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天井桟敷

From 2006-07-22(土)
To 2006-08-26(土)

著作権切れ映画DVDの裏話

なかなかパブリック・ドメイン(公共財産)の考えが根付かないわが国。

先日の『ローマの休日』裁判は1953年作品はパブリック・ドメインにあたるかどうかの裁判で、著作権法を所管する文化庁が、1953年公開の映画について、「著作権保護期間が終了した2003年12月31日午後24時と、改正法施行の2004年1月1日午前0時は同時で、改正法が適用される」と説明し、改正法前の公開50年を過ぎる2004年から著作権フリーのパブリック・ドメインとは扱わずに改正法適用の公開70年、つまりは2024年まで著作権保護対象にするという判断が適切か争われたもので、公共財産の確保を果たすべき文化庁が大手映画会社を擁護するというまことに不思議な話。

著作権法に関しては日本国内に適用されるもの、国外作品の取り扱い、それに国際社会から孤立していた期間を加算する戦争加算なるややっこしいものも絡んでいる。

著作権法だけでもひとつの記事になると思いますが、ここではそういう著作権が切れた映画のDVDの楽しみ方をご教授しよう。

先の判決で1953年公開までの映画作品はすべてパブリック・ドメイン(公共財産)なのかというとそうでもなく、アメリカのように旧法で著作権申請がされていれば、1953年以前でも著作権保護になる例もあれば、著作権記述がなくパブリック・ドメインになってしまった1963年作品の『シャレード』の例などもある。

パブリック・ドメインになった映画でも音楽の編曲などが著作権保護されているものもあり、なかなか難しいのだけれど、そのような映画をDVDなどで販売する際、著作権に引っかかりそうな箇所をカットしてDVD化するようである。

例えば、映画オープン時のライオンが吠えるとか、エベレストが映るなどの会社ロゴマーク場面、ここら辺は映画会社の著作に抵触するのでカットとか、なされていたりする。

また、低予算でのDVD化のため、字幕の間違いが多い場合もあり、画質もどのマスターテープを使うかで、変わってくる。

書店等で売られる格安のDVDには以上のようなデメリットが挙げられるのだけれども、もっと問題なのが、メーカー製のDVD。

ローマの休日』のような現役メジャー企業が提供するものはよほどの価格差ない限り、メジャー製を買うべきだろうけれども。

マスターテープといってもピンからキリまであり、最高の状態のものをリマスターしたものがメーカー製のDVDとは限らず、業界再編の激しいアメリカではかつてメジャーを誇っていたRKOという映画会社などはDVDメーカーがフィルムを探し出し、DVD化したりしているし、著作関係の複雑なヨーロッパ映画はマスターテープを見つけるだけでも大変という。

そして、日本のDVDメーカーでもこのリマスター作業を簡略化し、ヨーロッパの放送形式で収録されたDVDを日本の放送形式に変換しただけのものを売っていたりするケースも時折見られ、すでにDVD化されているものが、別会社から「デジタルリマスター」の売り文句で出されても、マスターテープが以前発売のものより悪い作品もあるなど、問題絶えない。

その最も有名な例がRKOのオーソン・ウェルズ監督作品『市民ケーン』で、遠景と近景をぼける事なく撮ったパンフォーカスが抜けの悪い最悪の画質でメーカー、格安ともに売られており、最上のリマスターを提供するアメリカ盤に比べれば、日本の文化レベルのなさは泣けてくるほどと云われている。

また、日本映画もパブリック・ドメイン対象作品はあるのに企業保護を名目に、中国などで出されるパブリック・ドメインの日本映画が輸入禁止になっていたりもする。

早い話が日本国民は文化を享受したければそれなりに金を払えという事なのかなとも思うけど、熱心な映画ファンにより、格安DVDの製品状況がネットで語られたりするので、メーカー制の粗悪品チェックや良質格安DVDを選ぶ術が出来ただけ、民主主義になったのかなと。(笑)

昔、フランス映画に『天井桟敷の人々』という名画があったけれども、この国には演劇小屋の誰もが気楽に観られる天井桟敷が用意されぬまま、市民ホールの存続問題が討議されていたりする。

文化先進国アメリカではパブリック・ドメインの映画をファイルとして、無料配布しているサイトもあり、DVDなどのメディアとして欲しい場合はDVD-Rで提供というサービスもあり、そこにはアメリカで著作権申請し忘れたのか、『復活の日』などの日本映画も数本含まれている。

格安DVD、片手に「昔はダビングテープで我慢したんだからまぁいいっか。」こんな語りも聴かれるこの国の貧しさ。『自由を我等に』といいたいところ。

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サンダカン八番娼館 望郷

祖国に背を向け建つ墓標


海外売春婦、からゆきさんを知ってますか?

「からゆき」とは海外を唐天竺(からてんじく)と読んでいた時代、唐(から)は中国であり、天竺(てんじく)はインド。その海外へ行く人を「からゆき」と呼ぶ島原、天草の語源から来るものだそうで、大陸に近い九州の海外への出稼ぎを差し、貧しい被差別部落の女の子が多く売り飛ばされたという。

からゆきさんが歌った子守唄ともされる島原の子守唄には「早く寝なきゃ、子供らを売り飛ばす女衒が来るよ」と歌う歌詞も織り込まれており、ネットを探せば、英語で歌う島原の子守唄も聴く事が出来る。

からゆきさんの小部屋」によると売り飛ばされた先は世界中に広がっており、その分布と重なり合って日本人墓地があるという。

戦後も語られる事のなかったからゆきさんの実態をルポルタージュした山崎朋子の原作を映画化した熊井啓監督サンダカン八番娼館 望郷』(1974年作品)はまだ貧しさが分かち合えた時代に作られた映画。

明治の日清、日露戦争の頃、天草の貧しい家庭に生まれ、お国のため、外貨を稼ぐためと、女中奉公を名目に海外に売られた女達。九州の島原、天草などから東南アジアに密航という形で渡っていき、マレーシア・ボルネオ島の港町、サンダカンの娼館(売春宿)に売られた女、おサキさん。

アジアの女達をルポルタージュする女性記者の目を通し、語られる年老いたおサキさんの人生の過酷さは国に棄てられ、国を棄てた女達のひとつの物語。

外貨を稼いで、故郷に帰れば、戦勝国となったこの国は恥さらしとしてからゆきさんを排斥する。帰る土地すら追われ、大陸進出、満州開拓団の国策に乗らざるを得ないおサキさん。

おサキさんがいたサンダカンもまた大日本帝国の国策の下、からゆきさん達は国防のためやってきた日本兵達の従軍慰安婦となる。けれども、戦況悪化とともに空爆が続き、各地で日本兵の処刑が始まる。サンダカンにいた民間人はボルネオ島のジャングルをさまよう「死の行進」を余儀なくされる。(サンダカン勤務と死の行進[ボルネオ研究より])

年老いたおサキさん演じた田中絹代は童女のように振るまい、自身の運命をあらがうことなく生きた一女性の晩年を演じきり、若い頃のおサキさんを演じる高橋洋子はその過酷な運命を声を殺す演技で表現した。

現在、サンダカンは近隣のあの「死の行進」が行われたジャングルに住むオランウータンを観る観光地となってはいるが、昨年の大津波のような災害が起これば、いっぺんに流されてしまう水上部落のある港町であり、その街の片隅の日本人以外誰も行きたがらないからゆきさんたちの眠る日本人墓地がある。(サンダカン八番ガイド)

映画『サンダカン八番娼館 望郷』のラスト、その墓標はみな国に背を向け建っていると語られる。

国に棄てられる意味と、国を棄てる意味の違い、新たなる棄民の時代、知っておくべきだろう。

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サンダカン八番娼館 底辺女性史序章

祖国に背を向け建つ墓標 余話


こんな情報を頂いた。

マレーシア・ボルネオ島のサンダカン日本人墓地の墓標の向きは山の傾斜のためやむをえないものと書かれている本がありました。つまり『サンダカン八番娼館』の原作者、山崎朋子さんが国に背を向け建っていると書いているのでは恣意的あるいは誤解しているとの指摘だった記憶があります。

先に掲載した「祖国に背を向け建つ墓標」を書く際、僕もネットで少し調べ、シンガポールの日本人墓地の墓標は日本に向いて建っている話を読んでおり、この情報はあながち間違いではないでしょうと返信し、何故、僕が山崎朋子さんの『祖国に背を向け建つ墓標』をタイトルに持ってきたか、少し説明した。

サンダカン日本人墓地の地形がそうであっても、何故、そのような土地に日本人墓地を作ったのかまで、指摘された方は書かれているのだろうか?そして、生きている間、「自由」とは無縁の彼女たちが死んだ後、『祖国に背を向け』る事を望んだとして、それを叶えてくれる環境があったとは考えがたいのじゃないか。

それよりは日本はボルネオ島のほぼ北側、死者を葬る際、「北枕」に寝かせ、墓標の向きは北を向く事を避けるとする仏教界の風習に沿って建てられたと解釈する方が自然だろうし、山の傾斜云々する事は例えそうであったとしても弔って下さった方々に対しても失礼に感じられる。

そして、むしろ、『祖国に向かって建つ墓標』の方が裏切られてもなお、故郷を思い、それすら叶えさせられなかった日本の非情さを現すのじゃないだろうか?

映画『サンダカン八番娼館 望郷』でルポルタージュで泊まり込んでいた女性が帰る時、おサキさんに「何故、私を疑わなかったのか」と聞くシーンがある。

「疑ったって、仕方のない事。何か云えない訳があるのだろうと思っていた」

我が身に置き換え、語るおサキさんは束の間の女性との生活を楽しむ事を選び、別れ際に女性が使っている手ぬぐいが欲しいという。

「お前と暮らした証が欲しかった」

真新しい手ぬぐいなんかじゃない自分を優しく守ってくれた女性の汗がしみた手ぬぐいをおサキさんは宝物のよう頬擦りし、ありがたがる。

山崎朋子さんがボルネオ島サンダカンで『祖国に背を向け建つ墓標』と指摘したかったのは、国に見棄てられても、人を愛おしむおサキさんへの報いとして、国に棄てられ、国を棄てる女達の意地を示したかったのじゃないだろうか?

その意味でも、先頭に書いた『山の傾斜のためやむをえないもの』と指摘された文献は人が人として生きる尊厳を見失った指摘のように感じてしまう。

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前略おふくろ様

田中絹代 童女のように


田中絹代さんが亡くなられて、来年で30年。ビデオ化すらされていなかった代表作の一本、木下恵介監督楢山節考』(1958年作品)も著作権問題をクリアでき、DVD化され、数多く出演された溝口健二監督の作品群も目出度く、この秋にまとめてDVD化で観られるようになるという。

ここでは晩年、熊井啓監督サンダカン八番娼館 望郷』(1974年作品)で、その女優魂を発揮した後の今では知る人も少ない田中絹代さんの晩年の活躍の話をさせて頂き、田中絹代という日本を代表する女優の生き様を書き記します。

「この場面の主役は花畑です。」

倉本聡脚本のテレビドラマ『りんりんと』(1974年作品)で、北海道の虻田の花畑での撮影の時、母役を演じた田中絹代さんは花畑にその身を埋め、花畑を見せた上で、姿を見せた。

制作された元北海道放送のディレクター、守分寿男さんが20数年前、田中絹代さんのお話をお聞かせ下さった話を思い出す。

倉本聡さんの実母が生前「私、本当に生きていていいの?」と倉本さんに語られた話をモチーフにしたこのドラマは、年老いた母を北海道の虻田にある老人ホームに連れて行く現代の姥棄て話。

健忘症を患った母が無邪気にはしゃぎ、道行きのフェリーで我が子に亡き夫との想い出を語るドラマのラストシーン、童女のような田中絹代さんの芝居があった。

このドラマが翌年、更にふくらみ、出来上がったのが、『前略おふくろ様』だが、その母親役もやはり田中絹代さん。

その田中絹代さんと笠智衆さんの名優競演による『幻の町』(1976年作品)の時の話。

笠さんは風邪を引かれ、体調優れず、この話を断ろうとしていたらしいのだが、それを聴いた田中さんが笠さんに電話され、懇々と説教されたそうである。

戦時中暮らしていた樺太真岡を懐かしみ、その「幻の町」の地図を作る夫婦が、出るはずのない船を求め、小樽に着く。

身寄りない老夫婦の心の寄りべを描いた『幻の町』の撮影エピソードで、守分寿男さんは田中絹代さんは溝口健二監督の元で演技を磨かれた方で、長回しを得意とした溝口監督は役者に芝居を考えさせる監督であったがためか、田中さんの芝居は自然発生的に生まれる芝居。対する笠智衆さんは小津安二郎監督の映画によく出演し、首の上げ下げひとつからすべて指定する小津監督の演出手法からか、事細かく指示すればするほど、それを絵にする方だったとか。

ラストの小樽埠頭、老夫婦のキスシーンも田中さんが笠さんをリードする芝居であったという。

笠さんを説教された田中さんは実のところ、この時すでに体調を壊されており、翌年1977年3月21日、亡くなられる。

倉本聡脚本『前略おふくろ様』も田中絹代さんの死を悼む形で終わっているが、その最終回、 萩原健一扮する息子が、こんな語りを聴かせる。

「自分のおふくろの若く、可愛く、恋をした、そうした時代を考えもしなかった。でも、おふくろにもそれはあったはずで。」

木下恵介監督陸軍』(1944年作品)で、軍部より女々しいとお叱り受けた出征する我が子を延々見送り、追い続ける母を演じ、溝口健二監督山椒大夫』(1954年作品)では引き離された安寿、厨子王を思い続ける母を、そして、姥棄て話の木下恵介監督楢山節考』(1958年作品)では「お迎え」来る歳なのに歯が生え揃っていて卑しいと自らその歯を石臼にぶつけ、へし折る芝居のために、永久歯を抜いてまで役作りされた田中絹代さんは、芝居にその生き様を捧げた方であり、日本の母を演じ続けた方。

田中絹代さんを知る方達により設立された「 田中絹代メモリアル協会」も高齢のため、訃報が多く聴かれるようになったらしい昨今、田中絹代という日本の母がいた事を思い返したいもの。

前略、田中絹代さま。

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清作の妻

増村保造 日本的ルネサンス


晩年の山口百恵「赤い」シリーズや、「スチュワーデス物語」などテレビドラマの演出、脚本で有名な増村保造監督が亡くなられて、没後20年だそうで、「増村保造レトロスペクティブ」としてカルト的人気は衰えを見せず、代表作で未DVD化のものも数本、この秋に出されるそうらしい。

増村保造監督は「スチュワーデス物語」でも有名になった「教官」の一本調子のセリフ回しで芝居全体を押し通し、若い頃は東大卒業後、ローマの映画センターに送った論文が合格し、イタリア留学を果たし、最近やっとDVD化が実現した溝口健二監督の元、日本的ルネサンスにこだわり、映画監督になった後、日本的人間の自覚、すなわち日本的ルネサンスを性愛を軸に描き続けた監督。

日本の映画制度として、大企業五社の競い合いから生まれたプログラム・ピクチャー、すなわち、上映映画に穴を開けない消化作品を作る体制から監督達の知恵の競い合いの結果、生まれた作品群には一部マニアからカルトとして語り続けられる監督を多く生み出したが、増村保造監督もそのひとり。

初期作品の管理社会の始まり時期の高度成長をあざ笑った開高健原作の『巨人と玩具』、最近テレビでリメークされた『氷壁』は小手初めで、1960年代、増村保造の日本的ルネサンスは爆発する。

「頭で考える」男と「心につき動かされる」女のせめぎ合いは従軍看護婦を描き、海外でも高く評価された『赤い天使』(1966年作品)に結集されるだろう。

仮病で入院続ける患者軍曹に言い寄られ、集団で強姦され、手を失った兵隊に懇願され、手淫を手助けをする。

劣悪な救急医療の現場、輸血の血の確保のため、負傷兵の切らなくていい手足を切り落とす医師は精神的にも肉体的にも疲労困憊しており、モルヒネでその身体を保っている。

主役の従軍看護婦は尊敬する医師に身体をゆだねるが性的不能状態の医師の身体を知り、献身的な介護をする。

現代に題材を求めれば、対立的二極論に陥りがちになる事を「戦場」を舞台とする事で、ストイックなテーマが浮かび上がる。

それはその前年に作られた『清作の妻』(1965年作品)の愛する夫を兵隊として国に奪われるならば、夫の眼を五寸釘で突いてでも手元に置きたいエゴイステックな愛の物語で、個人のエゴと村社会のエゴの対立として映し出されていた。

これも最近テレビドラマ化された『華岡青洲の妻』(1967年作品)では麻酔薬の開発に手助けする献身的な妻も姑に負けたくない意地で、妻の座を守り抜く壮絶な戦いがあり、結果、失明した身となっても、勝ちなどなく、自分のエゴイステックな争いの結末に向き合わねばならない自分がいるとする「幸福論」が展開された。

便利さに溺れ、慎重さを忘れがちの今日、増村保造の日本的ルネサンスが何故、受けるのかは判らないし、その劇画的ドラマ展開が受けているだけなのかも知れないけれど、生きる上で激しく抵抗せねばならなく、抵抗した後、断罪が我が身にのしかかっても生きねばならない、日本的ルネサンスは裏返せば、「下流社会」と云われても怒る事もせず、「ワーキング・プア」となっていき、笑いながら殺されていくのだろうと云われる今日の庶民感情の中に埋もれ、育っているのかも知れない。

江戸川乱歩原作『盲獣』(1969年作品)のように裸体をイメージしたオブジェクトの上、抵抗していた女が愛し合い、貪り合い、終いに互いの手足を斬り合う、そんな恐ろしい世界、あるいは素九鬼子原作『大地の子守歌』(1976年作品)のように幼くして売春宿に売り飛ばされ、わずか数年で、過酷な人生を味わいつくし、盲目のお遍路旅を生き抜くか。

増村保造の日本的ルネサンスは現代人が忘れた「生きる意味」を語りかけているのだろうし、だからこそ、没後20年にしてなお、DVDが活況に再販されるのだろう。

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歴史遺産に無知な社会

世界遺産である広島・原爆ドームのバッファーゾーン(緩衝地帯)内での高層マンション建設問題を遅ればせながら、先日、テレビのワイドショーで観て、知った。(JANJAN : 原爆ドームが危ない!)

被爆という語り継がなければならない原爆ドームの景観を被爆都市である広島市がその景観保護に「高さ」の問題を考慮していない対応遅れたのにもあきれたのだけど、建設業者、マンション購入者の歴史観のなさがおそらくはこの問題の根元なのだろうと思う。

それは『危機遺産』といわれる武力紛争、災害、都市の乱開発などにより「重大かつ特別な危機」がおよんでいると世界遺産委員会から判定された遺産として、世界遺産の抹消という問題を抱える事だけれども、それ以前の『今』しか考えない刹那的社会の怖さだろう。

北海道新聞で四回シリーズとして【鼎談「ポスト小泉」を語る】として、半藤一利さん、高村薫さん、中島岳志さんのお三方が語られる記事の中に、東京大空襲でも、阪神大震災でも「位牌」を探すお年寄りがいたという話があり、果たして今、大災害が起こった場合、「位牌」を探す行為を自分たちはするだろうかという問いがあり、そういう守るべき物がすっぽり抜けた「空っぽ」状態が今なのだろうなぁと認識したりもする。

お盆の語源、盂蘭盆とはサンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、亡き母が餓鬼道に落ち、喉を枯らし飢え、水や食べ物を差し出しても、口に入る前に炎となる、その哀れさを救う手だてとして、親類縁者が集い、食べ物を施せば、亡き母も餓鬼道の責め苦から救われるとする教えから来ているもの。

そんな話はナンセンスであり、非科学的と云われるかも知れないが、人と人との繋がりを説いた供養の気持ちが薄れると、子供らへの伝承の意識も薄れ、自己満足なお盆供養に終始するのだろう。

石原都知事が小泉首相提案の「日本橋」復活案に対し、「つまらん金かけるより、日本橋をどこか近くの川に移したらいい」と提案したのも社会遺産の価値を理解せずに高度成長した国ならではの発想だろうし、歴史的都市景観を守ろうとするヨーロッパの美的センスなど理解できないだろう。

日本という国はアクセルだけで、ブレーキを持たない国。国民は明治期は富国強兵に踊らされ、戦争時には出征兵士、戦後は企業戦士と、奉仕の美徳が植え付けられ、エコノミック・アニマルと云われても、「通勤電車は奴隷船」と揶揄されても変わらなかった国民性。

増村保造 日本的ルネサンスで書いたように障碍持たなければルネサンス(人間開花)出来ないこの国は「土地」が滅ぶが先か、「人」が滅ぶが先か、なのだろう。

歴史の重みを顧みない結果は、経済優先のここ20年に生まれた子供達の人口が物語っているのだろうし、靖国存続議論は少子高齢の打開策を示さなければ、絵に描いた餅だろう。

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日本沈没

日本沈没のアイデンティティ


愛する祖国の沈没を描いた『日本沈没』がリメーク公開されている。筆者も最初の映画版を劇場封切りで観、原作を読んだ口なので、気になり、ネットで評判を調べてみたりするが、災害実体験が乏しいのか、その手の批判を目にし、観る気を失せているのが正直な感想だが、コンピューター・グラフィックの技術が確立する以前の日本、特に東宝の特撮の歴史なぞ、ちょっとまとめてみたいと思い、この記事を書く。

「日本で一番有名な俳優」ゴジラを生んだ東宝特撮は特撮の神様、円谷英二と黒澤明作品のプロデュースを手がけた田中友幸により、本格稼働する。

特撮の神様、円谷英二

飛行機好きの少年、円谷英二はその夢を叶えるべく、映画界に入り、日本初のクレーン撮影を実行したりし、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスの指示で製作された『新しき土』では、スクリーンプロセスの技術を使用して、山岳映画の巨匠として知られたアーノルド・ファンク監督を唸らせもし、『エノケンの孫悟空』(1940年山本嘉次郎監督作品)ではいち早くテレビ技術をスクリーンで紹介したりもしている。

その円谷英二のあこがれが叶ったのは太平洋戦争突入時、その戦果を映像公開する事を許可しなかった政府の指示により、『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年山本嘉次郎監督作品)で、ミニチュアワークスと特撮を駆使した映像は連合国軍最高司令官総司令部が信じなかったと言われるほどの伝説を生むが、結果、多くの若者達を戦争に駆り立てる結果となり、円谷もこの映画の事を多く口にする事はなかった。

敗戦後、円谷は公職追放の身に置かれるが、黒澤明の師弟である本多猪四郎監督の連合艦隊司令長官山本五十六の悲劇を描いた『太平洋の鷲』(1953年作品)で本格的に復帰し、同監督とのコンビによる『ゴジラ』(1954年作品)誕生へと繋がっていく。

核の落とし子、ゴジラ

ヒロシマ、ナガサキの原爆の悲劇も癒えぬうちに、ビキニ環礁での米国核実験、第五福竜丸の被爆のニュースが飛び交う年、南洋の水爆実験のため海底の住み処を追われた太古の怪獣「ゴジラ」が、大都市東京に襲いかかる。

守る自衛隊も『ゴジラ』公開時はまだ警察予備隊であり、存在せず、その年、自衛隊法が発効されたためか、自衛隊の名称は使われず、防衛隊として登場し、防衛軍、地球防衛軍へと発展していく。

人間が生み出した恐怖の象徴として生まれた『ゴジラ』はアメリカに渡り、「核」抜きの怪獣映画として、公開される。

生誕50年の2004年、ようやくイギリスで完全版が上映された『ゴジラ』も、ハリウッドでは殿堂入りまで果たしたゴジラが初回作で何故暴れ、東京を破壊したか、アメリカ国民は未だ知らないという落ちまである。

円谷英二はその後、独立し、テレビで『ゴジラ』などの怪獣映画と平行し、制作していた怪奇ものをドラマ化し、アメリカのTVドラマ『アウターリミッツ』や『トワイライトゾーン』を意識し、『アンバランス』という企画で、「自然界のバランスがもし狂ったら」というテーマでシナリオを作り始めたが、テレビ局の意向により、怪獣対決ものになってしまった『ゴジラ』の延長線上のものを望まれ、『ウルトラQ』が誕生する。

ウルトラQ』のタイトルも東京オリンピックで話題となった「ウルトラC」から取ったもので、妥協の産物ではあったが、円谷プロの念入りな作成が功を奏し、ドラマは大ヒット作品となるが。

局側の要望に実験的な物語を組み込ませつつも、「あけてくれ」放送中止の憂き目にあいつつ、局側は更なる大衆迎合を求め、怪獣を退治する巨大ヒーロー『ウルトラマン』が誕生する。

『日本沈没』で救われた映画界

ゴジラ』ブームの余波は映画会社各社、ゴジラの模倣を生み、御本家東宝は『モスラ』、日活の『ガッパ』、大映の『ガメラ』『大魔神』、そして、日本人スタッフによる北朝鮮映画『プルガサリ』まで作られたが、二番煎じ、三番煎じで飽きられ、家庭に普及しだしたテレビに押され、1970年前後は五社あった映画会社も日活がポルノ路線に転向し、大映も制作から撤退するなど、映画界にとっては厳しい時代で、任侠映画から『仁義なき戦い』などの現代やくざ映画に路線変更した東映、『男はつらいよ』で息吹き返した松竹に比べ、東宝にとって決め手となるものが見いだせない時、『日本沈没』(1973年作品)は作られた。

黒澤明作品でチーフ助監督を務めた森谷司郎が監督となり、脚本は黒澤作品に参加していた橋本忍があたったこの映画は高度経済成長後の狂乱物価とも言われたインフレ、石油ショックなどの社会不安、そうした風潮の中でノストラダムスブーム、終末ブーム、超能力ブームに乗るかのように1964年から数冊規模で執筆企画されていた小松左京の原作を出版者の要請により、短縮、出版されたもので、中身的にはダイジェストという批判もあったが、世相にうまく乗り、原作、映画共に大ヒットを記録した。

映画上、日本沈没の警告を続ける田所雄介博士に扮した小林桂樹は未だ、田所博士と呼ばれるほどこの映画での小林桂樹の役は黒澤明的な硬派のメッセージが込められた役柄であり、日本が沈みなくなる時、世界に散らばっていく日本人に対するエールは昭和元禄で苦難を忘れた日本人に対する警告となり、重くのしかかっていた。

「この国の人間はまだまだ幼い。外で暴れてもこの島に逃げ帰れば何事もなかった振りが出来る」

『日本沈没』の余話もいろいろあるようだけど、原作の設定は人口減少が始まった翌年との事で、奇しくも今年2006年がそれに当たるのだけど、その前年に東京大地震が起こっているあたりは違っており、リメイク映画と同時期に刊行された『第二部』は世界に散らばった日本人のアイデンティティの話であり、地球寒冷化の話であるらしい。

アイデンティティ、「僕の事、好き?」と問う子供のように自分の存在価値を問う事が余り無い日本人にとっては『日本沈没』のパロディ版として映画公開される筒井康隆原作の『日本以外全部沈没』のこの世に日本だけ残って、世界中から人々が集まったらどうなるかの方が少子化社会の今、判りやすいかも知れないし、筆者も実はこちらを観たい気持ちが強い。(笑)

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プライムセレクション 加藤登紀子

不器用なかもめたち


規制緩和が行われ、専門知識を必要とする職種に異業種が入り込む現代、専門知識を有する中小企業として家内制的な企業活動をしている会社が高齢化により、後継者が見つからないまま、会社をたたむ事情が、来年からの団塊の世代定年により、加速していくという「技術の継承」問題があるという。

この話を聴き、思い出すのは1970年代終わり、団員が6人しかいない弱小劇団の話という倉本聡さんのテレビドラマ『六羽のかもめ』。ビデオ録画などまだ出来なく、ちょうどその最終回をカセットテープに録音したものが手元にあったので聞き返してみた。

今では当時、シナリオ文学として単行本で読む事も出来たシナリオも入手不可能で、ビデオにもDVDにもなっていない作品だが、倉本聡さんにしても、主題歌を歌った加藤登紀子さんにしてもある種、ターニングポイントになった作品。

オープニングでかかる主題歌の逸話は加藤登紀子さんのサイトでも紹介されている。(高くも遠くも飛べない)

「カモメってやつは情けない鳥でね、高く飛んだり、遠くへ飛んだりしないんです。結局港のゴミゴミした辺りの残飯なんかをあさってね、一生終えてしまう奴ばっかり。そんなさえない鳥への愛しさがあのファドみたいな懐かしい感じで出せればいいと思います。」

倉本聡さんはこの団員が6人しかいない弱小劇団の話の主題歌として、哀愁漂うポルトガルのファドのメロディをイメージされていたのだ。

スペインと並び、大航海時代、世界各地に新地を目指したこの小国の首都、リスボンの貧しい一角でファドは生まれたという。

ファドの語源は、ラテン語のファトゥム(運命)から来たとされ、大航海の結果、異文化の混血が余儀なくされ、産まれた音楽と云う。

この哀愁がポルトガルから発せられたのか、ポルトガルに連れられてきた人々から生まれたのかは議論があるそうだが、それが船に乗り、ブラジルでサウダージ(懐かしさ、哀愁)となり、インドネシアでクロンチョンという世界最古のポピュラー音楽を生む。

以上、ミュージック・マガジン増刊「ミュージック・ガイドブック」より。

そんな背景を持つ曲調の主題歌が流れるテレビドラマ『六羽のかもめ』はおそらく倉本聡さんの土地へのこだわりの一歩だったろうし、この後、NHK大河ドラマ『勝海舟』制作にて、脚本家の演出関与の是非の問題がこじれたことに嫌気がさし、と同時に「田中絹代 童女のように」でも書いたお母さんからの重い問いから、自分の生き方を見つめ直す時期に書かれたものなのだろう。その後、北海道に移り住み、『うちのホンカン』という村の派出所勤めの警官一家の物語を作り、『北の国から』を倉本聡さんは生み出す。

『六羽のかもめ』の最終回は、後にエッセイ集のタイトルにもなる「さらば、テレビジョン」。大衆迎合、視聴率優先でメディアの役割を見失っていくテレビ業界への倉本聡さんの哀しみを被せたものであり、弱小劇団を切り盛りするマネージャーの存在価値と平行に、おそらくは倉本聡さんのアイデンティティの確認となった作品なのだろう。

ドラマはこの弱小劇団を使い、俗悪化したテレビが法規制で破棄され、闇でしかテレビが見られない未来のドラマ、ちょうど、レイ・ブラッドベリの名作「華氏451度」のテレビ版のようなドラマを作る話とその制作過程が描かれる。

そのテレビ放映最後の日、倉本聡さんの分身とおぼしき脚本家が酒を飲み、ぐだをまく。

「俺が愛したテレビドラマは最後まで下等な娯楽として、下品な、悪趣味な化け物だったさ。そんな事はない。ふざけんなよ。年がら年中そう云ってたじゃないか。外国ものだと誉めやがる癖して、国産品だと見もせずくさしたろう。いいんです。俺たちが作ったテレビドラマはそういわれて当然の代物でした。」

「だがな、ひとつだけ言っとく事があるぞ。あんた。テレビの仕事をしてたくせに本気でテレビを愛さなかったあんた。あんた。テレビを金儲けにしか考えなかったあんた。あんた。よくする事を考えもせず、偉そうに批判ばかりしていたあんた。あんた達にこれだけは言っとくぞ。何年経ってもあんた達はテレビを懐かしんではいけない。あの頃は良かった。今にして思えばあの頃、テレビは面白かったなどと後になってそういう事だけは言うなよ。お前等にそういう資格にない。」

加藤登紀子さんは『六羽のかもめ』の主題歌「かもめ挽歌」をセルフカバーし、倉本聡さんは寂れゆく地方都市で暮らす人々の物語を今も書き続けている。

今、自由競争の名の元に、物作りの丁寧さは忘れられ、マスメディアはこれでもかと言うくらい映像本意の情報を流している。高く、遠く飛ぼうとする身の程知らず達を尻目に、日本各地の高くも遠くも飛べない得意な事しかできない不器用なかもめたちはファドを歌っているのかも知れない。

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ホンマのまつりごと見せたれや


ソウル・フラワー・モノノケ・サミットを知ってますか?もしくは、以下の曲目、何曲ご存じですか?

復興節/美しき天然/ラッパ節/聞け万国の労働者/デモクラシー節/貝殻節〜アランペニ/がんばろう/東京節/竹田の子守唄 (『アジール・チンドン』収録)

インターナショナル/ハイカラソング/水平歌(解放歌)〜農民歌〜革命歌(鳴呼革命は近づけり)/アリラン/ダンチョネ節(特攻隊節)〜ピリカの唄/安里屋ユンタ/弥三郎節/もずが枯木で/カチューシャの唄/むらさき節/蒲田行進曲/有難や節/さよなら港 (『レヴェラーズ・チンドン』収録)

ああわからない/竹田こいこい節/お富さん/くんじゃんジントーヨー/島育ち/釜ヶ崎人情/ストトン節/ドンパン節/トラジ/マジムン・ジャンボリー(命の祝い)/チョンチョンキジムナー/三池炭坑節/竹田の子守唄(元歌)/あまの川 (『デラシネ・チンドン』収録)

阪神大震災で被災された方々を励ますために、近代日本の庶民に愛された歌をライブで歌った事から始まるソウル・フラワー・モノノケ・サミット

阪神大震災時の『アジール・チンドン』はその選曲として大正時代の書生節を中心に関東大震災当時歌われた「復興節」をトップに「ホンマのまつりごと見せたれや」とゲキを飛ばすアルバムであり、二作目『レヴェラーズ・チンドン』は平成不況のまっただ中、初心を忘れちゃいませんかと「インターナショナル」から始まる歌たちは昭和の労働歌、民衆歌。とどめに団塊の世代の想い出の歌「有難や節」で猛毒を吐き散らす。

チンドン屋ミュージック、ジンタをメインに据えたソウル・フラワー・モノノケ・サミットの音楽は、懐メロをパワーあふれさせる結果にさせている。

新譜『デラシネ・チンドン』が発売されたのを期に、この大衆音楽の大まかな流れを紹介してみたい。

ジンタ・ミュージックと沖縄音楽の素敵な出逢い

ジンタは急死したサックス奏者篠田昌巳が、本当のチンドン屋に弟子入りしてチンドン屋のサックスを習った事から、チンドン屋ミュージック、ジンタそのものをレコーディングした1991年の『東京チンドン vol.1』からおそらく注目集めたのだろうと思う。しかし、篠田昌巳はパレスチナのミュージシャンの日本公演実現前に持病の心臓病で急死してしまう。

篠田昌巳の追悼の意なのか、ジンタ・ミュージックはその原曲探しとして大正デモクラシー当時の書生たちが小遣い稼ぎと自らの思想を訴える手段とした書生節のCD復刻がなされ、更には八重山の大工哲弘さんがジンタをバックにこの書生節を沖縄の三線で歌った『OKINAWA JINTA』を発表するのが、1994年。

「津音階」と呼ばれる中国大陸を中心に、日本、東南アジア、オセアニア、パキスタンにまで広がる五音音階は、「君が代」にも残る音階であり、沖縄本島にはなく、おそらくは大陸経由で八重山に残る音色。大工哲弘さんの音楽が日本的であり、大陸的である不思議な郷愁を呼び覚ますものが、ジンタとのジョイントだった。

そして、翌年、阪神大震災の被災地でソウル・フラワー・モノノケ・サミットはこれらルーツ・ソングをひっさげて激励コンサートを開く事になる。

格差時代のジンタ・ミュージック

新譜『デラシネ・チンドン』を聴くと、トップの「ああわからない」で、替え歌として、庶民感情からの訳のわからぬ世の中へのストレートな疑問が発せられ、被差別部落支援で、明らかになった「子守歌」の本当の意味、子守り奉公の悲哀の歌、ドヤ街ソング、炭鉱労働歌と選ばれた歌たちは「格差」の歴史を歌った歌たちでしめられる。ソウル・フラワー・モノノケ・サミットの今の怒りがジンタ・ミュージックとともに叩きつけられ、今また、「ホンマのまつりごと見せたれや」とデラシネ(根無し草)の時代を禁じられた大道芸のように歌う。

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わたしがもう一度わたしになるために

このところ、「自由からの逃走2006夏」と題された北海道新聞の連載コラムが面白く、スクラップしたりしている。

様々な角度から「今」の「自由」を検証するもので、先だっての一橋大学院助教授の佐藤文香さんのフェミニズムからの考察は、現代社会におけるフェミニズムが利用された社会変革の流れを論じるものとして興味深かった。

ざっと概略をお話しすると、それまで奉公や養子などで「家族」というものがあってなかった日本において、「家族」という単位の暮らしが一般化したのは1950年代。ちょうど今の団塊の世代が青年期になる頃からで、男性の片稼ぎで暮らしていける「家庭」が生まれ、サラリーマンの夫と専業主婦の妻という「近代家族」が大衆化し、「幸福な人生」のモデルが、実は高度成長期の家族経験から来るもの。

佐藤文香さんは、その後に来るフェミニズム、女性の自立が「家族」を壊したかのように云われるけれども、そうではなく、フェミニズムを経済のソフト化、サービス化で「利用」し、労働価値の高い女性を「家計補助」というニーズで安価で取り込み、パートタイムとして受け入れ、それまでの長期雇用保障、年功賃金体系を崩す役割を担わせ、グローバリゼーションの時代、1990年代にはごく一握りの「優秀」な女性達の性の壁を越える事を許される一方、男性であれば正社員になれた時代は終わり、多くの男性がアルバイトや派遣労働に流れ込むこととなり、結婚条件としての「経済的自立」を重視される男性は結婚からも疎外されてしまう結果となったとしている。

おそらくそれが1980年代から始まり、格差が明確になってきた今も続く少子化に繋がるのだろう。

このアンバランスな社会形態は今後社会を担う事になる若年層に顕著であり、仕事と家庭の両立支援を謳う「男女共同参画社会」など単なる「勝ち組」女の「わがまま」に見えている事だろうと、奪ったのはフェミニズムではないと佐藤文香さんは力説する。

若年層が「幸福な人生」を奪われ、中高年保守層は「行き過ぎたジェンダー・フリー」や「過激な性教育」を叩く事で「男女共同参画社会」の揺り戻しを狙い、共通の敵としてフェミニズムを名指そうとするバックラッシュがあるようで、フェミニズムの岐路を佐藤文香さんは感じ取っている。

けれども、問題はそれだけなのかという気もする。

「近代家族」の崩壊は云われるとおりの流れで起こってきただろうが、別な新聞記事に「熟年離婚の2007年問題」として、以下の話題を提示している。

厚生年金改正案として、妻の年金は離婚時にサラリーマンの夫と厚生年金の受給権を分割し、妻の自らの基礎年金などに上乗せ出来るとするとした法案が2003(平成15)年6月のが決まった直後から、離婚件数が減少し始めたと云うのである。そして、施行開始の2007年4月まで先延ばししている熟年女性達が増えた可能性を指摘する向きもあり、「勝ち逃げ」しようとする団塊の世代での更なる「勝ち組」競争が起こる気配らしいのである。

「わたしがもう一度わたしになるために」岡林信康のフレーズではないけれども、熟年女性達は、会社に忠誠をつくし、家庭を顧みず、帰ったら、「風呂」「飯」「寝る」の会話しか持たない熟年男性達に三行半下し、定年後の自分の幸福をこの年金改正という秤にかけ、今は我慢しているのかも知れない。

今の社会の歪みが更に顕著になるのかどうか定かではないが、「近代家族」の幻影に固執し、自分探しにのんきに埋没する中高年保守層には、「わたしがもう一度わたしになるために」殺し続けたわたしを取り戻す試みをお勧めしたい。

起こってからでは立ち直れないのが「格差」なのだから。

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徒然なるままに : 過去記事 2006-07-22 掲載 2006-08-26 加筆
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