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それでも待ってる 夏休み

From 2005-05-25(水)
To 2005-06-20(月)


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青春の詩

吉田拓郎「今日までそして明日から」


なんとなく、吉田拓郎を聴いたりしています。

岡林信康さんなんかは僕の思い出では「友よ」なんかを小学高学年で聴き、よく口ずさんだりしてたけど、深い意味など知るはずはなく、ちょっと不良ぽく、そのくせ下世話な吉田拓郎の方が思い出深い。

私は 今日まで 生きてみました
そして 今 私は思っています
明日からも こうして 生きていくだろうと

よしだたくろう「今日までそして明日から」
青春の詩』(1970年作品)

目上の知識人から「当たり前の事を歌っている」と揶揄され、フォークフリークからは「解放の唄」のようにもてはやされた曲も、後に拓郎自身「イメージの詩」でそれらしい反論を歌ったりしていた。

力む事をヨシとし、社会のモラルを求める事がヨシとする傾向は今も根深く残っている。

岡林信康吉田拓郎中島みゆきなどが歌う歌は自分なりに生きようよであって、それはこれらの人たちが尊敬したボブ・ディラン、更にボブ・ディランが尊敬したウディ・ガスリーにまでさかのぼれる。

社会のモラルからファシズムが生まれ、個々の自由からレジスタンスが生まれた事を忘れたくはない。

それぞれがどのように人と繋がるか、70年代初頭、映画「若者たち」でも語られたテーマ。

だらしなくても、みっともなくとも、自分らしく生きられれば、それでいいんじゃないかと。そして、何故、そのように生きられないのかと。

女と酒より サイコロ好きで
すってんてんの あのじいさん
あんたこそが 正直者さ
この国ときたら 賭けるものなどないさ
だから こうして漂うだけ

みやげにもらった サイコロふたつ
手の中でふれば また振り出しに戻る旅に
陽が沈んでゆく

よしだたくろう「落陽」より

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トンコリ

OKIトンコリ


アボリジリニィやシベリアの先住民、東ティモールの亡命詩人とコラボレーションした前作『NO-ONE'S LAND』の後、惜しくも安東ウメ子さんの遺作となってしまった『UPOPO SANKE』制作されたOKIさんの最新アルバムを購入。金銭的に厳しい状況だけど、このアルバムは聴きたかった。

お留守番で「誰も知らない」状況4日目、男やもめになんとかを実感しつつ、アルバムを繰り返しリピート。

少数マイノリティの交流から自身の源流帰りのこのアルバム。古き樺太アイヌ達のトンコリ演奏の門外不出秘蔵テープを何度も聞き返し、自分のものにしたという音はデビューアルバム『KAMUY KOR NUPURPE』に似て非なるもの。僕としてはデビューアルバムの危うさの延長を期待していたけれど、実績積んだ芸人の音色が楽しめる。ただ、源流帰りならば、マルティニークのカリの『ラシーヌ』の方が上かなと。

トンコリは三味線の音色に似た弦楽器で、その音楽はある時は魔性払いであり、ある時は恋歌にもなる。

魔性といっても魑魅魍魎のみを指すわけではなく、他国のシャーマン、病気、怪我。そのような自分たちの生活を脅かすものが魔性。生きるという事はこれら魔性を払いのけ、自分たちの生活の確保を意味する。

古来日本でも魔性払いし、自分たちの居場所の確保がなされていたけれども、どうも近世になってからは国権が強くなり、社会依存の自己喪失がメインとなってしまっている。

海外のNPO/NGOが国権依存しない社会の安定をメインに国権に対する社会保障の分権を確保する魔性払いの役目であるのに対し、日本のNPO/NGOは国権依存の国民意識の代弁者でしかないような気がし、魔性払いにならなきゃ、高齢少子の未来、共倒れだよとも思ってしまう。

異文化コミュニケーションをしつつ、マイノリティの源流を押さえようとするOKIさんの視点は素晴らしいと思う。

そして、国権はグローバル化でその権力性を失いつつあるから、分権の動きが試行錯誤されているようにも思えるから。

いつまでもぶら下がり健康機を当てにしていると魔性が襲った時に自分で大地を踏めなくもなるのじゃないか。ぶら下がり健康機は自然界の魔性が襲う時、機能不全を起こし、回復まで時間を要するのは実証済みのはずなのに。

自戒を込めて。

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チョムスキー 9.11 Power and Terror

ジャン・ユンカーマン『チョムスキー 9.11 Power and Terror』


ウォルター・サレス『ビハインド・ザ・サン』で軽く触れたけど、新作『エレニの旅』の素晴らしさにテオ・アンゲロプロス監督の日本公開パンフレットを買い集め、読みあさっているところ。ギリシャ現代史に神話的話法を持ち込み、世界観、歴史観、社会観を不偏なものにまで高める手法はやはり素晴らしく、たかだか2世紀にすぎない国家、国境理念が人々を隔て、争わせ、いくつ国境を越えれば帰り着く家にたどり着けるのかという現代人の苦悩を物語っている。

アンゲロプロスの世界構造論に納得し、CSで放送されているジャン・ユンカーマン監督『チョムスキー 9.11 Power and Terror』を観ると反骨の言語学者、ノーム・チョムスキーの予言は今日の日本で確かに始まっていると実感。

改憲論、クルド人難民の強制送還。日本の国連常任理事国入りへの固執。

単純に云っていけば、チョムスキーの主張は「9.11」のアメリカ政府のプロパガンダに騙されるな。そして、それに荷担するな。

テオ・アンゲロプロス監督は新作『エレニの旅』のメッセージとして、明確に今日のニューヨークを名指ししており、移民となったエレニの旦那はオキナワ戦で死ぬ。つまりは今日の日本の戦争荷担を指摘しているのでしょう。

思いたくはないが、今後、政府は「国際貢献」の美名とセーフティ・ネットの天秤ばかりを強めるのじゃないだろうか。

国境概念に疎い民族として、国、国境、殺人兵器の資金源を考えるべき時なのかも知れない。映画で流れる忌野清志郎「クラス」を聴き、思う事は人が生きる事は「暮らす」事であり、「競う」事ではないのだろうと。

この海峡は俺たちを
隔てるだけじゃないんだと
空のカモメがささやいた
海は全てを繋ぐから

岡林信康「虹の舟唄」より
(USENの音楽ダウンロードサービス『OnGen』試聴購入可能)
iTunes Music Store 虹の舟唄(iTunesインストール済みで利用可能)

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成瀬巳喜男芝居道』(1944年作品)

以前、売れない映画作家吉田喜重を調べていて、「何故売れなければいけないのか」という論議があるのを知り、引っかかっていて、録画してあった成瀬巳喜男監督芝居道』を観て、そうだよねと思うところ。

太平洋戦争の最中、戦時体制の検閲をうまく逆手に取り、時流に乗り、流行を追う芝居興行ではなく、伝えなければならない事を見せる芝居、映画ではそれを「倹約」の芝居として描いているのだけど、そういう興行をしなければいけないとし、落ちぶれる興行主と興行主に芝居道をたたき込まれ、自惚れ始めた役者が自分の自惚れに気付き、芸道を磨き、興行主に恩を返す話。

「売れなければいけない」とはおそらくは時流に乗り、流行を追う文化、ビジネス業界であるだろうし、自分で自分の気持ちに背き、言論抑制してしまう姿勢だろうし、言論弾圧以前に体制におもねる人の心が「売れなければいけない」にはあるのだろうと。

更には「売れなければいけない」の要因として、喰っていけないだけだった映画背景とは違い、ビジネスで云えば、資本金として借り入れたものへの利子返済などが絡む今日、収支とんとんではやっていけない状況が言論抑制に拍車をかけるのだろうと。

最近の気味悪い金融業界のキャッチセールスなんかもはまれば言論抑制になるだろうし、キャッチセールスにはまらないまでも半生を捧げる住宅ローンなんて言論抑制に好都合なのだろうと。

「何故売れなければいけないのか」という議論はますます青臭くなり、言論抑制が幅きかせていくのだろうと。

太平洋戦争中も末期の空襲などが襲う以前は軍需景気に浮かれていたから、成瀬巳喜男監督も「倹約」をお題に出来たのだろうし。

吉田喜重に関する議論と同じように「売れなくたっていいジャン」という自分たちの存在証明、自発的ビジネスの創造が望まれるところ。独立採算なんてくたばれとも言いたいですが。(笑)

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放浪記

成瀬巳喜男放浪記』(1962年作品)


テオ・アンゲロプロス監督の1980年代後半の言動を紹介した一文を読み、「瞬時に何かを感じ印象を刻みつける事になれてしまっている現代では、例えば喜びも凝縮された瞬間的なもの」「拡張された瞬間、息を吐き吸うまでの"間"を人々は好まない」とし、「自律的呼吸を奪われている。自分で呼吸出来ない状態、いや呼吸という概念すら失ってしまっているのが現代」とする。当時、テオ・アンゲロプロス監督の映画が集団劇の現代史三部作から個人をテーマにした沈黙四部作へと向かった背景として、「歴史が沈黙している」と述べられ、個の時代のユートピア探しが沈黙四部作であると書かれている事に「失われた時を求めて」なのだなぁと思うこの頃。

映画の日である事も忘れてて、見に行き、少し儲けた気分の成瀬巳喜男監督放浪記』。林芙美子の貧乏体験小説を林芙美子の生涯の入れ子とする形で作られた映画を観、自律的呼吸を奪われ、歴史が沈黙している現代、若者達にこの貧乏記はどのように観られているのだろうと思ってしまう。

数日何も食べず、おやきでその夜の空腹を紛らわす生活を100円あれば、マックバーガーが食べられ、頭からつま先までそれなりの着る物はそろう現代、理解すれといっても無理だろうし、男と女の我の張り合いも貧乏故に激しくぶつかる感覚は判らないだろう。

じゃ、今、貧乏はないのかといえば、おそらくは形変え、外見では判らない形で貧乏は息づいているのだろう。それがおそらくはテオ・アンゲロプロス監督の云う自律的呼吸を奪われ、歴史が沈黙している現代の怖さなのかと。

成瀬巳喜男監督とて、戦前はニューヨークでも評判呼んだ『妻よ薔薇のやうに』などのモダン・ボーイ、モダン・ガールの社会との軋轢から、戦中の『芝居道』など日本の伝統から顧みる社会、そして、戦後スランプの後の代表作『浮雲』などの一連の林芙美子原作もので、社会を語らない個人を描き続け、晩年は『ひき逃げ』『乱れ雲』と激化する交通事故で始まる個々人の葛藤と社会を如何に遠巻きに描くかに苦心された方。

放浪記』のラスト、安定した生活を迎える林芙美子の元に「貧乏人の味方なのだから助けてくれ」と請いに来る福祉団体の来訪を知り、「自分たちで稼げ」と怒る林芙美子にお手伝いが「体の不自由な方達とか」と追い打ちをかけるように林芙美子に伝える場面があり、成瀬巳喜男監督のシニカルさが出ていて面白いなぁと思いもしましたが、成瀬巳喜男、林芙美子ご両人おそらくは社会意識ばかり押しつけ、貧乏救済の手だてを講じようとしない国、行政への怒りが底辺に流れているのだろうなぁと。

花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき

あだ花、散らされぬようご用心を。

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バッシング

カンヌ映画祭でコンペ出品、上映され、惜しくも受賞を逸したけれども、話題を呼んだという小林政広監督『バッシング』。イラク人質事件をモチーフにしたこの映画の海外文化人の反応として、映画云々以前に何故、このようなリアクションが日本で起こったのかが理解不能というものに関心をそそられています。映画『バッシング』がこの事件をどのように掘り下げたのか、鑑賞出来ない現在、あくまでもバッシングという出来事の裏読みになりますが。

日本は芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に書かれるとおりの縦社会が戦争をくぐり抜けても依然として残る国で、昨日まで鬼畜米英だったはずが、アメリカ進駐軍に「ギブ・ミー・チョコレート」と態度一変させ、生き残るために恥をかなぐり捨て、縦社会を再構築した国。

おそらくはこの「蜘蛛の糸」心理がバッシング行為の根元と思うのですが、ここ数年の社会の変革から考えれば、目先欲でしかないように思えるのです。

単純にここ数年の社会の変革をなぞらえれば、「物を生む」を第一次産業、「物を形作る」を第二次産業、「物を売る」を第三次産業とするならば、第三次産業にあたるサービス部門がコンピューター・ネットワークの整備で合理化すすみ、文化情報媒体では更に第二次産業にあたる中間媒体(ディスク、ペーパー)の必要性が問われ始めていて、これらの職種に属す人たちにとってはそれこそ「蜘蛛の糸」状態にならざるおえないのではないかと。

そして、日本は「物を生む」第一次産業を特権化させ、新規参入を軽視し続けた国ですから、人々が食い扶持を得る手段はどんどん先細りとなる。

ひるがえって、歴史をさかのぼれば、「列島改造論」以前は「所得倍増」の掛け声だけで、お国の発展、民間まかせ、官公庁は低賃金労働で、「列島改造論」で土建業公共化の恩恵として、官公庁も潤い始め、社会福祉整備も着手するようになった経緯あり、より多くの職場提供として、システムの複雑化が構築された。

その構築されたシステムがここ数年の社会の変革で合理化進めば、職域狭い日本では「蜘蛛の糸」にならざるおえないのだろうと。

「物を生む」第一次産業は何も農林漁業のみではなく、文学、音楽、映画という文化事業も「物を生む」職種であり、バイオテクノロジィーの人体影響と同じく、コンピューターで作れたとしても人のニーズに合うかどうかと云う課題があり、個々人のセンス、表現力が問われる世界。時間を要し、知識を要さねば生まれ得ないのが、「物を生む」であり、「合理主義」に相反するけれども、「売れる」物でもある。

列強諸国に虐げられ続けたアジア、中東、アフリカ、中南米諸国が今、延びてきているのがこの「物を生む」環境整備にあるのに、日本は未だ「ギブ・ミー・チョコレート」。御上を手こずらす奴はバッシング。人的援助が「物を生む」原動力という事すら、理解していないような。

テオ・アンゲロプロスが映画一本作るのにダムを造る許可を出すギリシャのようになれとは言わないけど、世界に対する「文化貢献」を果たす上でも「物を生む」環境作りを考えるべき時なのではないかと。政界にはかつての文化人が多数おられるのだから、「文化貢献」の意義ぐらい判っていても良さそうなものなのですが。

いつまでも開業初期にコカイン入れたコーラを売り叩かれた商品で、世界制覇を企んだ国の野望をまねるのではなく、心の豊かさを追求する国であって欲しいなぁと。野望の大国「ハリウッド」すらまねられなかった国ではありますが。

政(まつりごと)など もう 問わないさ
気になることといえば 今を どうするかだ

おきざりにした あの悲しみは
葬るところ どこにもないさ
あぁ おきざりにした あの生き様は
夜の寝床に 抱いてゆくさ

よしだたくろう「おきざりにした悲しみは」より

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人間なんて

吉田拓郎「人間なんて」


便利さは人の思考を停止させる。
昨日6月8日の夕刊に載せられていた「パソコンやケータイの普及で失われる人間性」を論じた小原信さん(青山学院大学名誉教授)の論説文、「心の地図」の狭さやら、「現実と幻実の逆転現象」でリセット可能幻覚やら、マスメディアの一面的報道の鵜呑みの「情報汚染」やら、言われ続けてもおそらく人間は「便利さ」に溺れるのだろうなぁと。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

少子化高齢化の加速しているのに民間企業の障碍者法定雇用率未達成。経営者も消費者も企業の社会的責任を唱えるけれど打つ手なし。助成金目当てで「金の切れ目が縁の切れ目」がまかり通る行政依存から「自立」しなきゃ、企業の社会的責任なんて芽ばえるはずはないと思うのだけど。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

身の回りの品をそろえてもあまりあるお金持ち。それより税の公平感からサラリーマン所得税徴収、控除縮小とか。所得番付サラリーマンで埋め尽くせば、発言の公平性も確保されるのかな?物言わぬ民も責任あるだろうけど。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

喰う、寝る、遊ぶは人の生存権。それを介護して貰わねばならない方々は贅沢者。あまりあるお金持ちはそうお考えのようで、税の公平使用で、本人一部負担せよ。「金に溺れる者、夜叉の如し」

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

「言わなきゃ判らない」から「言っても判らない」。短絡思考が拍車をかけて、人のコミュニケーションはますます難しくなる。便利さはビジネスの終焉なり。ビジネス=金儲けの構文が間違いで、ビジネス=コミュニケーションの無限ループが大切かと。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

人の結びつきのはかなさを追い続けた成瀬巳喜男、平和な世に戦争の悪夢を忘れるなと描き続けた岡本喜八。ご両人とも東宝映画で、登場する俳優、皆同じ。さぞかし、悪名高き、五社協定が恨めしかったかと。日活の石原裕次郎、東映の高倉健、大映の市川雷蔵、松竹の佐田啓二等々の演出さぞしたかったろうと。同時代の文化的遺産を残せなかった損失をただただ嘆くばかり。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

建前論の「靖国参拝」。はっきり支持者確保のためと言えばいいのに。民間人犠牲の空襲慰霊はとんぼ返りしてるんだから。それにしてもげに恐ろしきは「靖国」支持者。世代変わっても先祖と同じ意識なのかなと。硫黄島追悼で、何処の国に島の形が変わる攻撃を受け、全滅したか歴史認識を。知らぬふりなら、名誉のA級戦犯仲間入り。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

四つの時代の「イントレランス(不寛容)」取り上げた映画の父、D・W・グリフィス、その作品数の多さにびっくりと同時に、D・W・グリフィスの怒りの数なのだろうなぁと。
国益守るために太陽系をも破壊出来そうな原子爆弾抱え、他国の環境破壊を続ける母国の今日を如何様に見守っているのだろうかと。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

ブラウザ・プラグインをインストールしなければ観られないサイトが共有理念云々の前に、Web標準化唱えるMozilla Firefoxブラウザのobject要素、未だ搭載せずはWeb標準規格、W3Cの公平性が揺れているのかな?とゲスの勘ぐり。
コピー可能な状況を無視して、マルチメディアコピー・バッシングの愚かさより、気になるところ。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

温暖化を小手先解決図る環境広告もまた「便利さ」知った人の思考停止かと。「便利さ」に溺れぬ「知恵」を歴史は身につけたのに、「便利さ」はそれを忘れさせる。「物」の価値より「お金」の価値ゆえに「物」溢れ、「思考」失せているのではなかろうかと?バーチャルマネー、利子の肥大化による「お金」の逆襲、基本指示を忘れた便利箱「コンピューター」の逆襲、そして、万物の母であり、己自身でもある「自然」の逆襲。脅える物は山ほどあるのに。

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

「いつまでも、あると思うな、親と金」
今の幸せ、守るための意思表示が必要かと。

何かが欲しい オイラ
それが何だかは 判らない
だけど 何かが たりないよ
いまの 自分もおかしいよ

人間なんて、らぁらぁらぁ、らぁらぁ。

よしだたくろう「人間なんて」より
人間なんて』(1971年作品)

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パラダイス・カフェ

中島みゆき「永遠の嘘をついてくれ」


この国を見限ってやるのは俺の方だと
追われながらほざいた友からの手紙には
上海の裏町で病んでいると
見知らぬ誰かの代筆文字
なのに永遠の嘘をつきたくて 探しには来るなと結んでいる

フォークソング弾き語りで強がっていた男が40歳を過ぎ、泉谷しげる呼びかけの奥尻復興チャリティ・コンサート『日本を救え!』で中島みゆきの「ファイト!」を歌った。

薄情もんが田舎の町に後足で砂ばかけるって言われてさ
出てくならおまえの身内も住めんようにしちゃるって言われてさ
うっかり燃やした事にしてやっぱり燃やせんかったこの切符
あんたに送るけん持っとってよ 滲んだ文字 東京ゆき

ファイト!闘う君の唄を
闘わない奴が笑うだろう
ファイト!冷たい水の中を
ふるえながらのぼっていけ

中島みゆき「ファイト!」より
アルバム『予感』収録

翌年、その男吉田拓郎は中島みゆきと食事をし、ぽつり「もう自分には『ファイト!』のような歌は作れない」と語り、「遺書のような曲を」と作詞、作曲を依頼したという。

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
一度は夢を見せてくれた君じゃないか

吉田拓郎にあこがれ、「今日までそして明日から」の音楽誌評はおかしいとラジオで語っていた少女はあこがれの君の今に「ラブ・レター」を送る。

傷ついた獣たちは最後の力で牙をむく
放っておいてくれと最後の力で嘘をつく
嘘をつけ永遠のさよならのかわりに
やりきれない事実のかわりに

ふたりの「ラブ・レター」は吉田拓郎『Long time no see』、中島みゆき『パラダイス・カフェ』それぞれ納められ、完結し、幾年月すぎた。

君よ永遠の嘘をついてくれ
いつまでもたねあかしをしないでくれ
永遠の嘘をついてくれ
一度は夢を見せてくれた君じゃないか

今、誰もが望む事はこのふたりの「ラブ・レター」に書かれた文句であり、ふたりのやりとりなのじゃないかなぁと。

組織の益とうそぶく前に。

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吉田拓郎「人生を語らず」

利用者の利便性と提供側の合理性、お互い相容れないものなのだろうなぁと、先頃の「米大手企業、中国インターネット環境でフィルタリング」のニュースを読み、感ずるところ。

そのニュースで知った国境なき記者団(Reporters Without Borders)が発表したマスコミの自由度調査で日本は2002年度が世界26位、2004年度が世界42位にランキングされている。

そして、スマトラ島沖地震の際、最も驚いた事として、日本のトップアーティストたちが売名行為と指摘されるのを恐れ、チャリティー活動を行わなかったというニュース。

フィルタリングと自主規制、これらが民主主義を壊していくのだろうなぁと。

最近、いにしえの社会思想の復権がなされているようで、昨日の新聞にも熊本大学教授小松裕さんの足尾鉱毒事件で有名な田中正造の思想紹介が載っており、「万事万物ノ中ニ居ル」とする人造の利益の害が非命の死者を招いたとする田中正造の今日に通じる思想性を述べられておられましたが、これもまた、提供側の合理性で利用者の利便性を黙殺した一例なのでしょう。

民主主義発祥の地ギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスが冷戦終結後、国境にこだわった作品を世に問うているのですが、EC統合の動きを内なる安定と外壁作りとし、「一歩踏み出せばよそか、死か」。グローバルの中の排他性をECの辺境ギリシャで描き出している。それは、今の日本の与野党保守化の無風政治下にも言える事なのじゃないかと。

「万事万物ノ中ニ居ル」とは健全な状態の維持であり、フィルタリングと自主規制で排斥された障碍抱える者を人造の利益の中に取り込もうとする、あるいは合理性を理由に排斥する行為は不自然であり、「万事万物ノ中ニ居ル」何故、自分たちは生きられているのか、「山や川の寿命は万億年の寿命」の中、「一瞬間」存在するのみの人間社会が提供側の合理性で利用者の利便性を損ねる行為こそ民主主義、自然主義の破壊を導き、ひいては人間社会の存亡にもなっていくのだろうなぁと。

障碍抱える事が問題なのではなく、健康を考えないのが問題なのだと思うのですよね。

マスコミの自由度調査世界42位、内弁慶では判らない真の人間性を知らなければならない時代になったのでしょう。

かつて収録曲「ペニーレインでバーボン」の歌詞の「つんぼ桟敷」で自主規制生産中止となったアルバムのメイン曲を思い起こしながら。

今はまだまだ 人生を語らず
目の前にも まだ道はない
超えるものは すべて手探りの中で
見知らぬ旅人に 夢よ多かれ

超えて行け そこを 超えて行け それを
今はまだ 人生を 人生を語らず

よしだたくろう「人生を語らず」より
アルバム『今はまだ人生を語らず』収録

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夏休み

一つかんと打ちゃ ホームラン・ブギ
広いスタンド 拍手がわけば
飛ぶよ飛ぶ飛ぶ はるかのはるか
空の青さよ 芝生の芝生の青さ

カットパセ カットバセ
フレーフレーフレー

サトウハチロー作詞、笠置シヅコ「ホームラン・ブギ」

吉田拓郎がカバーして歌っている「ホームラン・ブギ」。

日本の親方は昔は「富国強兵」だの「欲しがりません、勝つまでは」だの「所得倍増計画」だの、庶民のまじめさを煽るスローガンを掲げるのが好きでして、「改革なくして、成長なし」もそんな古ーい日本の親方体質の現れだったのかと。

そんなまじめさを間に受け、「国民総玉砕」まで駆り立てられた恨みからか、日本の反体制はいにしえから「不真面目の勧め」。サトウハチローはまじめさ捨てきれなかった人だけど、大正時代の書生節なんて、「不真面目」の極み。(笑)

景気が悪いから 家賃を下げろ
汽車も電車も値下げしろ
ついでだ お米はただにしろ
そのうち 月給も下がるだろ
ハーあきらめろ

石田一松「あきらめろ」より

戦後の三木鶏郎なんかもその流れで、代表曲「これが自由というものか」はこんな感じ。

知らない間に実験で
知らない間にモルモット
知らない間にピカドンで
知らない間に水爆症
これはあきれた驚いた
何がなんだか判らない
これが平和というものか
あちら任せの平和論

三木鶏郎「これが自由というものか」

真正面からぶつからずとも植木等の「サラリーマンとは気楽な稼業ときたもんだ」の「無責任」も「不真面目」の勧めで、フォークソングもその流れ。

がいこつがケラケラ笑ってこう言った
どうせてめらみんなくたばって
オイラみたいになっちまうのによ

損も得もあるもんけ
どうしてそんなに
エゲツなくもうけたがるのか
きかせておくれよヨダレたらした
戦争待ってる 資本家先生

だれがまじめあらへんにゃ
どうしてそんなにまじめな顔して
人間やめて機械になってる
ヨタヨタ歩きの 労働者の皆さん

岡林信康「がいこつの唄」

吉田拓郎はちょっと控えめ。(笑)

麦わら帽子は もう消えた
たんぼのカエルは もう消えた
それでも待ってる 夏休み

吉田拓郎「夏休み」

締めとして、中島みゆき嬢

お金貯めて 3日泊まるのが夏休み
週刊誌読んでやって来れば 数珠繋ぎ
冷めたスープ 放り投げるように 飲まされて
二段ベットでも あたいの夏休み

だけど あたいちょっと この夏は違うのよね
ゆうべ買った 土産物屋のコースター
安物だけど 自分用じゃないもんね
ちょっとわけありで 今年の夏休み

悲しいのは ドレスが古くなること
悲しいのは カレーばかり続くこと
だけど もっと悲しいのは ひとり泣き
だから あたいきっと勝ってる夏休み

サマーヴァケーション あたいのために
サマーヴァケーション 夏ひるがえれ

中島みゆき「あたいの夏休み」

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ふきのとう「風来坊」

狂犬の眼に真っ直ぐな道

黒澤明監督野良犬』より

常軌逸した犯罪者ならずとも人の陥りやすい罠は人のため良かれ思う行いでも道外す事がある。おそらくは他者の意見を聞かずに独善的になる行為に多いのかも知れない。

ナチス・ゲシュタポや日本・隣組の密告とて、我が身可愛さから来る保身が動機としても、その行いをチェックする機構がなかったがために陥った社会の罠。

人は安易にその行いを行った人物を責め立てる。行いと点検、ここに自己と他者がいなければその行為は暴走する。それは今日にとっての昨日の再見でもあるだろう。

環境省が環境保護策として、お買い物袋の有料化義務を提言し、経済産業省が具体的な金額を提示し始めたようだけど、その趣旨として、ゴミ減量、ゴミ消却コストの確保が上げられているが、お買い物袋を有料化すればよい議論なのだろうか?どうもお金の万能性への過信がこの政策理論の起点になっているような気がしてならない。現代の問題はお金では解決付き得ない課題への対策であり、国民の2割の人が8割のお金を所持している所得格差を後押しする事になり得ないのか、それが環境保護に繋がるのか、どうも「狂犬の眼に真っ直ぐな道」でしかないような気がするのですが。

フォークソングのルーツは民謡と言われ、南米の民謡をフォルクローレとして、1970年前後、日本でも流行った事がある。その代表曲「コンドルは飛んで行く(El Condor Pasa)」は亡きインカ帝国への哀歌。ただし、「コンドルは飛んで行く」自体はクラシックの曲で、民謡調のエッセンスを盛り込んだもので、厳密に言えばフォルクローレではないのだけれど。

飛べ飛べコンドル、無限の空を
アンデス高原の影よ
南アメリカの伝統の象徴
インディオ民族の血
インカは裏切られ
ケーナ(芦笛)も泣いている
パチャママ(大地の女神)は教えてくれた
自由のために死ぬ事を

南米だって、アフリカだって、列強国の搾取を無抵抗で受け入れたはずもなく、あらがったあげく、豊かな大地はやせ細っていった。

国連の常任理事国拡大問題も日本とあと一国とするアメリカ側とドイツ、ブラジル、インドと足並みそろえたい日本側で互いの思惑がかいま見られ、ある種、日本側の抵抗であるのかなとも受け取れるのだけど、常任理事の荷の重さを国内で十二分にチェックしたのであろうかとの老婆心も頭もたげる。「狂犬の眼に真っ直ぐな道」にならねば良いのだが。

豊かな大地の復興を模索する南米やアフリカ。その二の舞になりたくないアジア、中東。今、社会は何かを目指すのではなく、よき時代の復興を顧みる時なのかも知れない。

歴史に目覚め、自分を枷から解き放つ。荒波たてたものの正体を見据えた時、己の真面目な道徳観が人を荒波に巻き込んでいったサガを見つけるのかもと。

僕が一番好きなフォークソング、ふきのとう「風来坊」

この空何処まで高いのか
青い空 お前と見上げたかった
飛行機雲のかかる空
風来坊 サヨナラがよく似合う

歩き疲れて 立ち止まり
振り向き振り向き 来たけれど
雲がちぎれ 消えるだけ
空は高く 高く

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徒然なるままに : 過去記事 2005-05-25 掲載 2005-06-20 加筆
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