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東京画

2003-04-22(火)


amazon.co.jp :
東京画


ヴィム・ヴェンダース東京画』(1985年作品)

ヴェンダースの映画のこだわり、さまよう
敬愛する小津安二郎の『東京物語』(1953年作品)から始まり、『東京物語』で終わる映画。

83年の東京と小津が追い続けた東京を並べ、現代社会のさまよいを現した映画。

畳に座った目線にこだわり、俳優には指示以外の芝居をさせなかったと語る小津組の連中。それでいて舶来品を好み、それを自分のものにしようとした人。

日本が近代化と共に失っていったアイデンティティへの郷愁と近代日本に生き続ける「日本ぽさ」
花見客の宴、パチンコの釘師、レストランのサンプル品作り。

映像を見ていて、とことん『ベルリン・天使の詩』(1987年作品)のヴェンダースの映画なのだけど、映像に映し出される街並みは日本。

アメリカ文化のいいとこ取りをしていっても日本人はやはり日本人であり、街並みは日本。
今後、テクノロジー化されていく中、日本人らしさ、日本の街並みはどのように変わっていくのだろう?

ガルシア・マルクスの弛緩した冒険ルポルタージュ『戒厳令下チリ潜入記』(1986年作品)
ゲイの司祭の苦悩を描いた映画アントニア・バード監督『司祭』(1994年作品)
元祖ホームレスとも言えるリリアーナ・カヴァーニ監督『フランチェスコ』(1989年作品)
読んで、観て、「障碍はモラルなり」と感じたけれども「モラルは障碍なり」ではないと思う。
小津さんのようなこだわりを持てる人は現れないだろうし、
ヴェンダースのようなこだわりを表現できる人はいない。

「個性とモラル」どちらが大切なのか。
テクノロジー化されたとしても世界中画一化された社会など望まないし、テクノロジー化で自分の身体を変えられたくはない。

ありのままのそれぞれを活かせる社会の有り様を考えなければ、自分が自分でなく、自分が生まれてきた意味もなくなる気がする。

「見事死にます国のため」糞食らえ。

ルイス・ブニュエルが言った『自分が嫌でなければ何をやってもよい
シュールリアリズムのこの考えを阻害する「モラル」が「障碍」「差別」なんだろうなぁ。

規則としての「障害者差別禁止を明記」ではなく、
自分は自分であり、「障害者」ではない。あるいは「健常者」ではない。

「どうでもいいけど『障害者』」「どうでもいいけど『健常者』」
「どうでもいいけど『男性』」「どうでもいいけど『女性』」
「どうでもいいけど『ヘテロ』」「どうでもいいけど『ゲイ』」

これが大切なのでは。

だから、手落ち直す『障害者基本法改正案』が必要。

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