第4編 行  政 戦 前 (4)

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    第1章第2章  第3章下湧別時代  第4章苦難の戦争体験  第6章湧別町時代  第7章開基百年の盛典

第5章 戦後の下湧別村
(1)敗戦の後遺症  
(2)食糧危機 
(3)農地改革 
(4)行政制度の民主化 
(5)戦後復興のあゆみ 
(6)戦後財政の軌跡 


第5章 戦後の下湧別村

(1)敗戦の後遺症
占領統治下に  昭和20年8月15日の降伏終戦により、わが国は全面的に連合国の占領政策のもとに組み入れられ、国民は開びゃく以来初めて占領統治という局面を体験することとなり、日本政府の施政は、すべて連合国軍総司令部(GHQ)の承認や指示指令にもとづくこととなった。 矢継ぎ早な指令に各級行政機関は、あるいは戸惑い、あるいは驚天する局面に立つことが多かったが、それらについては後述するほか、各編で詳述する。
 占領統治の大筋は、天皇を中心とする君主主義、軍国主義を排除して、自由平等を基調とする欧米流の民主主義国家に転換させることにあり、昭和21年1月1日に天皇は 「神格否定」 「人間天皇」の宣言を行った。

復員者と引揚者  旧陸海軍の武装解除による兵員の復員と、、旧日本軍占領地および朝鮮、樺太、台湾、千島、南洋群島など連合国軍の進駐管理下におかれた旧日本領土からの引揚者への対策は、終戦処理の中で村行政に大きくのしかかった。
 外地引揚者の受入れは、昭和21年現在で232戸743人の記録があるが、職業難、食糧難という厳しい状況下におかれていたから、漁業労務に従事して、かろうじて当座の飢えをしのぐ人も少なくなかった。 極端な困窮者には生活保護の方法が講じられたが、同年の状況をみると生活扶助家庭は52戸216人をかぞえ、その内容は、
  外地引揚者家庭19戸、未復員者家庭6戸、戦没者家庭12戸、戦災者家庭5戸、その他の家庭10戸と、引き揚げおよび未復員で半数を占め、それ以外にしても、直接戦争にかかわる困窮者の多かったことがうかがわれ、敗戦の後遺症の厳しさを伝えている。

 また、引揚者の受入に際しては、縁故者受入のほかに、無縁故者の収容という大事が控えていた。 道庁では各地に引揚者住宅を建設し、町村に管理を委託して無縁故者を入居させたが、本町でも次のような施設がなされ、役場と同胞援護会(前身は銃後奉公会)が協力して受入と援護に当たった。
棟 数 戸 数 坪 数 収容世帯 収容人員 引揚先
24 10 18 ソ連・樺太

次にほぼ引揚者受入が終わりに近づいたと思われる昭和24年現在の引揚者受入数の統計があるので、次に掲げよう。
抑留地 樺  太 千  島 朝  鮮 満  州 支  那 その他
区 分 世帯 人数 世帯 人数 世帯 人数 世帯 人数 世帯 人数 世帯 人数 世帯 人数
無縁故者 32 - - - - 3 15 - - 2 7 13 54
一 般 244 1.003 4 16 8 34 57 172 5 28 13 54 332 1.307
252 1.005 4 16 8 34 60 187 5 28 15 61 344 1.361

いっぽう復員軍人の帰還は、国内で従軍していた人達は比較的早かったが、外地にあっては連合国軍の進駐領、武装解除、捕虜として抑留、軍事裁判などの曲折があったり、船舶不足で輸送が滞ったりで、かなり遅れた人が少なくなかったうえ、戦争末期の戦場では敗退に次ぐ敗退、あるいは玉砕などで生死の確認がおぼつかなかったから、生存〜復員の確認にかなり手間取る局面もあった。
 また、生存していたものの不幸にしてシベリアの捕虜収容所にみられたように、帰還を果たさずして死去した人、満州や樺太でみられた終戦後の相手国軍らの掃討による斃死など、いたましい現実もあった。
 一部をのぞき、ほぼ生存が確認されたとみられる昭和24年現在の復員状況の統計があるので、次に掲げよう。
地域別 樺 太 千 島 朝 鮮 満 州 支 那 その他
区 分
復 員 者 45 42 48 697 843
未復員者 29 36
52 35 42 48 697 879

戦後開拓者  戦後開拓者については、開拓編でも概述下ので略述するが、これも引揚者同様に敗戦の後遺症を綴るものであった。 一例を東芭露にみれば、

 東芭露への入植者数は道内より13戸、道外より11戸、海外より2戸の計26戸183名であったが、これらの人々は未開拓の奥地に入植し、苦難の開墾に当たったものの、京都、大阪、東京など大都市からの転業帰農者もあり、しかも立地条件にも恵まれなかったので、悪戦苦闘の連続であったにもかかわらず、既存農家に伍して経営を安定させるにはいたらず、やがて新しい土地を求めたり、転業したりして、この土地を離れていった。

という状況であった。 ちなみに、引揚に戦後開拓も含めた戸口の増勢は、復員などによる自然増もあったが、次のようであった。
年 次 昭 20 昭 21 昭 22 昭 24 昭 25
区 分
戸 数 1.988 2.022 2.301 2.401 2.432
人 口 11.995 12.050 13.547 14.301 14.747

公職追放  矢継ぎ早なGHQの指令施策の一つに 「公職追放令」があった。 これは戦争指導の責任者は末端まで制裁するという意図のもとに発せられたもので、昭和21年1月4日にGHQが発した 「戦争協力者の公職追放」に関する覚書にもとづき、緊急勅令で公布されたものであった。
 勝てば官軍のたとえがあるが、かなり一方的なGHQの基準で摘発が行われ、戦時中の首長、大政翼賛会支部長、在郷軍人分会長、翼賛壮年団長らが追放の対象にされ、本町でも該当者が追放の憂き目にあった。 昭和21年11月8日付で村長職務代理助役安田重雄が発令されたのは、公職追放に伴い村上庄一村長が下野したための借置である。
 
 追放された人々は、昭和22年5月1日から起算して4年間は、公職に就くことも、諸官庁に出入りすることまでも禁じられていた。

食糧難と
インフレーション
 戦時中でさえ窮迫の度が進行しつつあった食糧事情は、昭和20年になって空前の危機を迎えた。 この年の北海道の米の供出実績が、わずか31%に過ぎない大凶作であったことが第一の原因であるが、総合的にみれば、他にも次のような要因が介在していた。

  (1)
 戦時中に国内食糧需要の20%を依存していた朝鮮や台湾からの輸入が途絶えたうえ、復員者で需要人口が増加した。
  (2)
 労力不足と肥料や資材の欠乏などで、農業生産は全般に低減を辿っていたが、それでも戦時中は供出を完納しないと非国民扱いされたから、とにもかくにも100%供出を果たしていたものの、そうした強制に対する反発が敗戦を迎えて意識化した。
  (3)
 戦後のインフレーションで、公定価格と闇価格の間に極端な格差を生じ、農民は公定供出代金だけでは生活を支え、かつ再生産物資を求めることが不可能な状態にあったから、やむにやまれず闇に横流しせざるを得なかった。

 こうした事情は、昭和20年の事務報告に、

 総力を主要食糧の供出促進に傾注したるに不拘、徙らなる世評に眩惑され出荷成績は憂慮すべき低位を出ず、為めに配給操作に蹉趺を来死消費の不審は非合法的買出手段を生む結果を招来し甚だ遺憾とする所なり

となってあらわれた。
 「非合法的買出手段」というのは、非農家にに対する主食配給基準が1日1人平均米2合に削られたうえ、しかも米は1ヶ月わずか10日分程度となり、他は麦、豆、つぶし燕麦、馬鈴薯のほか澱粉粕まで換算混入して配給されることになったが、それでも40日分前後の遅配欠配がつづいたので、市街地や都市の住民が自衛手段として、直接農家に食料の買い漁りに出向いたことを指している。 非合法、つまり闇食糧取引で、農家にとっては横流し、消費者にとっては買い出しということになったわけであるが、当時、インフレーションで貨幣価値がなかったから、農村で不足していた衣料品などを持ち込んで、食糧と物々交換する方法がはびこり、これを都市の人々は自嘲的に 「タケノコ生活」 「玉ネギ生活」と形容していた。

預金封鎖と新円切替え  終戦後の悪性インフレーションは、日本銀行の発行高に明確に反映されていた。 昭和20年8月15日に286億円であったものが、同年12月に500億円、翌21年2月に600億円と膨張したのがそれで、このため政府は同月17日に 「金融緊急借置令」を公布し、それまでの貨幣の流通を禁止し、預貯金を封鎖した。
 同令は、1人当り生活費を500円に制限して払い出しを承認し、紙幣に証紙を張って使用させ、いっぽうで新しい紙幣を発行して、旧紙幣を無効とする引き換えも行ったが、これにより一時的なインフレーションの停滞をみたものの、物資の需給事情が回復しないため大勢を抑止することができず、昭和22年1月の日本銀行券発行は1,000億円を突破する状況となった。 しかも、不如意な物資の需給に便乗した闇取引の横行から、新紙幣(「新円」と読んでいた)は有産者や闇屋に流れ込むという現象を呈し、 「新円成金」ということばが使われた一時期があった。

(2)食糧危機
昭和20年の凶作  前節で食糧危機について若干記述したが、特に本節を設けて詳述するのは、 「強権発動」という史上類のない政策の発動があったことを伝えるためである。
 昭和20年の北海道は春先からの冷温と雨にたたられ、 「低温多湿寡照型」の大凶作となり、全道の米の収穫量は15万dと前年の3分の1に落ち込んでし。まった 凶作が決定した10月に道庁で緊急食糧対策会議が開かれたが、次のような報告があって、一同声をのんだと伝えられている。

  米、麦、ジャガイモなど食糧配給予想は13万3千d、これに山野草の粉化食3千dを加えても13万6千dにしかならない。 これでは21年2月までの4ヶ月しかない。 3月以降21年産米の出る9月上旬まで約20万d必要だが、粉食やコンブ類1万7千dは供給可能であるとして、差し引き18万3千dが配給不可能になる。

このような状況に対して、政府や道庁がとった借置は、農耕者に対して食糧供給を督促し、横流しを取り締まるとともに、供出を渋るものには強権を発動するというもので、

 昭20・10 「緊急供出対策」
    代替供出を認める総合供出制と、供出割当消化の個人責任制を規定したもの。
 昭21・ 2 「食糧緊急借置令」
    未供出分の強制収用を規定したもので、食糧管理法により認められていた自家保有にもおよぶとされた。
 昭23・ 7 「食糧確保臨時借置法」
    作付前に供出量を割当てし、作付強制を規定したもの。

など、一連の法制借置がそれである。

 
強権発動  強権の発動は、昭和21年3月末の期限付きで 「供出勧告状」が供出未了者に出され、次いで、なお未了者に同年4月上旬 「供出督促状」が発せられ、されに、なお未了者に同月中旬 「収用令状」の発令が行われるという手順であった。
 応じない物には3年以下の懲役又は1万円以下の罰金刑が課せられるという厳しいものであったから、村の行政目標は、もっぱら食糧確保に向けられ、割当量の獲得や供出業務に役場や農業会をあげて取組み、昼夜の別なく村内を駆け回り、供出懇請に涙ぐましい努力を傾注したものである。 その一つに昭和20年11月22日から15日間の 「食糧危機突破運動期間」の設定があり、関係者の総力を傾けたが、結果は前節概述の事務報告のようであった。

 昭和21年の全道産米も供出の割当の80%に満たず、そして翌22年、初の公選田中敏文知事が道政に登場し、 「強権無き明るい供米」 「生産費を償う価格の引き上げ」 「農民に肥料と農機具の確保」を掲げたが、その田中知事も強権発動、不供出罪適用の借置をとらざるを得なかった。 もっとも、昭和22年2月 「雑穀にも強権発動」、同年3月 「21年度産米に対する強権発動」と、公選前に概に手はずが整っていたという事情があったこともかかわっている。

 強制供出は、以上のように厳しいものであったから、低収量農家や貧農は自家保有食糧から翌年の再生産種子まで供出し、いわゆる 「裸供出」をしなければならなかった。 このため政府は飯米や種子の還元配給を実施したり、昭和22年3月からは衣料などの報償物資や肥料、農機具などの特別配給も実施したが、農家の増産と供出意欲を満足に高揚するにはいたらなかった。

危機からの脱出  塗炭の苦しみにあえいだ食糧危機が、内外の情勢の変転で脱出の兆しをみせたのは昭和22年からの、
 (1) 作況の上向き
 (2) 占領地域救済金(ガリオア資金)と占領地経済復興基金(エロア資金)による援助小麦(毎年200万d)がアメリカから導入された。

によるもので、同24年GHQの肝いりで実施された超均衡予算(ドッジ・プラン)の実施で、インフレも収まり、食糧の闇価格も下落して危機を脱出した。
 昭和24年の薯類の統制撤廃にはじまり、漸次農産物の統制の撤廃が進み、営農の自主性も回復し、作付統制が緩和されたことについて、昭和25年の農産係事務報告では、

 本村農業に黎明をあたえるものとして、農村経済確立上まことに欣快に堪えない次第であります。

と、供出業務に苦労を重ねた担当者の解放感が、率直に表明されていた。 参考までに、空文にひとしかった戦後の米の配給基準(1人1日分、単位=グラム)をみよう。
年齢別 1〜2歳 3〜5歳 6〜10歳 11〜15歳 16〜25歳 25〜60歳 60歳以上
年次
昭21・11 160 220 290 370 380 355 320
昭23・11 210 270 320 400 405 383 333

食糧調整委員会  昭和17年以来の食糧供出制度の実際は、弱肉強食的な弊風が拭い去れず、常に小作農や零細農民が裸供出の憂き目にあうことが多かった。 戦後それらの弊風除去が大きな要望となって湧き起こったことから、昭和21年に食糧管理法施行規則の一部が改正され、町村に「食糧調整委員会」を設置することになった。
 委員会は耕作者代表、部落会長、村長が推薦する臨時委員で構成されたが、折からの食糧危機で弊風除去どころか、食糧危機突破の大任に寄与する調整弁的存在となった。
 その後、食糧事情の脅迫から昭和22年8月に 「農業生産調整法」が施行され、より合理的な供出の確立をめざして、公選による食糧調整委員会を設置することとなった。 任期2年でスタートしたが、農民の苦表と強権の間に挟まれて苦労をせざるを得なかった。

農業調整委員会  昭和23年7月に事前供出割当を含む 「食糧確保臨時借置法」が公布され、その関連立法で食糧調整委員会が解散されて、同年11月公選による 「農業調整委員会」の設置となった。
 この委員会は資金、再生産、資財、生産、供出、報償などを一貫させた食糧生産計画の審議に当てる機関で、任期は2年であったが、食糧危機からの脱出のため、任期が延長され、昭和26年の農業委員会法公布施行まで存続した。

(3)農地改革
第1次農地改革  終戦妥結の基調となったポツダム宣言には、明確に 「日本国民の民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし」と謳ってあったが、その一つが農地改革であり、昭和20年12月早くもGHQから 「日本の土地制度改革と農民開放に関する覚書」が手交された。 その内容は、昭和21年3月15日までに、次の諸計画を骨格とする農地改革案をGHQに提出すべしというものであった。
 1,不在地主より耕作者に対する土地所有権の移譲
 2,耕作せざる所有者より農地を適正価格を以て買い取る制度
 3,小作収入に相応せる年賦償還による小作人の農地買収制
 4,小作人が自作農化したる場合再び小作人に転落せざるを保障するための制度
これを受けた政府は、農地調整法の一部改正によって実施しようとしたが、その内容が 「地主と小作の協議によって自作農地化を図る」という不徹底なものであったから、全国各地に農民の全国解放闘争が展開され、昭和21年6月GHQからも厳しい練り直しの勧告があって、無実施に終わっている。 これを第1次農地改革という。

第2次農地改革  勧告を受けた政府では、さらに農地調整法を改正(昭21・11・22施行)するとともに、 「自作農創設特別借置法」を昭和21年10月に公布(昭21・11・22施行)し、ついに実質的な全面開放という一大事業が開始されることになった。 その骨子とするところは、不在地主の持つ全小作地と、在村地主の持つ平均1f(北海道は4f)を超える小作地を国が強制買収し、直接小作人に売り渡すというもので、これが第2次農地改革という。

 この事業は、農地委員会が国の委任を受けて実施し、のち農業委員会に移行されたが、昭和22〜25年の間に買収され、小作者に売り渡された土地は次のとおりである。
  牧 野  2,756町0710歩
  未墾地  3,013町8019歩
田  畑  別
区     分
 不  在  地  主 20町4225 678町4300 698町8525
 在  村  地  主 13町6808 881町2000 894町8808
 法人団体の所有地 4町4704 196町2713 200町7417
 地主から申し出た農地のうち小作地 158町1311 158町1311
38町5807 1,914町0311 1,952町6201
このうち牧野は農業付帯地として売り渡され、、未墾地は主として帰農者や農家の2〜3男独立者を対象に、自作農創設地として開拓農家を創設するとともに、一部既存農家の増反用に配分された。
 こうして約50%を占めた小作農は解消され、昭和18年1,006だった農家戸数は同24年に1,318戸にふえ、放置されていた未利用地が農地に変身し、農業生産が拡大されることとなった。

農業委員会  農地改革のために設置された 「農地委員会」は、公選による階層別委員で構成され、任期は2年であった。 最初の委員は昭和21年12月22日に選挙が行われ、

 小作層(5名)  山崎四郎、押野栄治、高橋種二、如沢次郎、金子久太郎
 地主層(3名)  楠瀬浩一、宮崎宏、横山吉太郎
 自作層(2名)  本間資義、内山繁太郎

の10名が選任され、翌年1月事務局を設置して業務に取り組み、同年3月第一回の買収を実施した。 その後、昭和23年12月に任期などに関する特別法によって、第一期委員の任期が同4年6月まで延期された。
第二期委員の公選は、昭和24年8月に行われたが、買収〜売り渡し業務の進展に伴い、階層別に変化があったことから、農地調整法の一部改正があり、選出方法が、
  一号委員(小作農)  5反歩移譲小作地を耕作している者2名
  二号委員(地主層)  5反歩以上小作地を貸与している者2名
  三号委員(その他(  前記に該当しない耕作者又は農地の所有者又は農地の所有者6名

と改められて、

  一号委員  臼井信一、吉田慶吉(昭25・5・28死去)、渡辺由雄(昭25・7・20補選)
  二号委員  宮崎宏、神達要
  三号委員  山崎四郎、押野栄治、如沢次郎、本間資義、内山繁太郎、村井豊助

が選出され、昭和26年7月まで種々困難を排して業務を進め、農地改革の大任を果たした。 そして残務もほとんど完了した昭和26年3月 「農業委員会法」が施行されるとともに、発展的解消となった。

農地報償法  農地改革には後日談があった。 それは 「私有財産を不当に売り渡すのは財産権の侵害である」として、違憲訴訟を起こすケースがあり、昭和28年最高裁判所で敗訴となったが、次いで、その矛先が国家補償の要求に向けられていたところ、政府は昭和40年になって世論と野党の反対を押し切り、 「農地報償法」を成立させ、1,600億円にのぼる金額を旧地主に交付したのである。

 昭和40年といえば、高度経済成長で零細自作農家の多くが離農を余儀なくされ、農村に過疎現象を現出していたときであるが、それは農地改革達成以来15年にしてみる対照的な現実であった。

(4)行政制度の民主化
新憲法と地方自治法  昭和22年5月3日に 「日本国憲法」が発布され、占領統治により実質的に廃止にひとしい存在であった旧「大日本帝国憲法」は消滅して、軍国主義的封建的君主国家から、主権在民、戦争放棄、人権尊重、自由平等を謳った民主主義福祉国家に転換する路線が確立された。
 また、時を同じくして昭和22年4月17日に公布され5月3日に施行された 「地方自治法」は、新憲法第八章の地方自治に基づく民主主義思想を根幹とする地方自治制度を定めたものであった。 基幹とするところは、
 1,地方公共団体の議事機関の設置(憲法93条第1項)
 2,地方公共団体の主要機関の直接選挙(憲法第93条2項)
 3,地方恐々団体の行政権の確立(憲法94条)
 4,一地方公共団体だけに適用される特別法についての住民投票制度(憲法95条)
であって、

 従来内務大臣および知事(北海道は長官)は都道府県および市町村の監督官庁として監督上必要な命令を発し、または処分することができたが、このような一般的な監督は廃止して監督は凡てそれぞれの既定に準拠してこれを行うものとし・・・・

というように、 「住民による住民のための住民の政治」が標榜され、それまでの国の必要により、省令一本でいつでも自治体に干渉できた中央集権的な町村制の打破となり、特別扱いであった北海道(地方長官制)も含めて、すべての都道府県と市町村に民主自治の行政権が与えられ、国の委任事務も法律または、それに基づく政令がなければ委任できないことになるとともに、それに要する財源も国が必要な借置をとることとなった。 したがって自治体と国の関係は、上意下令から、国が指導助言をもって自治体を支援する形となったのである。

選挙制度の改革 戦後の行政改革で最も大きな改革のあったのが、選挙制度の改革である。 男女の差別なく満20歳以上の者にひとしく選挙権が与えられ、併せて被選挙権も満25歳(知事と参議院議員は30歳)移譲の男女にひとく与えられたのであるが、特に婦人参政権の実現は、女性の自覚を促すことにより、封建社会を打破しようとする民主化の決定打といえた。

 この権利は、昭和21年4月10日の総選挙から行使されたが、新制度による当初の主な選挙の状況をみると、概して女性の投票率が低く、また身近な村長、村議会議員選挙の投票率は高いが、閉じ、道議会議員〜衆議院議員〜参議院議員の選挙となるにつれて投票率が低くなっている。
区     分 有  権  者  数 投  票  率
選  挙  別
昭24・ 1・22 衆議院議員 3.263 3.216 6.479 74・7 57・0 65・9
昭25・ 6・ 4 参議院議員 3.579 3.561 7.140 70・7 57・1 63・9
昭25・11・10 教育委員 3.461 3.445 6.906 51・0 43・0 47・0
昭26・ 4・23 村長・村議会議員 3.247 3.243 6.490 97・0 93・4 95・2
昭26・ 4・30 知事・道議会議員 3.242 3.236 6.478 87・8 76・4 82・1

首長公選と村三役  従来、村会で選任されていた村長は、地方自治法第17条により村民の直接選挙で選ばれることとなり、北海道庁長官も北海道知事と改められて、道民の直接選挙で選ばれることとなった。
 村長は村を代表して、村の一般行政や法律によって委任された業務を管理執行する第一番の責任者で、その任期は4年とされ、身分的には常勤特別職の地方公務員となった。 なおまた、村長の補佐を務める助役および収入役の任期も4年とされ、常勤特別職扱いになったほか、収入役については任期中は解職できないこととされた。

 公選首長が住民の付託にこたえて行う行政は、 「地方自治法」のほか 「地方公営企業法」 「地方公務員法」 「地方財政法」 「地方交付税法」 「地方税法」 「地方教育行政の組織および運営に関する法律」などに基づいて組織され運営されるが、戦後改革をみた民主行政執行の特色は、こうした種々の立法にみられるように、民意を充分に反映させるために内容が細分化され、それぞれに合議制の機関(委員会など)が設けられるようになった点にあるが、それらについては項を改めて詳述する。

 昭和22年4月5日に第一回の村長選挙が行われたが、大口丑定ただ一人の立候補で無投票当選となった。 同26年の改選では31歳の宮崎宏が青年層の支持で立候補し、大口丑定と逐鹿戦を展開したが、4,149票対1,820票で、大口丑定の再選となった。
 助役および収入役の選任は、それまでと変わらず、村議会の同意承認を得て任命されたが、戦時中からの安田重雄助役のあと、昭和22年7月22日に上原安雄が助役に選任され、2期7年9ヶ月(昭30・4・4退任)を歴任した。 また、収入役は戦前からの吉田綱貞が昭和29年3月3日に病気退任するまで重任した。
 
 なお、昭和21年11月8日から公選村長誕生の同22年4月5日まで、安田重雄が村長職務代理助役として村勢執行に当たっていたが、これは公職追放による村上庄一村長の退任後の空白をうめるものであった。

議会制度  国会、道会といわず町村会にいたるまで、戦時中は執行機関や行政府の隷属的存在におかれていた弊害を除去し、立法と行政監督の権限を確立するため、国会が衆議院と参議院に、道会は道議会に、市町村会は市町村議会に改められ、議員も村会議員から道議会議員、村議会議員と改称された。
 また、昭和21年10曙町漁業権津4日の 「地方自治制度改正法律」の公布施行により、議会運営の在り方が大幅に改訂され、従来、町村長が兼ねていた議長の座は、議員の互選による議長および副議長にゆだねられ、議決機関独立の形が成立した。 本町では同年10月7日の村会で正副議長選挙が行われ、国枝善吉が議長に就任した。
 婦人参政権が実現した戦後第一回の村議会議員選挙は、昭和22年4月30日に行われたが、女性1人を含む46名が立候補して、定員26名の椅子を争う激しい選挙戦となったが、候補者の顔ぶれは新人41名、全議員5名と、はっきりと時代の変転を示していた。 そして、当選者も新人23名、全議員3名と新生の息吹が漂うものとなった。

 昭和26年4月23日に行われた海鮮でも40名の立候補をみて、激戦となったが、全議員が現職の強みを発揮して15名当選と過半数を制した。 戦後第一〜二回の当選議員は次のとおりである。

 □第十六期  昭和22年4月30日(26名)
  大野新造(議長)、鍵谷薫、如沢元治、島崎卯一(副議長=昭24・6まで)、伊藤庄恵、佐藤富治、茶山秀吉(副議長=昭24・6から)、押野栄治、阿部文男、江田喜太郎、白崎政名、谷口勇、中原円次郎、西栄一、石川武男、高須実、高橋貫一、本間資義、桑原真平、原田政人、内山繁太郎、清水清一、山下音市、渋葉安雄、斉藤浅太郎、大沢義時

 □第十七期  昭和26年4月23日(26名)
  鍵谷薫(議長)、小林定次郎、阿部文男、多田直光(副議長)、松下栄一、嘉多山吉郎、佐藤富治、南川保一、伊藤清太郎、深沢近則、本間資義、大沢義時、白崎政名、茶山秀吉、矢崎次郎、清水清一、谷口勇、伊藤庄恵、押野栄治、西村幸太郎、高橋貫一、遠峰栄一、如沢元治、小谷幸九郎、石川武男、内山繁太郎

なお、村議会は審議の能率化を図るため、常任委員会制が採用され、昭和26年当時の常任委員会は、内政、文化、産業、土木、懲罰の5つであった。
 議会制度の確立は、それだけ議員に重責が課せられたわけで、前時代的な名誉職(町村制第十六条)の域から脱皮し、特別職公務員として職務を遂行しなければならない存在となった。 このため、職務に応じた職務対価として、相当報酬額(歳費)を支給することとなった。

選挙管理委員会  昭和21年10月4日 「地方制度改正法律」が発布され、同法による選挙管理委員会を設置することとなった。 これは、従来道庁長官あるいは市町村長が管理していた地方選挙を、 「道会あるいは市町村の議員選挙管理委員会」を設けて、選挙事務を管理執行させるというもので、同年10月7日の村会において 「下湧別村会議員選挙管理委員」4名の選挙が行われ、委員会が発足して、村長および議員選挙の管理執行と、直接請求制度による住民投票の管理を行うこととなった。 これが現在の選挙管理員会の前身である。
 翌22年4月17日に地方自治法が制定され、選挙管理委員会は自治体の執行機関として、各種公職選挙事務の一切を処理することとなって、名称も 「下湧別村選挙管理委員会」と改められ、ニンキモ2年から3年に延長された。 さらに同5年には 「公職選挙法」が制定され、選挙管理委員会の既定は地方自治法に、選挙事務の管理執行は公職選挙法に規定されることとなった。 次いで昭和27年には行政の簡素化を図る趣旨で行われた地方自治法の改正で、委員定数が3名に減員された。
 この制度には正規の委員の他に、委員定数と同数の補充員が常時任命され、委員の欠員に備える仕組みで、その後、昭和33年に定数が4名に復し、同37年には任期が4年に改められた。 歴代委員は次のとおりである。

 渡辺満雄、大野新造、小川市十、渡部清三、桑田多一郎、井谷一男、豊原正一、阿部三義、樋口久郎、栄重義、小池清、田部武、内山武男、福原保、岩佐常雄、山川保男、村口初男(昭50・3〜現)、上田健次(昭51・11〜現)、加藤秀夫(昭51・11〜現)、伊藤章(昭53・6〜現)

そして、選挙管理委員会は、選挙のたびに選挙事務と併せて、棄権防止や公明選挙について啓蒙宣伝も行っている。

公平委員会  昭和25年12月13日に 「地方公務員法」が公布され、地方公共団体に 「人事委員会」または 「公平委員会」を設置して、自治体職員の給与、勤務条件に関する要求事項などについて審査判定させ、職員に対する不利益処分を解消する途を開くことになり、翌26年に 「下湧別村公平委員会」が設置された。 委員の定数は3名で任期は4年とされ、議会にはかって選任されるものであった。 歴代委員は次のとおりである。

 小沢虎一(昭26・8〜38・9)、坂口要(昭26・8〜30・3)、砂田栄太郎(昭26・8〜34・9)、豊原正一(昭31・8〜39・9)、小池清(昭34・9〜41・12)、石渡要助(昭38・9〜41・12)、高須美夫(昭39・9〜41・12)

しかし、15年を経て自治体職員に関する問題は、一町村に止まるものでなく、近隣町村に共通する事項が多いところから、昭和42年から 「網走支庁管内町村公平委員会」を設置し、共同借置をとるようになった。

農業委員会  昭和26年3月に 「農業委員会法」が公布され、4月から施行されたが、これは、それまであった農業調整委員会や農地委員会などが、相互の関連性に欠けていたことから、農地改革や食糧事情が一段落した時代にふさわしく、農業施策を総合的に掌握する組織の必要にもとづいたもので、次の業務を担当することになった。

 1,執行業務
  (1)  農地の調整に関すること
  (2)  自作農の創設維持に関すること
  (3)  農地の利用、管理、幹旋、調停に関すること
  (4)  農地等の交換分合に関すること
 2,詰問業務
  (1)  食糧の生産計画に関すること
  (2)  農業の総合計画に関すること
 委員は公選委員と選任委員(議員、学識者、農業関係団体から村長が議会の同意を得て任命)からなり、任期は3年である。 昭和26年7月20日に第一回の選挙が行われて以来の歴代委員は次のとおりである。
□第一期  昭和26年7月20日(20名)
   公選  亀田伊三郎、白田正雄、本間資義、本間彙、松永忠一、押野栄治、佐藤源治、内山繁太郎
        越智修、藤根正重、桑原喜平、多田直光、如沢次郎、阿部秀吉、桑原円次郎
   選任  友沢喜作(会長)、土井重喜、宮崎宏、清水清一、中原円次郎
□第二期  昭和29年7月20日(16名)
   公選  白田正雄、本間資義、山喜一郎、樋岡信義、野口広治、井戸敬、越智修、藤根正重、中原円次郎
        村井玉吉、多田直光(会長)、阿部秀吉
   選任  土井重喜(昭30・6・10まで)=山重太郎(昭30・6・29より)、押野栄治、清水清一、如沢次郎
□第三期  昭和32年7月20日(21名)
   公選  白田正雄、本間資義、山喜一郎、伊藤進、松下栄市、井戸敬、大場奏、石田達雄、藤根正重
        中原円次郎、石山宣次、橋本二助、伊藤庄恵、洞口正喜
   選任  白崎政名、鍵谷薫(昭34・2・20まで)=羽田宏(昭34・2・20より)、押野栄治治、清水清一
        越智修、多田直光(会長)、如沢次郎
□第四期  昭和35年7月20日(21名)
   公選  白崎政名、本間資義、伊藤進、松下栄市、井戸敬、佐藤茂(昭38・6まで)、石田達雄、島田琢郎
        藤根正重、桑原喜平、阿部市太郎(昭36・4まで)、橋本二助、伊藤庄恵、洞口正喜
   選任  羽田宏、伊藤誠司、押野栄治、清水清一、越智修、多田直光(会長)、如沢次郎(庄37・11・20まで)
        =沢田豊松(庄37・11・20より)
□第五期  手話38年7月20日(21名)
   公選  白崎政名、本間資義、小川清巳、簗部勇吉(照9・2まで)=横関薫(昭39・2より)、伊藤守寿
        横谷力三、島田琢郎、板東栄、藤根正重、梶井政雄、佐藤豊太郎、寺山甚作、渡辺武、洞口正喜
   選任  沢田豊松、羽田宏(昭39・7・20まで)=勝本正次(昭39・7・20より)、押野栄治(会長)
        渡辺満雄、越智修、長谷川隆、如沢次郎
□第六期  昭和41年7月20日(21名)
   公選  本間資義、小川清巳、福田敏、伊藤守寿、糟谷力三、井戸敬、島田琢郎(会長)、板東栄、藤根正重
        梶井政雄、伊藤留作、寺山甚作、渡辺武(昭44・3・31まで)、洞口正喜
   選任  沢田豊松、高久喜三郎、勝本正次、渡辺満雄、如沢次郎、越智修、長谷川隆
□第七期  昭和44年7月20日(21名)
   公選  本間資義、福田敬、伊藤守寿、井戸敬(昭44・12・2死去)、松永忠一、島田琢郎(会長)、板東栄
        藤根正重、武田鉄蔵(昭47・4・22まで)、伊藤留作、多田直孝、渡辺芳良、洞口正喜
   選任  如沢次郎、長谷川隆、小川清巳、越智修、羽田宏、中川繁雄(昭46・5・26まで)=沢田豊松(昭46
        ・5・27より)、渡辺満雄(昭45・7・5死去)=友沢市男(昭45・7・24より)
□第八期  昭和47年7月20日(21名)
   公選  本間資義(会長)、鎌田雅彦、阿部謙一、伊藤守寿、井戸定利、高橋延幸、内山幸一、坂東栄、
        高橋三郎、仁瓶寿広、佐藤信雄、多田直孝、渡辺芳良(昭49・6・13死去)、洞口正喜
   選任  如沢次郎、長谷川隆、小川清巳、高橋正三(昭48・5・7まで)=藤根湧治(昭48・5・8〜49・4・30)
        =越智修(昭49・5・1より)、羽田宏、沢田豊松(昭48・4・30まで)=真坂保男(昭48・5・1より)
        友沢市男
□第九期  昭和50年7月20日(21名)
   公選  本間資義(会長)、阿部謙一、佐藤幸、井戸定利、高橋延幸、佐々木鍵、板東栄、内山幸一、
        高橋三郎、佐藤信雄、仁瓶寿広、多田直孝、洞口正喜、伊藤武雄(昭51・7・19死去)
   選任  羽田宏、越智修、真坂保男(昭52・4。27まで)=伊藤達美、(昭52・4・28より)、友沢市男
        黒田実、如沢次郎、細川隆人
□第十期  昭和53年7月20日(21名)
   公選  阿部謙一、宮本尚明、佐藤幸、井戸定利、伊藤達美、佐々木鍵、内山幸一、板東栄、
        高嶋三郎、佐藤信雄、仁瓶寿広、多田直孝、洞口正喜(会長)、村井義雄
□第十一期  昭和56年7月20日(17名)
   公選  阿部謙一、井戸定利、伊藤達美、内山幸一、佐藤信雄、佐藤幸、高嶋三郎、洞口正喜(会長)
        宮本尚明、村井義雄、仁瓶寿広
   選任  越智修、蒲田雅彦、羽田宏、友沢市男、福原保、細川隆人

 
教育委員会  教育行政の民主化と自主性、そして地方分権の確立を根幹とする 「教育委員会法」は、昭和23年7月に公布され、その第一条に、

 教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実態に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成する。

と掲げられて、戦前戦時中の権力従属を排除したものであった。 同法の骨子をみると、
 1,教育委員会は地方公共団体の行政機関であり、かつ合議制の独立機関である。
 2,教育委員会は都道府県および市町村に設置される。ただし町村は連合して一部事務組合を設け、
   その組合に教区委員会を設けることができる。
 3,都道府県教育委員会は7名の委員で、市町村教育委員会は5名の委員で組織する。
   そのうち1名は地方議会の議員が五選で選び、残りは住民が投票して選ぶ。
   なお、委員の任期は4年で、2年ごとに半数を改選する。
 4,教育委員会は、従来都道府県知事、市町村長に属していた教育、学術、文化に関する事業を管理執行する。
   小、中学校職員の人事権は市町村教育委員会の所管とする。
 5,教育委員会に教育長を置き、教育委員会が一定の有資格者の中から任命する。
   教育委員会に事務処理のため事務局を設け、必要な部課を置く。
 6,教育に関する予算は、教育委員会が必要な経費を見積もり地方公共団体の長の査定を受けるが、
   違憲が整わない場合は、長が査定した予算案並に教育委員会の見積もりをそえて議会に提出し、
   議会の判断を待つこと。
という大変革であったが、これには後年異論が台頭して、改正されている。
 昭和23年10月5日に第一回の公選が行われて、11月1日に教育委員会が発足したのは、都道府県と五大都市のみで、市町村の設置は特例法により時期尚早として、4年間の猶予期間があった。 ところが昭和27年8月に国会の抜き打ち解散があって、特例法が期限切れとなり、市町村は特例期間の消滅する同年11月1日をもって教育委員会を設置しなければならない羽目に陥った。

 このため、本町でも昭和27年10月に教育委員4名の選挙が実施され、議会選出1名を加えて 「下湧別村教育委員会」設置となった。 昭和31年に任命制に移行するまでの間の教育委員は、

 武藤源久、友沢喜作、清水清一、森垣幸一、越智修
が名を連ねており、教育委員長は武藤源久(昭27・11・1)、友沢喜作(昭28・11・1)、森垣幸一(昭29・11・1)、武藤源久(昭30・6・13)と継承され、教育長は藤原末吉が一貫して就任した。

シャウブ勧告と税制改革  終戦後の社会情勢の変化と地方制度の改革、さらに物価指数の急騰に伴い、概住の税収入では予算需要を満たすことが不可能となり、道や市町村では法定外独立税の設定など新税創設に追われていた。
 そうした情勢の中で、昭和24年5月にアメリカのコロンビア大学教授カール・シャウブ博士を団長とする 「対日税制調査団」が来日し、3ヶ月半にわたる調査を行い、同年9月15日に地方財政の完全な確立を主眼とする、いわゆる 「シャウブ勧告」が行われ、これに基づいて翌25年4月1日に税制はじまって以来の画期的な地方税法の大改正が実施された。

 なによりの目玉は、シャウブ勧告が特に 「地方行政の最低水準を保障するための地方財政均衡交付金制度の導入」を日本政府に強調したことにより、従来の税外収入である地方分与税に代わるものとして、 「地方財政均衡交付金」(昭29地方交付税に改正)が創設されたことであった。 これは基準財政収入額の不足額を国が補償し、町村財政の自主性と均衡調整を図るもので、自治体財政には大きな恵みとなったが、のちに 「五割自治」 「三割自治」などという中央従属財政の幣を生むことにつながったことも確かである。

固定資産評価
審査委員会
 昭和25年4月の地方税法改正により 「固定資産税」が町村の法定普通税として創設され、同税にかかわる法制として 「固定資産評価機関」の設置が示されたので、本町でも翌26年11月1日に条例による 「固定資産評価審査委員会」を設置した。 任期3年の委員3名によって構成され、課税の公正を期するため家屋、土地、償却資産などに対する評価員の評価に対する異議申し立てについて審査する。 なお、委員は町長が議会の同意を得て選任することになっている。 歴代評価審査委員および評価員は次のとおりである。

     (固定資産評価審査委員)
 川口藤五郎(昭25・9〜26・11)、友沢喜作(昭25・9〜26・7)、伊藤石松(昭25・9〜38・4)、
 国枝善吉(昭26・8=36・4)、大野新造(昭26・11〜36・4)、桑田多一郎(昭36・4〜41・7)、
 大野貫一(昭38・5〜41・5)、内山幸一(昭41・7〜47・7)、伊藤金一(昭36・4〜50・3)、
 南場均(昭41・5〜47・3)、野村勇一(昭47・7〜現在)、林勝弥(昭47・3〜51・5)、
 山田勝昭(昭50・3〜現在)、原田繁雄(昭51・5〜現在)

     (固定資産評価員)
 渡辺寛二(昭25・9〜29・1)、半田要(昭29・6〜31・11、34・9〜40・9)、
 畠山幸雄(昭31・12〜34・9,40・9〜43・8)、木下正徳(昭43・8〜54・12)
 田中篤一(昭54・12〜現在)

(5)戦後復興のあゆみ
分村問題の終熄  昭和19年の村会で分村決議が行われたまま、戦局の変化や終戦の混乱で伏せられていた芭露方面の分村問題は、同21年9月23日の村会で大口議員が動議を出したことにより、再び討議にのぼり、下湧別村を湧別地区、芭露地区、計呂地地区に分割する決議がなされた。
 三分村決議にもとづき、昭和22年10月の村議会に分村の具体的な実施方法が詰問案として提出されたが、島崎議員の、

 本案は住民の意向その他を参酌し、しかる後、慎重なる答申を要すると思考致しますので、暫時保留を願いたい。

との発議により保留され、翌23年1月になって村議会に再度提出された同案に対し 「三分村決議のまま実行に移す」と答申された。
 しかし、分村地域側議員の考えは、新村の経済的自立が可能である場合においてのみ実施すべきであるとの慎重論が支配的で、分村発想当初の地域格差の解消などは第二義的なものに追いやられ、昭和23年5月の村議会で決議の実施可否を詰問した結果は、

 財政調査の結果は分村後の住民負担の過重なることが予想されるに付、分村は白紙に還す。

との議決変更がなされ、村民の関心事であった分村問題は終熄した。

 
床丹の佐呂間村編入  開村以来隣接する佐呂間村に経済依存度が高かった床丹地区は、村の中枢地区が遠隔なための不便解消と経済的負担軽減を図るため、地域住民の自主的判断の結果、同地区を下湧別村から分離して佐呂間村に編入する運動を行う気運となった。
 昭和23年11月28日に地域住民170名がこぞって、佐呂間村に編入方の陳情を行ったので、同年12月9日の村議会では境界線を定めて分轄決議を行ったが、水面を含む境界の線引きで佐呂間村との話し合いがつかず、さらに網走支庁長の調停案も出されたが難航し、数次の議会でようやく決定線を生み出し、昭和25年7月22日の両村協議会で一件落着をみた。
 昭和25年11月15日付で告示され、面積2,991平方q、戸口181戸1,016人が佐呂間村に編入され、本町の町域が現在の形になったのである。

駐在員の配置  村行政の末端組織として太平洋戦争(大東亜戦争)末期から連絡中継を果たしてきた隣保班(町内会、部落会)組織は、戦争遂行組織の残滓であるとして、占領政策により昭和22年3月31日に解散廃止が通達され、同年5月31日で消滅した。
 しかし、当時はまだ生活物資の配給や行政改革による通知など、住民に直接影響する業務が多く、末端機能を欠くことは住民の福利を著しく滅殺するところから、村として旧町内会部落会単位に、役場事務を担当する駐在員を配置することとし、村内各地区から適任者を選んで、6月1日付で駐在員に任命した。 当初は事務手当年額500円でスタートしたが、戦後混乱が鎮静するにつれ、その職務内容は区長時代のそれに復元し、昭和33年条例による区設置が実現するまで存続した。 歴代駐在員は次のとおりである。

 錦 町  山下外造、安藤昇一、臼井信一、秋野権右ェ門、簗部勇吉
 川 西  黒田真次郎、小川清一郎、吉田金之助、掛橋清美、清原松太郎
 信部内 加藤松之助、山崎四郎、四関重四郎、白田正雄、森田文次郎、安部時雄、端場政吉、五十嵐八郎、
       北村米太郎、井谷一男
 緑蔭1  梶清次郎、岩佐惣吉、岩佐幸吉、佐藤宇一郎、片岡幸章、近江武
 緑陰2  西塔運次郎、佐々木清記
 登栄床 岡島水主蔵、相場留吉、山口章吾
   東   松下栄市、野口広治、押野栄治、菅原貞三
 福 島  山本安一、徳永政一、横関薫、若松卯吉、中村梅次郎、山田浪造、佐藤伝、高柳喜重
 芭露1  長屋鉄次郎、大沢博、熊谷春造、庄司喜三郎、大石橋正夫、大崎竹茂、上田清、小林国雄
 芭露2  長屋鉄次郎、可智源次郎(長屋鉄次郎芭露区長の後1,2に分区された)
 上芭露 福永章、伊藤清太郎、後藤徳三郎、恩田林作、長谷川清次郎、遠藤孝省、加茂武男、和泉達三、長谷川兼松
 東芭露 中原敏男、越智孝太郎、三木寛太郎、青木文吾、藤井文雄、山岸広一
 西芭露 村井玉吉、峯田繁蔵、宮田富蔵、伊藤辰五郎、阿部市太郎、大隅政雄、小田春吉
 志撫子 雨宮清重、井田光次郎、市川恒雄、桑田多一郎、寺山甚作、橋本二助
 計呂地 中山佐太郎、前野宗太郎、斉藤甚八、田村実春、阿部秀吉

なお、湧別市街地区は隣保班に代えて町内会に総代を設け、連合町内会(総代会)を組織したので、この組織が駐在員の役割を果たしたが、昭和28年から次の駐在員を委嘱した。

 児玉寅蔵(港町)、中内武男(曙町)、小川清十(緑町)、豊原正一(栄町)、砂田栄太郎(平和町)

  
役場出張所の開設  自治権が拡大され、民主行政が進むにつれて、住民の行政に対する需要も拡大され、執行の即時性も要望されるようになったことから、役場の出張所を中枢地区に開設して、周辺住民の利便を図ることになり、

 昭22・8  芭露出張所
  昭24  上芭露出張所(芭露出張所から分設し、上芭露、東芭露、西芭露を管轄)
       計呂地出張所(芭露出張所から分設し、計呂地、志撫子を管轄)

を開設した、出張所には職員を常駐させ、納税、墓地および火葬場、印鑑登録、妊産婦、国民健康保険、国民年金、転出入、使用料および手数料、災害発生報告などについて、その手続きや交付、あるいは出納業務を行い、わざわざ役場まで出向く不便を解消した。
 なお、出張所設置に関する条例は、昭和26年8月11日に設定(追認)されている。

村公報の発行  民主行政にとって不可欠な要素に 「意思の疎通と相互理解」という課題がある。 そこに紙面を通じて行政執行の側と住民の対話をという発想があらわれ、広報紙の発行が実現したのである。
 昭和24年8月に創刊をみた広報紙は、タブロイド版2頁の未熟なものであったが、村政の概要を知るうえで、また生活の暦との関連のうえで村民に喜ばれたものであった。 以降内容の充実、写真の挿入等改善されて現在では10〜14頁の例月発行をみている。

役場機構の変容  戦争終結により戦時色の事務が消滅したが、代わって混乱する社会情勢に対応する諸業務が輻輳して、事務量は雑多に増大するとともに、機構も民主福祉の色彩が浮かんできた。
 昭和20年9月末に応召職員の復員による職場復帰に伴い、戦時中に採用した女子職員10名の整理退職が行われ、10月1日から次の機構で民主行政の執行に取り組んだ。

総務課 庶務係、調査係、戸籍係
財政課 財務係、税務係、出納係
産業課 農産係、水産係、畜産係、林産係、商工係、拓殖係、土木係
社会課 援護係、健民係、民生係、教育係

さらに、昭和22年の地方自治法の施行により、自治権が拡大され、行政の民主化がいっそう明確になったことから、役場機構も逐次現実即応の体制に改められ、同26年には上記の体制がしかれた。

 このときの村三役を除く職員数は42名で、昭和15年当時に比し倍増していた。

新学制への対応  昭和22年4月施行の 「学校教育法」は、義務教育期間3年延長を柱とする6・3制教育の整備を打ち出したものであった。 小学校6年に加えて新制中学校3年を義務教育としたもので、文化国家建設にふさわしい教育体系となったが、これへの自治体の対応は、戦後混乱と資材難、加えて財源窮迫の中で 「厳しい」の一語に尽きるものがあった。
 とりわけ新制中学校開設は至上命令とされ、財政事情のいかんにかかわらず
実施が促され、 「6・3制と供出は町村長の命とり」とまで極言されたほどであった。 本町でも昭和23年の中学校建設費の63%は借入金に依存したし、湧別中学校新築に際しては、校下住民に愛村公債への協力を募るほか、敷地造成役務の寄付(奉仕)を得るなどして、かろうじて完成をみた。 全校完成にいたる5ヵ年間に要した建築費は、財政総支出の約13%に当たる2,418万5,000円余におよび、そのうち1,248万5,000円(51・6%)は起債でまかなうという難渋であった。

開村50周年
記念式典
 昭和22年9月14日に、湧別小学校において開基65年開村50年の佳節を祝う記念式典が行われた。 10年前に行われた40周年記念式典のときは、戦勝で意気大いに挙がったのであったが、この日は社会的にも個々人的にも、ようやく敗戦の混迷と空虚から脱しかけたときとあって、平和回復の喜びの中にも、戦争犠牲者に哀悼の念を捧げるとともに、新生日本そして下湧別村の前途に幸あれと念ずる集いとなった。 当日、式典の席上で表彰された功労者は次の人々であった。

 自治功労  大野新造、森垣幸一、村上庄一、長江紋平、吉田綱貞、田川信男、小川市十、和田収、
         西村幸太郎、土井重喜、大沢重太郎、島崎卯一、小沢虎一、新海忠五郎、神達要、小川清十郎
         伊藤金一、佐藤源治、金子久太郎、友沢喜作、原田政人、国枝善吾、真坂浅吉、茶山秀吉
         多田直光、長谷川善蔵、石塚義雄、伊藤庄恵、梶井佐太郎、横山勇
 産業功労  岡島水主蔵、工藤常治、播摩栄之助、村上留蔵、飯豊健吾,古谷泰寿、青山崎重、野津不二三、
         杉本祐進、内山繁太郎、小湊善吉、長屋嘉市、越智頼義、白崎三蔵、図子甚助、横尾吉作
 開拓功労  上井沢伝、武藤留助
 教育功労  横山隆博、堀川幸太郎、岳上徳市、川上益夫、安藤おこ、後藤ヨシオ
 民生功労  小田孝作、熊岡篤、仲西祐諦
 節   婦  浅井リヘ、阿部菊枝

 
戸口の増勢  戦後の戸口の増勢には、二つの側面が起因していた。 その一つは戦後開拓者や引揚者の転入という戦後混乱の所産で、戦後復興前期の現象であり、もう一つは応召や徴用からの復員による家庭生活形態の正常化と結婚の増加によるもので、戦後復興後期の現象である。
区   分 戸  数 人           口 1戸当人員
年   次
昭  20 1.988 5./808 6.187 11.995 5・03
昭  21 2.023 5.883 6.167 12.050 5・96
昭  23 2.308 6.964 6.975 13.939 6・04
昭  25 2.433 7.459 7.288 14.747 6・06
床丹分轄 2.252 6.844 6.732 13.576 6・03
昭  27 2.286 6.967 6.904 13.871 6・07

次に、区別戸口、職業戸口、人口動態を掲げるが、各統計を現在と比較すると、地区の動態、産業の動向、出生や婚姻の多いことなど、隔世の感がある。

            【地区別戸口】  昭27
区分 戸数 人口 1戸当人員 全村に対する比率(%)
区別 戸数 人口
湧別(4号線含む) 710 4.008 5・64 31・1 28・9
登栄床 101 649 6・43 4・4 4・7
川西 95 649 6・83 4・2 4・7
信部内 59 381 6・45 2・6 2・7
114 742 6・51 5・0 5・3
福島団体 52 333 6・40 2・3 2・4
緑陰 28 213 7・60 1・2 1・5
芭露 384 2.100 5・46 16・8 15・1
上芭露 180 1.119 6・22 7・9 8・1
西芭露 66 465 7・05 2・9 3・4
東芭露 134 863 6・44 5・9 6・2
志撫子 117 789 6・74 5・1 5・7
計呂地 246 1.560 6・34 10・1 11・2
2.286 13.871 6・07 100・0 100・0

            【職業別戸口】   昭27
職業別 農 業 林 業 漁 業 工 業 商 業 金融業 運 輸
通信業
サービ
ス 業
公 務
自由業
その他
区 分
戸 数 1.037 16 168 301 204 21 100 86 238 115 2.286
人 口 6.769 100 1.219 1.686 1.115 127 564 468 1.194 629 13.871

            【人口動態】    
区 分 出  生 死  亡 婚  姻 離  婚
年 次
昭 23 601 153 286 23
昭 25 524 171 211 10
昭 27 531 169 235

(6)戦後財政の軌跡
インフレ予算  戦後の悪性インフレーションにより、貨幣価値に一大変動があり、貨幣価値に一大変動があり、諸物価や人件費が急上昇し、日本銀行券の発行も急増したため、村財政規模も年ごとに急激な累増をみせ、インフレ予算の様相を呈した。例を村税収入にとってみると、

  昭20   10万3170円
   昭21   61万6767円
   昭22  268万0931円
   昭23 1029万4044円

という急テンポの激増であった。 そして歳入総額も、

  昭20   57万1000円
   昭24 3410万1000円
 
と約60倍に膨張する異常さであった。 ちなみに、当時の一般会計決算をみると、
区  分 予  算  (円) 決  算  (円)
年 度 歳  入 歳  出 歳  入 歳  出
昭 23 28.377.273 28.377.273 33.027.314 18.292.666
昭 25 56.940.086 56.940.086 48.363.626 39.885.209
昭 27 79.625.126 79.625.126 64.219.589 62.488.626

のように、財政の膨張に伴い予算と決算に差が現れている。 また決算では剰余金を出しているが、運用上の適否は別として、懸命に健全財政を維持した後がうかがえる。

村税の改廃  戦後、概住の税収入だけでは財政需要を満たすことが不可能になったため、各町村とも法定外独立税の創設を検討し、紋別郡方面でも昭和21年から馬橇税、衛器税、二歳牛馬税、ミシン税、特別原動機税、養蜂税、立木伐採税、家畜取得税、特別行為税などが創設され、昭和23年には接客人税も仲間入りした。
 また昭和23年には道税の改革があり、営業税が廃止され、新に事業税と特別消費税(入場税、酒消費税、遊興飲食税、原動機税、電気ガス税、家畜移出税、木材取引税)が新設されたので、それらの付加税も村税の増収に見込まれた。

 しかし、それでもインフレの速度に追いつけなかったために、昭和24年には村民税賦課要領を定めて、前年に条例化した賦課基準の所得割50%、資産割30%、均等割20%を、それぞれ60%、20%、20%に改め、1戸平均賦課額を1,875円とし、その決定には見立てを加味するという増税が計られた経緯がある。
 次いで、ようやく経済復興の兆候をみてインフレーションが沈静化しかけた昭和25年4月1日、シャウブ勧告にもとづいた地方税法の大改革があり、町村の法定普通税としては村民税、固定資産税、自転車税、荷車税、電気ガス税、鉱産税、木材引取税、広告税、入湯税、接客人税の10種目、法定外普通税として犬税、ミシン税の2種目が設定され、本町では12種目中鉱産税と入湯税を除く10種目の税を採択した。
 特に注目されたのは村民税と固定資産税で、村民税(住民税)は従来の見立割制が廃止されて、所得税を基礎とする課税方式に改められ(均等割と所得割の合算)、固定資産税は土地、家屋、償却資産の資産を評価して賦課する新税であった。

 こうした村税の改廃により、村税に占める村民税の比重は次のように変わり、大衆課税的な色彩が濃くなった。
区  分 村税総額 (A) 村民税総額 (A) (A)に占める(B)
年  度
昭 24 18.077.908 4.102.008 22・7%
昭 25 12.087.853 6.330.459 52・4%

平衡交付金  シャウブ勧告の置きみやげは、国税にも大きな改正をもたらし、国税に 「勤労所得税」が創設され、勤労大衆にも源泉徴収方式による所得税が賦課されるようになったが、国税に吸収された所得税などの見返りのような形で、政府から自治体に対して 「地方財政均衡交付金」が交付されるようになったので、村税負担率が減少する結果となった。
区 分 歳入総額(円) 村税総額(円) 平衡交付金(円) 村税の対歳入比(円)
年 度
昭 24 34.101.521 18.077.909 52・8%
昭 25 48.363.627 12.087.853 12.323.000 25・0%
昭 26 47.315.452 15.777.153 11.979.000 33・3%
昭 27 62.219.589 18.269.434 18.492.000 29・3%


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