Click here to visit our sponsor

ECサイトのお勧め商品カタログ|映画好きのBS/CSガイド

身も心も(ボディ・アンド・ソウル)

From 2003-07-23(水)
To 2003-07-31(木)

人間は「動く物」

健康維持のため通い始めたジムでインストラクターの方が「こんなコンクリートジャングルにいないで自然にふれあおう!」と豪語してました。
確かに文明はマイナスイオンを減少させているし。。。

人間は「動物」。「動く物」であり、「動かなければ駄目になる物」でもあると自ら整体を学び、インストラクター務める社長も言っていた。

「幼い頃、相撲や鬼ごっこが大好きでした。このとき、筋肉を使おうとか脂肪を燃やそうとか何も考えずただひたすら汗をかくほど動くことが楽しかった。運動会や遠足など、体を使う楽しいこともいっぱいありました。けれど大人になって一緒に遊んだ友達は皆どこかへ行ってしまい、面白い遊びや楽しかった場所が自然に少なくなっていきました。」

チラシのご挨拶でも書かれているここの社長のごあいさつ、いいなぁと思ったりもしています。

関連ページ:

このエッセイの先頭へ戻る|

マスメディア

このところの一連の猟奇事件に対する報道にうんざり気味ですが、長崎市の幼児誘拐殺人事件での見識者とか言う御仁が「幼児愛、サディスティック、同性愛がミックスされてる」とか「異常な育ち方をした」とか、大きなお世話、社会に役立たぬ発言。
だったら、どうすれってーの?と聞き返したくなる。

被害者が気の毒ならば、それなりのキャンペーンを流せばいいのだし。

そして、報道の名を借りて、観る側の精神錯乱はやめて貰いたいものとも思ってしまう。

英米イラク侵攻の報道で極度の脅えを訴える子供達もいた事を忘れないで欲しい。

先日、ワイドショーで日本全国で300名強しかいない「病理医」の現状を報道する骨太な企画を作れるマスメディアであるだけに、なおの事、思ってしまいます。

このエッセイの先頭へ戻る|

頭部分離手術

先日(2003-07-08)シンガポールで行われたイランの双子姉妹の頭部分離手術。
昨日(2003-07-23)午前中の「とくダネ!」では執刀医のひとりだった日本人の方が状況説明していました。

用事を足しながら観たので、細かな事は聞き逃してますが、ラレーさん、ラダンさんには通常ないはずの二人共有の静脈があり、それを医師団が発見できずに大出血になったとか。

僕自身もそうですが、ほぼ先天的障碍の場合、脳の中にトラブルある場合、その周りの神経が失われた機能をサポートするらしく、それと同じような気もします。

先天的障碍に対する医療判断と考えると少し考えさせられました。

また、「とくダネ!発『GO-ガイ!』」での本人認識としての個々人違う静脈位置での確認技術を知ると医療においても個々人のそれぞれの体質への配慮が一番難しいのではとも感じましたし。

個々人の意思の尊重、それは枷となっている社会をまずは理解しなければいけない、「別れるの怖い・・・頭部分離イラン姉妹の29年 父語る真実」特集で語られていた事はこんな事なのかなと思っています。

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
きらきらひかる

松岡錠司監督きらきらひかる』(1992年作品)


確か、この人の作品はピアで入選した学生時代のものを観ているのだけれども、揺れ動く人々の微妙な気持ちを描くのがうまい人だなぁって感じてます。

第一作『バタアシ金魚』(1990年作品)は一方的に好きになった男子学生のストーカー行為を拒絶する女子学生が次第に「嫌い」という愛情に変わっていく。
好かれるために水泳を覚え、大会で入賞しようとする男。かつて、青春ものによくあったパターンをシビアに描くとこんな風になる。

作品としてはインパクトが弱いけど、当時30前の松岡錠司監督の若者感がよく判る。おまけとして、浅野忠信の少年時代のやんちゃ坊主姿が微笑ましかったけど。

そして、『きらきらひかる
アルコール依存症の妻(薬師丸ひろ子)、同性愛者の夫(豊川悦司)、そして夫の恋人(筒井道隆)の奇妙な三角関係。

お互い、依存し合う関係なのに、夫の世間体意識、親、友人の結婚=子作り=しあわせという価値観に揺さぶられ、何が一番ベストな形なのかあえぎ苦しみながら、模索していく。

「男として失格かも知れないけど、人間としても失格なのかよ」

夫が妻の幸せを考え、別れを決めた時の夫の恋人の言葉、世間のしがらみに生きるのではなく、自分たちの本当の幸せを見つけ出す。

ゲイカルチャーを通し観た現代の幸せ探し。

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
青春の詩

よしだたくろう「イメージの詩」(1970年作品)


昨日、送られてきた「そよかぜ編集部便り」。よしだたくろうの「イメージの詩」引用面白かった。

「ことば漂流記 1」として前回の話が載っていますが、視点的には好きですね。

今回の話は「自然」は闘争モードなのか、共生モードなのか。たくろうの詩に対しても「自然」という価値観は人間が作ったものだから、的はずれとも言えるという論理。

卵と鶏ですね。

闘争モードなのか、共生モードなのかもダーウィンが規定した闘争モードに対するその反論をまとめたもので、つまりは弱肉強食とてファイティングではなく、ハンティングが主目的であり、それは共生モードなのであるという理論。

メジャーな理論を鵜呑みにすることなく、忘れ去れた理論も大切だと僕も思います。

誰かが言っていたぜ
俺は人間として自然に生きてるんだと
自然に生きてるって 自分で分かるなんて
なんて不自然なんだろう

僕としては何も考えず自分のやりたい事をやりればいいと思うのだけれども。人間なんて身も心も今の自分しかないのだし、そんなに強くないし、そんなに賢くないのだから。闘争モードは孤独を産むだけだし。

ひとりきり泣けてもひとりきり笑う事は出来ない。

中島みゆき「With」(1990年作品)より

関連ページ:

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
No One's Land(ノーワンズ・ランド)

アイヌの楽器"トンコリ"奏者オキ


テレビニュースでアイヌの楽器"トンコリ"を奏で、ミックスカルチャーとして、アイヌ音楽をひろめている加納オキさんの特集をしていた。

子供達の時代にアイヌ文化がどうなっているかは自分たちの責任。その前に放送していた子供の喫煙を黙認する大人達と合わせ考えると今の自分たちのあり方を考えさせられる。

テレビでも仰っていたけれど、"トンコリ"奏者の神業的音源をオキさんはいつも聴いてるそうで、それがどのように演奏されているのかも判らないとか。単純な楽器を操る技は今掘り起こさなければ、永遠に謎になるかも知れませんね。

関連ページ:

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
ポピュラー音楽の世紀

ラブハンドル


徒然をずっと書いてきて、人間本来の自然体がビジネス・ワークでは活かされない事が問題なんだろうなぁとも今、思っています。人間本来の自然体を活かせられない社会はやはり不自然。

ハイリターンが可能な時代ならば、それでも良かったのだろうけれど、ニーズの多様化する時代、やはり求められるのは人間本来の自然体の研究。

見る事のみに重きを置き、読む事を前提としないページ作り。これがビジネス・ワーク全体、社会全体の常識としてある事がまずはおかしいのだと思う。

「提供する」から「利用する」への意識変革が大切なんだろうね。

人間本来の自然体とは何なのか、探っていきたいものです。

以前、書いた中村とうようさん著作『ポピュラー音楽の世紀 岩波新書』の紹介文「音楽から見た社会」これなんかその好例だとも思ってますし、「音楽から見た社会」も裏返せば、アメリカ音楽産業のしたたかなビジネス意識とも受け取れますしね。

「音楽」とは人にとって何なのかを理解しているから、過剰なまでに庶民の嗜好を気にする。「音楽から見た社会」の反面として、コピーガードへの執念も語る事が出来ると思う。これもまた、庶民の拒否反応が顕著になれば、却下されるでしょう。

それに比べ、「動くもの」映画は聴くのみではなく、五感すべてに刺激与える娯楽ですから、庶民の嗜好も掴みづらい。(「嗅ぐ」「触る」は今のところ含まれませんが。。。)ハリウッドが庶民の嗜好を見失い、衰退したのも頷けるし、世界の著名な映像作家のアイデアも五感すべてに刺激与える点からハリウッド文化人が受け入れがたい面も現れてくる。

アメリカ財界は良くも悪くも世論に神経過敏です。今のイラク侵攻ブッシュ叩きがその好例。イラク侵攻支持と何の矛盾することもない。「世論が正義」なのだから。

それに対し、日本の政財界の鈍感さ。
「ギブ・ミー・チョコレート」を未だに引きずっている。文化軽視が経済衰退に繋がる視点を持ち合わせてないし、ラブハンドル(脇腹の贅肉、愛し合う時にハンドルのようにつかんで動かしたりする箇所)の厚みも気にしなくなる。

ますます、独り言の舞台が深まりそうなのでまずはこの辺で。(笑)

関連ページ:

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
ファイルーズ・レジェンド

パレスチナの歌姫 ファイルーズ「何かがおこる」(1991年作品?)


あなたは私の事をあれこれ尋ねるけど、
私の事が好きなの?

私はいろんな物語知っている
そしてそれを覚えている
その全てのなんと甘美な事!

でも、それがいくら素晴らしくても
時と共に移ろい行くのは何故?
あなたへの私の気持ち
何かがおこる
何かが起きようとしている

時は流れて、あなたは私に議論をふっかける

私はいろんな物語知っている
そしてそれを覚えている
あなたが私に言った事
その全てが甘い言葉
でも、それがいくら甘美なものでも
私はあなたへの気持ちを変えられない

何かがおこる
何かが起きようとしている

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
私たちが好きだったこと

松岡錠司監督私たちが好きだったこと』(1997年作品)


原作:宮本輝、企画:岸谷五朗という俳優が原作に惚れ込んで作った作品とか。

男女4人がふとした切っ掛けで同居し、愛し合い、別れる話。お互い必要としているのに、必要とされているか判らず、確かめ合うそれぞれのカップル。片や結ばれ、片や変な思いやりゆえ、別れてしまう。数年後、男女4人は再会し、記念撮影する。

雰囲気は凄く好きなんだけれど、宮本輝の優しさって嘘くさいとまたまた感じてしまう。

僕の友達でも彼の方がはっきりせずに同棲していた彼女が別れ、すぐに見合い結婚したなんて例があり、別れた後の再会なんて今のところ、あり得ない。

この手の映画、外国にはよくあり、僕らの世代では『追憶』なんか話題になったけれども、僕は好きじゃない。

この映画の感想をチェックしていて、「ルームメイト」という感覚が日本に根付かないという記述を見つけ、そういえば、この映画は「ルームメイト」を描いたものであり、確かに日本には「ルームメイト」となると偏見が出て来るだろうなぁと思ったりもしました。

死ぬかも知れないと発作を起こす不安神経症を患っている女の子がメインなのだけれども障碍の話がかばわれる事で恋愛に発展する枷として使われているけど、二人の男とも同じ優しさで傾いてしまうこの娘ってなんなのとも思ってしまう。そして、「必要」を確かめるために戻ってきて、引き留めてくれないから、去っていくなんて。

男の女々しさの方がまだ僕には理解できるけど。手ぶらは寂しいもの。(謎)

このエッセイの先頭へ戻る|


amazon.co.jp :
ラズ・イ・エスプレンデ

ブラジルの御仁達 "ドリヴァル・カイミエリゼッチ・カルドーゾ"


ブラジルに注文していたELIZETH CARDOSO "FAXINEIRA DAS CANCOES"とDORIVAL CAYMMI "EU VOU PRA MARACANGALHA/CANCOES PRAIEIRAS"届き、さっそく聴いてます。

我が崇拝するブラジルの御仁お二方。

ドリヴァル・カイミの方は1950年代のバイーアの大海原を(行った事無いけど)思い浮かべたくなるような御仁の歌声。
#2000年発売のBOX、買い逃し、やっと聴けた!

エリゼッチ・カルドーゾの方は国内盤も出ていた『ジョアン=カエターノ』の他、晩年の3作5枚BOX。『ジョアン=カエターノ』も曲目をみると国内盤に収録されていない曲もあるようで、正真正銘の完全版?かと喜んだりもしています。

まずは[LUZ E ESPLENDOR + 5](1989)。
エリゼッチ芸歴50年をお祝いした作品とか。久々のエリゼッチ、やっぱりいいですね。

Joao Gilberto來日(するだらうか本當に)、これで辛抱できそう???

エリゼッチ・カルドーゾ「トタン屋根の小さなあばら屋[Barracao]」

『ジョアン=カエターノ』バンドリン伴奏ジャコー・ド・バンドリン

小さなあばら屋
丘の上にぶら下がっている
そして救いを求めている
足下に広がる街並みに向かって

小さなあばら屋
お前の声を私は聴く
一分たりとも忘れはしない
私はお前をよく解っているから

トタン屋根の小さなあばら屋
お前はこの国の歴史
トタン屋根の小さなあばら屋
貧しくそして不幸なお前

小さなあばら屋
お前の声を私は聴く

このエッセイの先頭へ戻る|

キリギスのペットボトル

新聞記事に「キリギスのペットボトル」について書かれていました。

中央アジアにあるキリギスも環境破壊が進んでおり、人々が利用するペットボトルを先進国の訪問団が「それは環境破壊の原因になるから金属製のボトルを使用しなさい」と言うような事を説いているとか。

物が溢れかえり、容易に選択可能な環境に住んでいる定規を金属製のボトルが月給一月分にもあたる土地に暮らす者達に杓子定規で説くのは如何なものかと言うもの。

豊かさが心の貧しさ。

このエッセイの先頭へ戻る|

長征社記録映画『養護学校はあかんねん!』(1979年作品)

20年以上前、僕が単独で自主上映した映画。

僕の時代は知的障碍の「特殊学級」(普通校併設)と「養護学校」があったのみですが、その後、「養護学校義務化」を経て、今は「心障学級」(普通校併設)なんていうのもあるのですね。

今、「心障学級」→「養護学校」が問題になっているようですが、数ヶ月前の新聞記事に児童数減少ゆえ「養護学校」→「普通校」という方針も打ち出されているはず。

たらい回しの終着駅は何処なのでしょう?

「養護学校義務化」文部省糾弾連続闘争『養護学校はあかんねん!』。かいつまむと以下のような流れの映画です。

「障碍者を−。社会の基準がね、高くなればなる程、障碍者っていうのが多くなって来るんじゃないか−将来、例えば、もっとエリートをつくりあげようとして、どんどん、どんどん、そういう方向が進んでくると、それから遅れてくる人達っていうのは、特殊学級とか、養護学校とか、そういう形で締め出されてくるんじゃないかな−という危倶がありますがね」

小沢特殊教育課長補佐「えー、全障連の皆さんに申しあげます。
大賀さん(注・全障連全国事務局)と電話による、数回の予備折衝をしまして、話しがまとまりかけてきたところでした。えー、内容は代表三名、三十分ということで、えー、平穏に東門に回すからというところまで来たんですけれども、小便で−我々の職員にしびんで小便をひっかけるという事件が起こりました。えー、・ショウベンをかけるというような、最大の侮辱行為に対して我々は、それを許すことはできません…」

「この一週間にわたってやな、文部省は誰一人としてやな、障碍者がトイレに行きたいっていうことに関してやな、誰もトイレ使わしてくれなかったわけじゃないの!わざわざ障碍者用トイレなんちゅうのをつくってあるんでしょう、文部省の中に、ええ?−それで、しゃあないわけよ。しゃあない訳よ、何処にも行けないから−。二十六日の日にね、文部省の職員に聞いたらね−この付辺に、何処にトイレがありますかと聞いても、答えんかったわけでしょう」

小沢「だからショウベンかける事ないじゃないの」

結果、交渉決裂。

「みんな……重い障碍を持っている子供達によ、その能力とか障碍にあった教育をしていくという、美しい−美名のもとによ、健全者社会から隔離し、排除していく。そういうような−その目的が義務化にこめられている。
だから、普通学校に入ること−入ったからって、楽しいことはないと思うよ。いじめられるしさ。必然的にいまの学校教育についていけないからさ、おちこぼれるかも知れないけど、そんなの承知だ!
むずかしい勉強をさ、頭こねくりまわして、悩みながらさ−『これ、わかんねえ、教えてくれ』とかさー、『こんどの日曜に、どっか行こう』とか、そんなこと云いあってだよ、断わられてもさ、『じゃ、次の日曜は』とか−そんなこと云いあって、ちっちゃなことからさ、さ、人間関係つくってさ。もっと自分らがストレートに、自分らが素直にさ、 云いたいことを云えた方がいい。−すごく自然な人間関係ができるんじゃない?」

関連ページ:

このエッセイの先頭へ戻る|
徒然なるままに : 過去記事 2003-07-26 掲載 2003-07-31 加筆
Copyright ©2003-2013 all that's jazz. All Rights Reserved 問い合わせ|このページのトップへ戻る