はちろうれん
八雲町老人クラブ連合会だより

                

「玉音盤奮取の偽師団長命令」

その2

若草老人クラブ  近 藤 国 太 郎

 そして15日午前2時」、師団長命令が出されました。宮城と外部の通信を遮断し、玉音盤を奮取すべく宮内省の捜索を行えというものです。
芳賀聯隊長はこの命令を不信に思い、「師団長がよくこの様な命令を出しましたね」と参謀側に問いかけましたが、古賀参謀は「師団長はしぶしぶ承諾しました」と答えています。いずれにしても、命令に従うしかありません。私は賢所に待機したいましたが、ある隊は夜を徹して宮内省を捜索しました。ある隊は諸門を封鎖し、情報放送関係者を監禁しました。しかし、探せど探せど玉音盤は見つからず、午前5時までに決起計画の要であるはずの阿南惟機が自刃にかかっていること、(介錫を断っていたので数時間かかっての自刃となった)同じく決起の一躍を担うはずの田中静壱東部軍司令官が、営庭の近歩一聯隊を抑えていることが情報として伝わってきました。この時点で私は、天の時は過ぎたのだと覚悟するに至りました。   その頃、東部軍司令官から合同の要請が入りました。実は田中司令官からの要請はこれで二度目でした。さてどうするか、参謀側にはとことん籠城するという意向もあったようですが、私達はそれを振りきり乾門に出向きました。そして田中司令官から、森師団長が殺害され偽命令が出されたことを聞き愕然としたのです。佐藤大隊長と私は抱き合い涙を流しました。近衛師団の指揮権は田中司令官に移り、かくしてこの騒動は収束しました。時はすでに15日の朝を迎えていました。この様に終戦をめぐってのクーデーターは参謀主導で動き出し、近歩二聯隊はその計画に巻き込まれる形になりました。確かに実行部隊として宮内省に入ったり、要人を監禁したことは事実です。しかしその一事をもって、終戦時の近歩二聯隊を二・二六や五・一五事件の系譜に連なる「反乱軍」と位置づけすることは、必ずしも適切でないように思います。あくまでも国体護持という参謀達の思いは、極めて純粋ものだったと思いますが、芳賀聯隊長、佐藤大隊長、そして私の3人が、あの時籠城することを選択いていたら、終戦は長引きソ連の北海道侵攻を許していたかもしれない。そう思うと、今も万感の思いが胸にこみ上げてくるのです。

平成18年7月