記録は見当たらない。
保護者会  本町に初めて組織としての「保護者会』が誕生したのは、大正9年の湧別尋常高等小学校で、次いで翌10年に芭露尋常小学校でも誕生している。
  大正九年十一月四日保護者会創立発会式ヲ挙行<湧別小学校沿革誌>
  大正十年六月十日 保護者会結成<芭露小学校沿革誌>
がその記録であるが、当時の保護者会活動の一端をうかがう資料として、大正11年5月に各支庁長にあてた道庁内侍部長通遥かあるので、その一節を改革すると、
    小学校保護者会二関スル件
 近時小学校ノ父兄ガ児童保護者会ヲ組織シ学校家庭ノ連絡ヲ図り児童教育二協カスルノ企漸ク多キヲ加フルニ至りタルハ教育上屋シキコトナルモ、中ニハ会ノ計画乃至施設トシテ多額ノ会費或ハ寄付等ノ出費ヲ会員二求メ父兄ノ負担ヲシテ愈々多キヲ加ヘシメ徒ラニ自校ノ計画設備ヲ競フ等ノ弊二趨ルモノ斟カラズト被認候……

とあり、第一次世界大戦後の反動不況時の苦衷をのぞかせている。
 その後、大正12年に東芭露、翌13年に信部内、上芭露と相次いで保護者会の結成をみており、記録は不詳ではあるが、他校もほぽこの時期に結成したものと思われる。ただ川西では次のような経緯があった。
 大きい学校では保護者会などもできていたのであるが、川西では区長が自然的に学校の世話等も引受けていて、従って会費などというきまったものもなく、運動会だ、卒業式だという時は必要な金額を各戸から集めてまかなったものである。保護者会費として徴収するようになったのは、昭和になってからである。

ともあれ保護者会は、教育施設の充実や学校行事に協力して、大正末期から終戦にいたるまで、教育面における裏方として寄与したのであった。
後援会  戦後の昭和22年4月に湧別小学校の保護者会は「後援会」と改称したが、これは戦後の混迷が招いた世相を反映したちのであった。
 国家の再建は「平和主義二徹シ教養豊カニ文化ヲ築半民生ノ向上ヲ図リ・・・・:」<詔書>と、文化の高揚〜教育の振興が重要な使命となったが、インフレーションの進行で教職員の生活も一般住民同様に窮乏し、時代感覚の面からも教職員自身が聖職から教育労働者の自覚に様変りした。そこに教職員組合(労働組合)の結成があって、生活維持のためにはストライキも辞さない労働界の情勢が反映して、本町の教育界も極度に不安定な様相を呈したため、教職員の窮状打開による教育界安定を趣旨として「後援会」に改称したもので、食糧や生活補給金支給など厳しい一面も事業の中に含まれていて、容易ならぬものがあった。こうした流れは、やがてPTAが結成されてからも、社会経済状況の鎮静まで続いた。
 この後援会的な営みは、湧別小学校に限ったことではなく、他校にも大なり小なりあったと思われるが、全道的にみて市街地の学校(多級校)が教員数が多いうえ、教職員組合幹部も比較的集中していたし、いっぽう保護者側も職業面、生活経済面で多様であったから、後援会という組織的な展開か必要であったものと思われる。昭和25年に連合PTAが発足したときに、教職員の生活援護策も連合PTAで処理されるようになったとあることは、他校にも大なり小なりあったことを裏書きしており、志撫子小中学佼では昭和24年に、
  先生の生活補助として、1戸当り玄麦1貫600匁、先生1戸に薪3敷提供
したという記録が残されている。

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