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ECサイトのお勧め商品カタログ|映画好きのBS/CSガイド

思い出してごらん

From 2005-08-15(月)
To 2005-09-23(金)


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みんな去ってしまった


時は流れ過ぎて 大人になって
涙流しながら 泣けなくなった
思い出してみたら 悲しくなって
泣き出そうとしても 泣き顔がない

思い出してごらん 五つの頃を
手放しで泣いてた 五つの頃を
思い出してごらん 五つの頃を
涙流していた 五つの頃を

中島みゆき「五つの頃」より
[アルバム『みんな去ってしまった』(1976年作品)収録


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まあだだよ

敗戦を 終戦と 嘘でまるめた 負け惜しみ


「戦後60年の視点」として中曽根康弘氏の論理が新聞に載っていて気になり、読む。

「国家の主体性回復を」なる見出し通り、「生き残った」戦争を振り返り、日露戦争の国家防衛戦争に勝利し、『そこを境に傲慢』となり『「官僚軍部的主体」の台頭』『「対華二十一箇条の要求」を出し、侵略的要素を強めていった』のが今日の中国反日運動の原点とし、日本は大東亜戦争で負けた後は「国家の主体性」が萎縮したとしている。

今の政治を「ポピュリズム」とし、国家的利益、戦略的外交という要素がないとして『戦争への爆発する要素こそないが、戦前の政治の漂流と似た状況』と捉え、靖国参拝は『「ご苦労様」とお礼を言う事を国家として正式にやりたかった』と振り返り、憲法に関しては『どこの国に持って行っても使える』ものだが『主体性のなさ』に憲法改正を主張したと語り、戦後教育を『わが国は歴史や伝統に根ざした日本の主体性を勉強させる事に不足していた』として、「国家の主体性回復を」を唱えられている。

組織論はごもっともだけれども、中曽根さん自身の主体性はどこにあるのだろうか?国家論の先にある国民主体の民主政治の概念が欠落しているように思える。『「ご苦労様」とお礼を言う』ならば「生き残った」者として犬死にした方達の死に様をすべて洗い出して欲しい。「天皇陛下万歳」と死んだ者、「お母さん」と言って死んだ者。先日観た映画『日の果て』で友が脱走兵となり、上官から殺す命令受けた主役の苦悩、組織に殉じるのが正しいのかが靖国の御霊にはあるはずであるし、死してなお、国に奉られ仕える意味を「生き残った」者として考えるべきなのではないだろうか。

おそらく国粋論者の方々の論法は個人論を棚上げした上で、組織論を展開しているのだろうなぁと。

オイチニの薬は なんでもなおるが
馬鹿は死ななきゃ なおらない
今の日本を 見渡せば
馬鹿な話の 種ばかり
まずは敗戦を 終戦と
嘘でまるめた 負け惜しみ

戦犯 追求 旨となし
浮浪児 パンパン 知らぬ顔
デモに 赤旗 プラカード
口をそろえて 民主主義
主義とは云えど 借りものの
口先ばかりの 御題目

主権在民 棚に上げ
威張るは 悪い奴ばかり
賄賂 収賄 手を振って
正々堂々 万々歳
疑獄 極楽 蟻地獄
それでも懲りない面々は
口をそろえて チーパッパ
チィチィパッパ チーパッパ

黒澤明監督まあだだよ』(1993年作品)
「オイチニの薬屋さん」当初の歌詞案より

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雲ながるる果てに

代わりはいくらでもいる


特攻隊をご存じでしょうか?敗戦色濃くなった日本は20歳以上の学生の兵役免除がとかれ、学徒出陣が行われ、行きのみの燃料を積んだプロペラ機で敵アメリカ空母に体当たりを命じられた。

家城巳代治監督の『雲ながるる果てに』は同名の学徒航空兵の手記集の映画化で、監督の無垢なまなざしが災いしてか、観ていても息苦しさを抱いてしまうものでしたが、そのラスト、出撃命令を受け、飛び立った後、司令部より命令の過ちが伝えられた時、上官が吐く言葉が「代わりはいくらでもいる」。

会社組織などでもよく使われる言葉なのだけど、逆の「俺一人いなくても社会は成り立つ」は禁句扱いなんですよね。

ロバート・アルドリッチ『合衆国最後の日』のように大統領さえ代わりはいくらでもいるとする見方もありますが、「俺一人いなくても社会は成り立つ」けど、「俺」の生きる糧を「社会」が握っている以上、強気発言は出来ないのでしょう。社会保障制度や地域貨幣などで生きる糧の補償が確保されない限り。

循環経済理論が最も自然に近い経済活動と思うのだけど、経済の停滞を恐れる方達にとっては「代わりはいくらでもいる」で有り続けた方が都合がいいのでしょうね。

そろそろ冬越え資金を考えなければ。(笑)

いじめっ小僧はいつも 一人きりで遊ぶのが嫌い
昼寝犬に石をぶつけて 吠えたてられても

中島みゆき「シーサイド・コーポラス」より
[アルバム『36.5℃』(1986年作品)収録

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あ・り・が・と・う

ふるさと行きの乗車券


ふるさとへ 向かう最終に
乗れる人は 急ぎなさいと
優しい 優しい声の 駅長が
街なかに 叫ぶ

中島みゆきさんがテレビスタジオで泣きながら歌った歌「ホームにて」。「時代」で世に出た時、見守り続けたお父さんが亡くなられ、その想いが蘇ったのでしょう。

走り出せば間に合うだろう
飾り荷物を振り捨てて
街に 街に挨拶を
振り向けばドアは閉まる

たそがれには彷徨う街に
心は今夜もホームにたたずんでいる
ネオンライトでは燃やせない
ふるさと行きの乗車券

中島みゆき「ホームにて」より
[アルバム『あ・り・が・と・う』(1977年作品)収録

帰りたくとも帰れない。
その想いを託す場所が一人一人にある。
ふるさとを振り返らない人は孤独な人。
ふるさとを粗末にする人は哀れな人。

袖振り合った人のふるさとを知る時、自分のふるさとも思い返される。
そんな優しさを奪われた時、人は時の放浪者になるのだろうと。

「戦争は親身になってくれる隣人が殺される事」落合恵子さんが新聞コラムで書かれていた言葉。懐かしめる場所を奪われる事も戦争なのではと思いもする。

生まれ故郷の裏山は地崩れ防止のため、コンクリートで固められ、気がつけば、子供盆踊りが行われなくなった、盆も終わろうとする今日、地元高校野球の甲子園優勝に沸くにぎわいにふるさとのぬくもりを感じる。

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野火

人肉喰らい


太平洋戦争の話は「自虐的」で片づけられ、「勝てる」状況はなかったのか知りたいが昨今の日本人の戦争観らしい。

先日、市川崑監督『ビルマの竪琴』1985年版を観たけど、やはり、飽食の時代、どんなに役者が頑張ろうが、当時の飢餓状況は演じられず、筋をなぞっただけのものになっていた。

おそらく、今の日本人の戦争観はどんなに当時のフィルムを見せたとしても変わらないだろうし、この「判らない」が災害などが襲い来る時、悲惨さとなるのじゃないかと思ってもいる。無駄承知であえて書こう。

「お前、喰ったろう!」

「自虐的」の極み、先日亡くなられた奥崎健三の執念映画『ゆきゆきて、神軍』(原一男監督作品)で、知ってる人は知っているだろうけど、戦争とは飢えである。

ちょっと調べたところ、食料が無くなり苦戦している時になると日本軍は戦死した兵士の死体の肉を奪い合って喰い、軍上層部でも問題となったらしく、日本軍の軍紀に「自軍の兵士の死体を食すことを罰する」と明記されたそうである。(あくまでも自軍であり、敵軍を含むものではなく、軍としても個々人の倫理観にゆだねるしかなかったのが、実情でしょう。)

「人肉喰らい」をテーマにした日本文学としては野上彌生子の『海神丸』(1922年作品)、武田泰淳の実話の戯曲化『ひかりごけ』(1954年作品)、大岡昇平の『野火』(1952年作品)、そして、1981年パリ人肉事件の佐川一政をめぐる手記、小説などが挙げられるが、戦時下の飢餓を取り上げた『ひかりごけ』、戦地の飢餓を描いた『野火』は極限状況下の人間を知る教材となろうし、警告としての『海神丸』も貴重な資料であろう。

野火』はやはり市川崑監督により映画化されており、映画版『野火』を先日観た。

過酷な戦場となったフィリピン・レイテ島。「私」は喀血し、傷兵収容所に送られるが、すぐ復隊する。足手まといとなる「私」に上官は収容所に戻れと命じ、断られれば自死するようにと手榴弾を渡され、また、収容所に行く。

こうして始まる死と道連れの旅は「死」を選ぶ事なく、「生」を模索する旅となる。

俺が死んだら、この腕、食べていいよ。

爆撃に脅え、「飢え」と闘う兵隊の一人にこう云われ、「私」の気持ちは揺れ動き、踏みとどまる。

そして、出逢った二人組。それまで草を食していた「私」に二人組は「猿」の肉を勧めるが、「私」は吐き気をもよおし、食べられなかった。けど、食べられそうな気もした。

二人組は相争い、片方が相方を殺し、その肉にむしゃぶりつく。そして、「私」を見る。「私」はそいつを殺す。

映画は人肉喰い、生き延びるか、投降かのヒューマニズムに向かうが、原作は5年後、東京の精神病院にいる「私」のフィリピン・レイテ島の野火の風景を思い返す話へと向かう。人肉喰えなかった原風景として。

武田泰淳『ひかりごけ』の人肉喰った船長の「自分が裁かれるのは当然だが、自分は人肉を食べた者か、食べられた者によってのみ裁かれたい」と願う言葉と同じく、生きるとは何なのかを人々は知るべきなのだろう。

食い物の恨みは恐ろしい。

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私は貝になりたい

藪の中


ふさえ、賢一さようなら。
お父さんは二時間ほどしたら遠い遠いとこへ行ってしまいます。
もう一度逢いたい、もういちど暮らしたい。

お父さんは生まれ変わっても人間にはなりたくありません、
人間なんていやだ。
もし生まれ変わっても牛か馬の方いい。
いや牛や馬ならまた人間にひどい目に逢わされる。

どうしても生まれ変わらなければならないのなら、
いっそ深い海の底の貝にでも。

そうだ貝がいい。

貝だったら深い海の底でへばりついていればいいからなんの心配もありません。

深い海の底だったら戦争もない、兵隊に取られることも無い。
ふさえや賢一のこと事を心配することもない。
どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい。

黒澤明一門のひとりで、後にハンセン氏病患者の家族の悲劇を描いた『砂の器』(1974年作品)の脚本でも知られる橋本忍が監督した『私は貝になりたい』(1958年作品)。

BC級戦犯裁判で、絶対服従の日本社会システムを連合国の民主主義で裁くと捕虜を殺した主犯は死刑、命令した上官は幇助で禁固刑。主犯が命令に対し、異議を唱えなかった事が重罪要因。不条理な裁判で処刑された一国民のドラマ。

同じく戦犯裁判を描いた小森白監督『大東亜戦争と国際裁判』(1959年作品)は太平洋戦争時の官僚たちの苦悩と全力尽くした戦果を描いた上、東京裁判での原爆使用の国際法違反を裁かずして、裁かれた東条英機以下A級戦犯たちの「立派な」最期を描き、「本当の平和を目指さなければいけない」と締めくくられる。

橋本忍氏が関わられた黒澤明監督羅生門』(1950年作品)はオーソン・ウエルズ監督『市民ケーン』と同じ論考でつくられ、芥川龍之介の原作「藪の中」をモチーフにある犯罪に対する幾多の証言を通して「ことばによって語られた事実は真実を表現するものではない」事を描きあげ、国際的評価を受けた作品で、真実は個々人にあるという「個人主義」を描いた物なのだろう。

「セルフサービス」をコスト軽減としか理解されなかったように、70年安保とともに民主主義も理解されず、その根幹になる個人主義も理解されないこの国は「藪の中」が未だ健在なのでしょう。

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小説吉田学校

誠心誠意、嘘をつく


森谷司郎監督小説・吉田学校』を観、戦後やくざ史、もとい、政治史を知る。(笑)

朝鮮半島緊迫化で、日本に再軍備迫るアメリカGHQに立ち向かい、サンフランシスコ講和条約で主権国・日本を「安全保障」付きではあるが勝ち取る自由党・吉田茂

官僚出身の吉田茂は主権国より再軍備を模索する輩達と対抗すべく、池田勇人佐藤栄作など官僚出身議員、田中角栄やその後の日本政治を動かす御仁たちを引き立て、「吉田学校」と呼ばれる集団を作り、鳩山一郎を担ぎ出し、再軍備企む謀将・三木武吉を中心とする民主党とのせめぎ合い、戦後政治が形作られていく。

右傾化阻止にワンマン化する吉田茂に対し、「誠心誠意、嘘をつく」三木武吉は後に刺殺される右派社会党の浅沼稲次郎と秘密裏に会談し、つぶしにかかり、吉田茂も門下生の忠告で辞めざるおえなくなる。

振り返れば、保守のあり方が戦後政治の動乱なんですね。
深く知りたいような、知りたくないような。

アメリカがイラクを日本のようにしたいと言った意味が判るような気がします。

吉田茂語録

  • 「血色がよろしいが、何を召し上がっておられるのか」と世辞を言われた。吉田の返答は「わたしは人を喰ってます」。
  • ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人が「いない」と言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
  • 引用元 : Wikipedia - 吉田茂 - ユーモア
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山の郵便配達

フォ・ジェンチイ監督山の郵便配達


中国の山間部、山の郵便配達を営む父の背を見て育った息子がいる。
父は高齢となり、その仕事を息子に引き継がせる。
道案内役の愛犬、次男坊は息子の初仕事の時、父が行かぬ故か、動こうとせず、父が息子に同行する事となる。
何日も泊まりがけで、険しい山々を歩き回るも、郵便配達を楽しみにしている人たちの手元に届ける生き甲斐。
寡黙な父が長年歩んだ道筋を息子は一緒に歩き、父を知る。
かつて確かにあり、今、顧みられない日本の風景がここにある。

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インテリジェント・デザイン

アメリカ国民の7割が信じているといわれるインテリジェント・デザイン (Intelligent Systems Design)。従来の「創造説」とは異なり、「自然は非常に複雑で、ダーウィンの進化論が主張する無作為の自然淘汰(とうた)で説明することはできない」とし、高度な「何らかの意図をもった知性=知的設計者」が介在しているとする考え方。「神」の存在は隠され、「悪」のみが強調されるというもの。

つまりは「知的設計者」の産物であるアメリカ国民を阻害するものは「悪」という論理。進化論裁判やら、公的教育で取り上げるべきかの是非が問われているとか。

そんな世相、自然の猛威など「知的設計者」の知性が解決されると思っていたのか、先日のハリケーン「カトリーナ(Catorena)」のニューオーリンズ襲来の後手ぶりは目を覆うばかり。

対岸の火事じゃないよと東京都心を襲った集中豪雨は果たして教訓になったのかなとも思うのだけど、昨年と同じく9月8日に北海道に来訪されるという台風14号(Nabi)に備えなくてはと「カトリーナ(Catorena)」の難に免れたファッツ・ドミノにあやかろうとCDを聴いたりしている。(笑)

「無駄遣い」のごまかしよりも「災害対策」「環境保護」「社会貢献」を選挙公約にした方がいいと思うのだけど、わが国のインテリジェント・デザイン論者たちもまた自然軽視なのだろうか?「人口減」が現実的統計として現れ、慌てる省庁尻目に建前論の講談は続く。

馬鹿は死ななきゃ、直らない。人民の、人民による、人民のための災害もまた続く。

台風14号の難、逃れ得たら、また、お話を。

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What a Wonderful World

ルイ・アームストロングに捧ぐ


雨台風の被害もなく、続きを綴ります。

「カトリーナ(Catorena)」のニュースを知り、皆思うはジャズの故郷ニューオーリンズの事。新聞コラムにもジャズの生みの親とも言える、サッチモ・ルイ・アームストロングの話が綴られていた。思えばサッチモの生き方が最も素直なのだろう。 黒人であり、過酷な差別に向かいつつも、人間である事を忘れず、流行にも流されなかった人。悪く言えば頑固爺さん。(笑)

ニューオーリンズに生まれた雑音(Jazz)を如何にすれば人を楽しませる事が出来るか、考え、その後の黒人民権運動の流れとしてのジャズの変遷に巻き込まれる事なく、ポップスを雑音として、個々の家庭に送り込んだ人。

「俺は黒人である前に人間さ」

そんな当たり前の理論が無視され、人は争いあう。終いにサッチモは白人のエンターテナーたちを引き立てるための「アンクル・サム」と揶揄される。人それぞれ悲しみを背負っているのに、他人は幸せそうに思えてくる。「パンドラの箱」じゃないけど、それぞれの中に「愛」はあるのに、他人に「愛」を求めてしまう。

「捧ぐるは愛のみ」「この素晴らしき世界」サッチモが歌い続けた事は「何故、自分の愛を人に向けないのか」という問いだったのだろう。

ニューオーリンズの被災者たちはアメリカ政府に対する不信感をあらわにしているという。陸と海が世界を繋ぎ、丸く収まった地球を四角四面にしようとするのは人間。無駄な事は何なのかを「愛」から知るべき時なのだろうし、「愛し方」を思い出す時なのじゃないかと。

地球温暖化で熱帯低気圧の猛威は更に強まるのではという話も聞かれ、経済優先が果たして正しいのか、人間社会は問われているのだと思う。

母なる大地の求めるもの、それは文明の便利さで失われていく人間らしさに気がつく事なのだろう。

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人間開発指数

衆院選の結果も出て、勝ち負け騒ぎに浮かれ気味の時節。数日前に発表になった国際資料をご紹介したい。

国連開発計画(UNDP)が1990年より発刊し続けている「人間開発報告書」(日本語ページ)。健康、教育、経済力の総合的な充実度を示す「人間開発指数(HDI)」を国際的に調べた物で、今年の副題は「岐路に立つ国際協力:不平等な世界での援助、貿易、安全保障」。

1990年代の人間開発の軌跡として、以下の記述がある。

  • 1億3000万人が極度の貧困から脱したが、25億人が依然として1日2ドル未満で生活しており、貧困削減のペースは1990年代に鈍化した。
  • 乳幼児死亡者数が1年に200万人減少したが、毎年1000万人の乳幼児が予防可能な原因で死亡している。
  • 就学児童が3000万人増加したが、1億1500万人の子どもが未就学のままである。
  • 12億人がきれいな水を利用できるようになったが、10億人以上がいまだに安全な水を利用できず、26億人が衛生設備を利用できない。

各国別でのデータとして、2003年の各国の平均余命、教育予算、国民1人当たりの国内総生産などをもとに算出した結果では、昨年に続いてノルウェーが1位。米国は昨年の8位から10位に後退し、中国は94位から85位に躍進した。日本は昨年の9位から11位に後退。

女性の社会進出度を示す「性別権利指標(ジェンダー・エンパワーメント・メジャー)」でも、日本は昨年の38位から43位に後退している。

そして、米国、イタリアとともに日本も「国民所得に対する途上国支援の比率が低い先進国」の例に挙げられ、支援の増大を求められている。

日本の貧富格差は国民の2割が8割の所得を有していると言われており、大勝した自民党の議員さん達にはこの所得格差の是正と途上国支援という国内的、国際的役目を国民から任されたのであろうし、大敗した民主党は第二の政党としての役割不足を突き付けられたのでしょう。

「若返り」により、戦争を知っている議員さんも若干名となり、団塊の世代の定年が本格化する次の選挙では「戦争を知らない大人達」の政治が本格化するとも言われ、「平和な時代」を生き抜いた人間たちの政治のあり方が問われる時代となるのでしょう。

政治というゲームの規則に「勝ち負け」などないのだから。

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恍惚の人

風に吹かれて


また一つプライド捨てて楽に生き

社団法人全国有料老人ホーム協会による「シルバー川柳」の入選作の一作。

これを読み、思うは日本における敗戦時の精神障碍の発病件数が全くと言っていいほどなかったらしいという話。

想像するに「一億玉砕」的なあおりへの嫌戦感からの解放による結果であるだろうし、「贅沢は敵だ」的押しつけによる貧困への慣れから来る個々人の混乱期への対応可能な状況が素地として出来上がっていたからなのだろうと。裏返せば、「馬鹿な戦争に荷担してしまった」という悔恨の念から「しっかりしなければ」と云う意識も国民の中にあったのだろう。

社会モラルが強固な日本太平洋戦時下やドイツナチスなどの時代は極度な我慢を強いられたために、近隣諸国やユダヤ人への排斥が強まり、妊娠した母胎ではそのストレスが胎児にまで影響及ぼし、出産時のトラブルから発症する脳性麻痺やダウン症などを生み出しもしたのだろうし、戦地や空襲などの極限状況にもなると戦争後遺症とも云われる精神障碍が多く発症したりもした。

また、軍規厳しい軍隊では上下関係の厳しさにより言葉を発する事さえ、社会的モラルが求められ、言語障碍が多発したという。

戦後混乱期を乗り越えた日本は高度成長期に入り、「目標」や「結果」を重んじる社会的モラルが強まり、安定成長に入った1970年代、映画化もされた有吉佐和子の「恍惚の人」が発表され、「目標」や「結果」から解放された高齢者が心のよりどころを見失い、家族に依存したくない、何かせねばならない強迫観念から「徘徊」という行動をとる「老人性痴呆」が社会問題として現れもした。

来年の団塊の世代定年より本格化すると云われる「高齢化社会」。障碍持つ個々人の問題として片づけられて来たこれらの社会的責任を考え直す時なのだろうし、自然に沿った社会形成の模索、過度な社会意識の是正、個々人の社会に寄らない自分なりの生き方が大切になってくるのだろうと思うのですが。

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幻獣辞典

ホルヘ・ルイス・ボルヘス幻獣辞典


現代は怖れを忘れた時代。

かつて、人間は世の人々を動物になぞらえる「鳥獣戯画」を楽しんだけれども、今の世は万物を人になぞらえる擬人化が好まれるよう。

先頃、イギリスで水爆が生み出した幻獣映画『ゴジラ』の完全版が公開されたらしいけど、映画の都ハリウッドでは未だゴジラが何故目覚めたのか、伏せられたままらしい。

「すべての知識は追憶に他ならず」
「すべての新奇なるものは忘却に他ならず」
不死の人」フランシス・ベイコン「エッセイズ」引用

図書館の幻獣にして、盲目になっても本を愛したホルヘ・ルイス・ボルヘス。その彼が古今東西の人々が恐れ、宇宙を模した幻獣をまとめた「幻獣辞典」。宇宙を知る事で今ある障碍が見えてくるような気がし、「幻獣辞典」より人間にまつわる内容を著名な名言と織り交ぜてご紹介。引用要約であるので、その宇宙が十二分に伝わらないかも知れないが。

分身

分身という概念は多くの国に共通のもの。ピュタゴラスの「友はもう一人の自己」。プラトン的な「汝自身を知れ」。ドイツ語では「二重に歩く者」スコットランドでは人間を死に運ぶために連れにやってくる、あるいは死の間際にみる自分そっくりの姿。古代エジプトでは万物すべてが分身を持ち、ユダヤ人は予言者の力を得た証。エドガー・アラン・ポウの「ウィリアム・ウィルソン」という物語では、分身は主人公の良心であり、主人公はそれを殺し、そして死ぬ。

「思い出は人を裏切らない。人が思い出を裏切るのだと思います。」
吉田喜重監督さらば夏の光

ハニエル、カフジエル、アズリエル、アニエル

バビロンで預言者エゼキエルは四頭の獣、つまりは四人の天使を幻のうちにみ、四重の天使は生き物と称され、福音書書家は生き物の四つの顔からおのおのの象徴を引き出した。

マタイは時に鬚をたくわえた人間の顔。マルコは獅子の顔。ルカは仔牛の顔。ヨハネは鷲の顔。マタイが人間の顔を与えられたのはキリストの人性を強調したからであり、マルコの獅子の顔はキリストの王たる位を公言したからであり、ルカの仔牛の顔はそれが犠牲の象徴だからであり、ヨハネの鷲の顔はキリストの飛躍する霊のためである。

ニコラス・デ・ヴォーレ『占星術百科』のなかでこの四つの姿がいっしょになって、人間の顔、雄牛の身体、獅子の爪と尾、そして鷲の翼を持つスフィンクスとなったと述べている。

スフィンクス

ギリシャのスフィンクスの有名な逸話、「四本足、二本足、三本足があって、足の多いほど弱いのは何か」答えられぬ者を取って食べたこの幻獣に「それは人間である」と答えたオイデップス。謎が解け、スフィンクスは崖から身を投じたが、この謎は孤児として頼る者もなく生まれ、孤独な青年期を過ごし、盲目となった絶望の晩年、アンティゴネーに支えられたオイデップス個人であったともいう。

「目はおのれを見ることができぬ、なにかほかのものに映してはじめて見えるのだ」
シェークスピア「ジュリアス・シーザー」ブルータスの言

鏡の動物誌

『教化と珍問の書簡集』にて、中国の黄帝の伝説の時代、鏡の世界と人間の世界は、今日のように切り離されてはいなかった。さらに、双方がまるで異なっていた。存在も色彩も形も同じではなかった。双方の王国は円満に共存していた。ある夜、鏡の人々は地上に進入し、血まみれの戦い終わる頃、黄帝の魔力が支配し、侵入者たちは撃退され、鏡の中に閉じ込められ、あたかも一種の夢の中でのように、人間のすべての行為を反復する仕事を課せられた。しかしながら、いつかその魔力が解ける日がやってくる。鏡の生き物と手を組み、水の生き物たちも戦いに加わる。

「鏡は死者の国とこの世を繋ぐドア」
ジャン・コクトー監督『オルフェ』

エロイとモーロック

ハーバート・ジョージ・ウェルズが1895年に発表した小説『タイム・マシン』。そこで描かれた未来は二つの種に分裂している人間たち。庭で無為に暮らし、木の実を食べている、ひ弱で無防備な貴族エロイと、幾時代も暗闇で労働してきたので盲目になってしまい、それなのに過去の力に駆けられて、何も作り出さない錆び付いた複雑な機械を動かし続けている地下労働者の種族モーロック。螺旋階段のある鍵穴がこの二つの世界を繋ぎ、月のない夜、モーロックは彼等の洞穴からよじ登り、エロイを喰う。

「私たちは国民に望んではいない。国民が私たちに望むのだ」
オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督ヒトラー 最期の12日間』より

「幻獣辞典」では日本に関する記述はあまり深いものではないけれど、自分の生前の行いを繰り返し味合わせる「地獄思想」。裁きを行う閻魔はどこにでも奉られた地蔵菩薩の化身なる話は仏教界の輪廻思想を好まれていたボルヘス好みなのではないかと思われたりもする。

怖れを忘れた現代、求められるのはこれら「幻獣」のような気もする。三池崇志監督『妖怪大戦争』が海外映画祭で好評博したようですし。

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徒然なるままに : 過去記事 2005-08-15 掲載 2005-09-23 加筆
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