<< 尺八の歴史(流派別)と時代背景 >>                    ホームへ戻る

  内容については、さらに色々な書物をひもとき、修正加除してまいりますので、お気づきの方、ご指摘ください。

 <超The International Shakuhachi Society
            
-
Index of people whose speciality is: Shakuhachi -
                  ↑世界各地の尺八奏者のプロフィールが見られます。 紅山も紹介されています。

  時代背景 

参考事例
尺八の歴史と系譜並びに時代背景
【参考文献】⇒平凡社:世界大百科事典 
     『明暗寺便り』(H.16.10.10発行)
     『明暗尺八通解』(明暗虚山坊同友会・編集発行、
                昭和54年2月1日発行 富森虚山著)
     『現代三曲展望』(田中義一著)
     『一粒の籾−都山流尺八流祖中尾都山伝−』
      全音楽譜出版社刊、昭和32年5月15日発行(田中義一著)
     『箏・三絃・尺八の常識講座』(宮田耕八朗著)
     『尺八』(中島聖山著)     
岐阜大学邦楽部HP
    
工房秀竹『尺八の歴史と文化』(投稿者MILK)
    
エンカルタ 百科事典 ダイジェスト
         Shin-ichiro Makihara師のFacebookから
関連事項

尺八・楽曲に関すること

流派(分派)の系譜等
歴代の天皇一覧
崇神天皇(10代)
垂仁天皇
景行天皇
大和武尊
仲哀天皇
古墳時代(3〜7世紀)
応神天皇
仁徳天皇(16代)
継体天皇
大和時代(4〜6世紀)

6世紀末〜7世紀初期
29代欽明天皇( ? -571)
31代用明天皇( ? -587)
33代推古天皇(554-628
聖徳太子(573-622)

飛鳥時代 (592〜)
552 仏教伝来

古代ヤマト文化
は、当時の先進国であった中国(隋<581−618>)との交流により、
文化や渡来新宗教である仏教の影響を大きく受けていて、古代尺八もその頃、中国から
入って来た可能性もある
とも思われます。

590頃(?)  聖徳太子難波(大阪)へ向かう途中、椎坂で尺八吹奏(
蘇莫者
597      聖徳太子/四天王寺(大阪・天王寺)創建
604年以後、聖徳太子も尺八を吹奏したとの記述がある。
         尺八独奏日本最古の記録:「法隆寺古今目録抄」他下記参照
607       法隆寺創建
 「聖徳太子河内ノ亀瀬ヲ通給イケルニ、馬上ニテ尺八ヲアソハシケルニ、メテテ山神舞タル・・・・」
         (「教訓抄」第4巻)
 「昔、聖徳太子生駒山ニシテ尺八モテ蘇莫者ヲアソハストイヘリ、即法隆寺ノ宝物ノ中ニ尺八一管
         コレアリ・・・」(「體源抄」第5巻)  
         『蘇莫者』=美しき詩・聖歌<宮内省雅楽部・多忠告氏編曲楽譜現存>

その頃の尺八は6孔で第3孔を主音とする 7音階の楽器で、主に宮廷音楽の雅楽で用いられて
いたようである。
◎尺八の変遷〜尺八は7世紀始め、中国唐時代<618−690:705−907>に起こり、
中頃(650年前後)、朝鮮を経て日本に伝来。(中国では13世紀末頃、元時代後に滅亡。
中国の尺八は古楽器の洞簫と似ている。)
645 大化の改新

7世紀中期〜後期



飛鳥時代 (〜694)


人物一覧
◎普化宗の始祖普化和尚(7世紀唐時代の中頃):尺八を吹いていた訳でなく、托鉢するのに
鈴を振って歩いたと言われている。
「鈴慕」

◎中国唐時代初期、呂才が尺八12管を作る
 <その後、張伯が普化の鐸音を洞簫(どうしょう:支那尺八) に移し、法灯国師(1207-1298覚心)
 が張伯没後、16世の子孫 (張参)
洞簫(尺八)の秘曲「虚鈴」を伝習され帰朝。
 鎌倉時代中期1254年(建長6年)>
 ・現存している古代尺八〜唐の尺八が唐楽とともに伝来・・雅楽尺八(7世紀頃)
  
〜8本が東大寺の
正倉院宝物として収められている・・・・竹、象牙、白玉(彫石尺八、
  刻彫尺八、樺巻尺八、呉竹尺八、白竹尺八、牙尺八)

  ⇒39〜44cm、太さ2〜3cm、3節、6孔

 (百済の義慈王によって朝貢されたものとされているが、当時の朝鮮の音楽に尺八が存在して
  いたか疑問もある。)
   
8世紀

奈良時代(710〜759)

奈良時代年表
701 大宝律令で雅楽寮制定
 宮廷音楽の雅楽(その中でも中国系の唐楽を主体に)の合奏楽器として尺八は使われていた。
717?百済王義慈から尺八5管献上
749 東大寺大仏開眼に声明唱える  光明皇后より正倉院に御物、中に尺八含む
宮廷音楽の散楽(滑稽な物真似や曲芸、手品に使われる宮廷饗宴楽)の伴奏楽器として尺八は
使われていた。

8世紀〜12世紀

平安時代(760〜1191


平安時代年表
 奈良時代に伴奏楽器として使われた散楽の尺八が、猿楽(滑稽な物真似や宗教的芸能)・
田楽
(曲芸や奇術)・浮浪芸(門付芸)などの民間芸能に使われるようになってきた。
その頃の尺八は6孔では無く、5孔のものであったと言われているが、中国の音階である7音階の
楽器を、日本の音階である5音階に適するように改良されたと思われる。 
また6孔尺八は3節で出来ているのに対し、5孔尺八は1節で出来ていました。
                                ・一節切(ひとよぎり)
 また6孔尺八は「呉竹」で出来ているのに対して、5孔尺八は日本では資源の豊富な「真竹」を
使用していました。

840 楽制改革により、平安時代に入ると雅楽の合奏楽器から尺八は消える。
12世紀〜14世紀

鎌倉時代
(1192〜1334)
鎌倉時代年表
仏教界の革新期
法然(1133―1212年)
栄西(1141−1215年)
親鸞(1173-1202年)


禅宗曹洞宗開祖
道元禅師(高祖承陽大師)
1200-1253

叡尊(1201−1290年)
蘭渓道隆(1213-1278年)
日蓮(1222-1282年)
無学祖元(1226-1286年)
一遍(1239-1289年)

南北朝時代
(1334−1392)
5孔尺八の短管である「1節切」(長さ1尺1寸1分の黄鐘律)が器楽として演奏技術が進化する
なかで、5孔尺八の長管(5孔3節、長さ1尺8寸)もまた禅宗と共に普化尺八の流れを築き始める、

この普化尺八の流れは、和歌山県興国寺の禅僧・法灯国師(覚心1207ー1298南宋に
留学
(1249)し、杭州の護国仁王禅寺などで5年の研鑽した際、中国の張参より尺八曲を学び、
その時、尺八を吹く弟子を伴って帰り、その人(たち?)が日本における虚無僧の初めなのだそうです。
 ○鎌倉時代中期(13世紀中頃)1254年(建長6年)
  覚心は四居士<国作・理正・法普・宗怨等の四洞簫名人>同伴帰朝
  (普化尺八の祖と言われる) <1255年の説もあり>
後に和歌山県(紀州由良)の興国寺の住職(開祖)となり、ここが普化尺八の大本山となる。

【2012 国際尺八音楽祭 in 京都でのHP『名流尺八コンサート』での解説文参照】
        「明暗寺所伝古典本曲要説」より
普化正宗虚霊山 明暗寺 普化明暗尺八
     Fuke-Shoshu Kyoreizan Myoanji "Fuke Myoan Shakuhachi"
尺八の根本 明暗尺八の世界
     The Roots of Shakuhachi The World of Myoan Shakuhachi
北条時宗禅宗の僧が尺八を好み、音楽的表現力に富む普化尺八(近代尺八〜普化宗法器、
法灯国師が伝えたもの)が庶民に普及しはじめたのは、鎌倉時代中期で、尺八は5孔3節の形を
とっていた。
14〜16世紀

室町時代
(1338〜1573)

室町時代年表
今川義元(1519-1560)
武田信玄(1521-1573)
上杉謙信(1530-1578)
覚心が門弟(法弟)の寄竹(後の虚竹禅師に伝授し、寄竹は宇治の吸江菴に陣取り、普化宗本山
を京都
(白川)明暗寺にした。
帰化普化僧宝伏居士とその門弟の金先禅師は、下総(千葉県)の小金に「一月寺」を、青梅
鈴法寺」を建て、かくして「明暗寺」が関西の普化尺八の本山となり、「一月寺」と「鈴法寺」が関東
の普化尺八の本山となった。
その後、門弟も増え各地に普化尺八が普及する事になる。

1394 
一休宗純(お馴染み、とんち話の一休さん。一節切尺八を愛好)誕生
1527 高三隆達(一節切尺八で伴奏)誕生(−1611)
16世紀
安土桃山時代
(1573−1600)

織田信長(1534-1582)
在職1573-1582
明智光秀(1528-1582)
豊臣秀吉(1537-1598)
在職1583-1598
石田三成(1560-1600)
豊臣秀頼(1593-1615)
 5孔1節の短管尺八に「1節切」の名が付いたのは16世紀の半ば頃で、その後「1節切」の名は
5孔1節の尺八の代名詞として使われるようになる。

 中世の尺八音楽は「手」あるいは「手事」と呼ばれる器楽曲中で、歌や他の楽器との合奏は
本来ある姿から外れるという思想があった。
慶長8年(1603)
上杉景勝(1555-1623)
直江兼続(1560-1619)
     徳川家康、江戸幕府を開く家康(1542-1616)在職1603-1605】
                          
徳川将軍一覧
                   【2代秀忠(1579-1632)在職1605-1623】
1614年(慶長19)
1614 八橋検校誕生
(-1685)←バッハ誕生

(江戸時代)
江戸時代年表

3代徳川家光(1623-1651)

4代徳川家綱(1651-1680)
 江戸時代へ入ると、浪人も普化宗の門弟に入る者も多くなり、幕府は普化宗を宗教として公認する
ためのを出す。
浪人の統制と保護を目的に、尺八を虚無僧専用の 法器とし、一般庶民の使用を禁止した。
普化尺八は5孔3節、1尺8寸の長管である。

1640  この頃の菰僧、散髪で編み笠、白衣の単衣
1688(元禄) この頃から菰僧、袈裟を着た。
虚無僧(菰<薦>僧、普化僧、暮露、梵論字<ぼろんじ>)天蓋、黒衣、袈裟、
      草鞋(江戸時代、高下駄)、偈箱、手甲、脚絆
虚無僧掟書> 遊士浪人の一時の隠家、武士の他はこの門に入るのを禁じた。
            本寺の宗法により、浪人の統制をする目的であった。

・近世になり、普化宗は、火下、寄竹、梅士、不智と分派し、1871年(明治4年)に普化宗は
廃止された。 
17世紀後半
この頃長唄隆盛
1695 生田流興る

(江戸時代)

5代徳川綱吉(1680-1709)

それまで器楽曲中心で伝統を受け継いできた5孔1節の短管尺八である「
一節切」は「乱曲」と言われた
歌ものの伴奏にも 用いられるようになるが、音楽的表現力に富む普化尺八が庶民に普及し始めた18
世紀に入ると、この「一節切」は急速にすたれて いった。

一節切(ひとよぎり)は、室町時代の僧・一休宗純が愛好した笛とも言われています。
その後、小唄の元祖的な隆達小唄の伴奏に使われたり、大森宗勲(1570ー1625)が尺八楽器として
完成させますが、江戸中期頃には普化尺八と入れ替わるように、歴史の表舞台から姿を消してしまい
ました(19世紀後半)。

※江戸時代を通じて
天吹が薩摩武士の間で愛好される。(布袋竹<コサン竹>5孔3節、約30cm)
18世紀



(江戸時代)





6代徳川家宣(1709-1712)
その後浅草に、一月寺、鈴法寺の寺務所を設けることとなる。また上方尺八指南所江戸尺八指南所
が出来て、宗法を無視して一般町民に稽古をつけ本則と言う免状 を出した(疑似家元制)。

江戸時代に1尺八寸(54.5cm)7節になった。
明暗流(31曲)⇒本則(本曲にあたる3曲)=開祖虚竹了円作曲
             「三虚霊」(1.虚鈴 2.霧海じ 3.虚空じ)     (じ)=笛
                       <(じ)の漢字は、竹かんむりに厂、さらに虎と書く>
虚空じ=「有心無用、無心無用、無用無用」
   =有心ということにとらわれない。無心という事にもとらわれない。そうしたこだわらぬという考え方
     にもとらわれない。
     すべては自々然々と発露する。その働きは、有無を越えて空妙なるために虚空と呼び、それを
     「じ」(笛)に托し出す。
 ⇒助則(外曲にあたる)→本手(19曲)=竜吟虚空、秋田曲、三谷曲、滝落曲、鉢返曲、一二三調、
   ほか(宗教性)

 ⇒派手9曲)=阿字曲、鹿の遠音、鶴の巣籠、ほか(芸術性、標題楽的)
○明暗流の名称:明暗の法系35世樋口孝道(外曲派二世西園直門、一閑流滝川中和に師事、
           琴古流2代荒木古童<竹翁>にも師事、後に対山1856〜1914が琴古から
           都山へと分かれた後(1896年以降)、明暗流と名づけたといわれている。
           それまでは明暗尺八と云われていた。 
  
 ◎明暗流の明暗の出所
   普化禅師の四句の偈の始めの二句 ⇒<頭来也明頭打、頭来也暗頭打、
                             四方八面来旋風打、虚空来也連架打>
         :正面から打ち掛かって来たら正面から打ち返せ、卑怯にも裏手からやって来られたら
          こちらも裏手からやれ、思慮分別なくやって来たら、こっちも目茶苦茶にやって仕舞え。
7代徳川家継(1712-1716) ≪明暗流系図≫
 明暗尺八開祖 虚竹了円禅師→???→中興14世 淵月了源(寛永4年1627−1695)
           →???

  1890(明治23年) 虚無僧団体、京都の東福寺塔頭善慧院に明暗教会設立 再興
       初代会長:爾瓊林   二代:爾以三  三代:安田天山  四代:平住恵雲  五代:平住恵光
    →明暗流35世法系看首 樋口対山<対山流>(本名鈴木孝道 大正3年1914年没)
     中興の祖
http://www.fuwaiin.com/…/hougaku/H19/19.9.16…/meianji-18.jpg
       ブログの中に「京都建仁寺が虚無僧の発祥の地」という記載があった。
       何かの間違い。いろいろ調べたら「樋口対山」の菩提寺ということが
       わかった。「樋口対山」は明治になって明暗尺八を復活させた中興の祖...
       ともいわれる人。樋口対山の菩提寺であることから「虚無僧の発祥の地」
       などという飛躍的な発想が生まれたのだろうか。
       樋口対山は名古屋の人。初め“鈴木孝道”といい、名古屋で西園流尺八を
       修め、後京都に出て、樋口家の養子となり、樋口対山を名乗る。
       http://www.fuwaiin.com/…/hougaku/H19/19.9.16…/meianji-17.jpg
       これは珍しい貴重な写真。京都明暗寺最後の看手「自笑昨非」の写真とか。
       「明暗昨非」は長州の出身。幕末、禁門の変で長州の士を匿ったかどで幕府に
       捕らえられる。明治になって開放されたものの、明治4年「普化宗」が廃止され、
       寺の本尊「虚竹の像」他什物を東福寺内の塔中「善慧院」に預けて出奔する。
       その後、日蓮宗系の本門法華宗に改宗し熱心な信徒となったとか。
       昨非が出奔した理由は、明治になって胡乱な虚無僧輩が明暗寺に逗留、酒食
       や金品をねだり、寺にあった尺八や什物を勝手に持ち出して売り払うなど、乱暴
       狼藉に閉口したためとか。明治以降は尺八界とは絶縁していたはずだが、この
       写真はいつ頃撮られたものだろうか。
       明治21年、東福寺の本堂が全焼し、尺八愛好家たちの発案で、「東福寺の
       復興に浄財を集める」という趣意で「明暗教会」が設立された。そして樋口対山
       が代表となり、「明暗流」を復活することとなる。
       つまり、現在の明暗流は、樋口対山が再興したもので、その菩提寺が建仁寺。
       対山の墓もあるのかも。 京都に虚無僧に行った時、建仁寺にお参りし、周辺を
       周った。樋口対山の菩提寺とは知らず。これも呼ばれたのかもしれない。
                (Shin-ichiro Makihara師のFacebookより)
    →36世 内田(小林)紫山(京都明暗流・明暗本流 昭和13年1938年没) 
 1949(昭和24年)→37世 琅庵(谷北)無竹(明暗対山流 1878−1957)
 1950(昭和25年) 尺八各流・家元・宗家協力のもとに宗教法人普化正宗明暗寺として復興独立
              住職:安田天山 ⇒昭和28年 平住台山 ⇒現在 平住恵光
 1951(昭和26年)2月23日 虚竹禅師奉賛会設立 初代会長 中尾都山
             (復興後、初代は37世 谷北無竹師/現京都明暗寺)
    →38世 小泉(了庵)止山  →39世 福本虚庵 →40世 芳村普庵 
    →現在は41世 児島抱庵師に継承

8代徳川吉宗(1716-1745)

亨保(1716)2年 
大岡忠相(越前守)を
江戸町奉行に登用
明暗流尺八指孔位置:尺八全体を9半割法で孔を開けていく。

琴古流・都山流:全体を10割法(管長を10等分)にし、管尻から2割位置に1孔を、2〜4孔は、
          それぞれ1割ずつ上に開け、5孔(裏孔)は、0.6割の位置に開ける。
18世紀中期

(江戸時代)
尺八の名手といわれた、元福岡藩の浪士、黒沢幸八が、「琴古流」を創流。

吹合所の出現、一般人も尺八を吹き、箏や三味線との合奏も行われる。
  この頃、黒沢琴古江戸一月寺、鈴法寺の吹合所指南
9代徳川家重(1745-1760)

1756?山田検校誕生

18世紀後期
(江戸時代)

10代徳川家治
(1760-1786)

≪琴古流系図≫  
The International Shakuhachi Society -Lineage Charts-に詳細(英文)
 初代黒沢琴古(幸八と云い、黒田美濃守家臣、1710〜1771<明和8年>4月23日没)が多くの新曲を
作曲して創始。
 享保13年(1728)、長崎の玖崎(くき)寺という普化寺において一計士という虚無僧より古伝3虚霊
(虚鈴、虚空、霧海じ)と名曲「呼び返し鹿の遠音」、それに三谷菅垣、波間鈴慕、佐山菅垣の7曲を
伝授され、270年後の今日においても、琴古流本曲36曲中の根幹曲として伝承されている。
 江戸時代、宝暦・明和(1751-72)の時、関東普化宗本山(小金井)下総一月寺、(青梅)武蔵鈴法寺
の吹合所にて尺八指南。(←鈴法寺は活徳禅師が開祖)

明和(1764)元年 虚無僧伊達姿この頃から。
    1769     「尺八通俗集」(岡秀益)
19世紀初期


(江戸時代)






11代徳川家斉(1787-1837)



1836 光崎検校活躍
 
初代琴古⇒二代琴古(1747生−1811年 文化8年6月12日没)
       →池田一枝(仙助、始め宮地一閑に師事。二代琴古に就き大成す)→初代如童(山口弁蔵)
          |→三代琴古(1772<琴甫/孝八>誕生−1816年 文化13年6月22日没)  ↓
               |→久松風陽(1784生 三代琴古門人、四代琴古の後見人、       ↓
                    ↓          四代出奔後近代琴古への橋渡しをした)   ↓
                    →梅旭(二世古童、荒木半三郎)                   ↓
                    →風憧(初世古童、豊田勝五郎) ←   ←   ←   ←  ←
                    →吉田一調(1812生まれ:清風軒とも称する。幕臣ながら幼時から
                      尺八を好み,正田梅月,久松風陽に学ぶ。26歳で普化宗に入り,
                      一月寺貫主一膓に師事、のち一月寺,鈴法寺の尺八指南番となる。
                      山田流と結び、外曲ものを重視、手付多数生む。
                      近代尺八復活の功労者。1881没)
布袋軒派(仙台 虚無僧寺)
 13代看守:長谷川東学→宮川如山←勝浦正山(真法流1942没87才)
             ↓      ↓      ↓
             ↓      ↓→→→高橋空山→藤由越山
             ↓     谷狂竹    ↑
             ↓       36世 小林紫山(対山流:京都)
    小梨錦水(1867〜1931)明治-昭和時代前期の尺八奏者。
      宮城県の虚無僧寺布袋軒の長谷川東学や黒沢照雲らに師事。
     浦本浙潮(せっちょう)、神如道(じん‐にょどう)らに遺曲をつたえた。
明暗露月派(熊本)
     津野田露月
       ↑
  5世 樋口対山
 (元西園流、明暗協
  会で34世を名乗る。
   没後35世に変更。
 1914  59才にて没)
越後明暗寺派 住職:堀田侍川(1618 越後明暗寺開祖的翁文仲、
              堀田姓になる)
   →斎川梅翁
   →神保政之助<生年:天保12.6.1(1841.8.5)
                    -没年:大正3.1.24(1914) >
      政之輔とも書く。幕末明治期の普化尺八の奏者。尺八曲神保
      三谷の作者。明治10(1877)年ごろより福島の小菊派の虚無僧寺
      ,小菊山蓮芳軒に約4年間とどまる。
      同22年,北海道を虚無僧行脚の途次,小樽の宿舎で師の堀田侍川
      (越後明暗寺最後の住職)と共同で作曲したといわれる「神保三谷
      は,世に名高い名曲である。また,今日ある古典本曲中唯一の,個人
      の名を冠した曲として,弟子の引地古山と浦山義山が伝えた。
   →浦山義山→津野田露月(明暗露月派)
西園流系図(名古屋)

玉堂梅山(浜松普大寺)
      直門
初代兼友西園
  (砥屋三右エ門
    1818生−1896
    明治28年3月 
         78歳没)

二世西園(外曲派)
三世加藤西園
四世小林西園

現在、小原西園
12代徳川家慶(1837-1853) 根笹派錦風流  「コミ吹き」「チギリ手」が特徴

根笹派大音笹流錦風流=津軽9代寧親の命により吉崎八弥好道
        一月寺に入門し文政元年(1818)に伝えた普化尺八
        1つの流派である。

元治(1864) 乳井月影(弘前)師、この頃、錦風流と称す→神如道
           (−1895没)
 昭和〜平成 保持者:松岡幸一郎、松岡俊ニ郎 、須藤任子

 津軽十調子(調、下り葉、松風の調・松風、通里、門付け、鉢返し、
         三谷清攬、獅子、流鈴暮、虚空)

 外曲:「流六段(一閑流六段)、宮城鈴暮、鶴の巣籠」 
  
天保(1830)
水戸藩主徳川斉昭の
藩政改革
博多一朝軒派
 中村掬風、桜井無笛
 門田笛空(琴古
     →明暗流習得)
 海童道祖(田中普門)
弘化(1844) 
仏船琉球来航
オランダ国王開国勧告
 明暗流嘉竹
津田→上村雪翁
    ↓
近藤宗悦→藤田松調
      (松調流
  ↓
源雲海→酒井竹保
   (1892生−)が
    1917 大正6年
    竹保流
創始
1850年

13代徳川家定
(1853-1858)

明暗真法流
:尾崎真龍→勝浦正山
            →源雲海→酒井竹保<旧字譜:フホウヱ符式譜>
嘉永(1848) 
佐久間象山、大砲鋳造。
  6年 ペリー浦賀来航。
近藤宗悦(1821〜1867普化尺八虚無僧⇒琴古流)


   ・長崎の出身で、40歳のころ京都に出て明暗寺に入り,役僧
    尾崎真龍に弟子入り
真法流を学んだ。京明暗寺の名手と
    言われる。


   ・幕末当時,普化宗で禁じられていた尺八と他の樂器との合奏は、
    地唄、筝曲の本場である京阪では、すでにかなり行われていた。
    明治4年の普化宗廃宗をきっかけに弦との結びつきは一層強まる
    のだが、この関西外曲の素地を作った。


   ・彼の本領は外曲にあり,筝曲家古川竜斎(山口 巌の師匠)を養子
    に迎え,地唄、筝曲の手付け(主に地歌)を多数行つた。


   ・ラツパ吹き(尺八をほぼ水平に構えて吹く。)をすることから、
    チャルメラ宗悦という異名をつけられた。


   ・当時大阪で最大の勢力を持つた尺八家、明暗流嘉竹の門人が
    次々と転門、嘉竹自身も宗悦門に転向したという。
長福山 玖崎(くき)寺
 (のちの松寿軒)の研究

http://www1.cncm.ne.jp
/~seifu/kukiji.htm


<Googleのキャッシュで
  見られます>

長崎と尺八の関わりが
おもしろい。

琴古流にも都山流にとって
も長崎は重要な場所と強調
幕  末  期
安政(1854)
ペリー再来
日米和親条約(神奈川条約)
14代徳川家茂(1858-1866)
万延(1860)
勝海舟ら咸臨丸で渡米
桜田門外の変
(井伊直弼暗殺)
文久(1861)
遣欧使節出発
種痘所を西洋医学所と改称
元治(1864)
仏公使ロッシュ着任
新撰組、尊攘志士を襲う
    (池田屋事件)
慶応(1865)
坂本竜馬の周旋で
薩長連合なる
 徳川慶喜、
第15代将軍となる
   (1866-1867)
明治1868) 
福沢諭吉、英学塾を
慶応義塾と改称
戊辰戦争始まる
慶喜追討令
 宗悦直門 明暗流虚無僧 小森隆吉
  江戸を東京と改称。
  明治改元
(一世一元の制)

会津藩降伏
1871年
(明治4年)
普化宗が廃止され、尺八は法器から楽器として庶民に普及する事になる。
明治前期
明治の始め
(1869〜83)
1880 林広守
「君が代」作曲
民謡尺八、江差追分等の伴奏に用いられる
明治時代年表

明治の中頃
(1884〜98)














1894 宮城道雄誕生
     (1956没)


1894 日清戦争宣戦布告







18 98 選挙法改正法案
    衆議院で修正可決
 
 
流祖 中尾都山(明治9年<1876>10月5日)大阪枚方市生まれ。
  父中尾治郎平、母み津の次男として誕生
 5歳で父と死別。京都箏曲の大師匠寺内大検校の息女であった母は
 箏・胡弓に秀で、息子琳三に尺八を吹奏させ、絃とつかず離れずの
 奏法を指導し、これが大きな基礎となってさらに尺八吹奏技法の研鑽
 が深められていった。

 13歳(明治22年<1889>)で宗悦流虚無僧の小森隆吉に手ほど
 きを受けた。
 <http://jp.encarta.msn.com/encnet/refpages/searchdetail.aspx?q
  =%e5%88%9d%e9%80%9f%e5%ba%a6&pg=4&grp=art>
       (エンカルタ 百科事典 ダイジェスト:中尾都山 : 初世* )

 「時たま門前に立った虚無僧宗悦流の流れを汲む小森隆吉の竹韻を
 聞くに及んで、都山は尺八の吹奏にも変った手法のある事を初めて知
 った。(中略)且て知った虚無僧の小森隆吉をたより京都東福寺に至って
 特別の免許状の下附を願い出たのである。」(「一粒の籾」5ページ) 
 「約二ヶ月、虚無僧作法の教授を受けて、特別の免許を受けることがで
 きた。」(同 6ページ)    <情報提供: (東京都)近藤英龍氏>
                                       
 「都山は幼少の頃宗悦流を稽古したが、別にきまった師匠につかず
 その豊かな天分と努力によって都山流独自の流風をたてた。都山の
 語るところによれば、少年時代 明暗真法流の尾崎真龍について
 大和、近江方面へ虚無僧托鉢したことも時々あったというから、都山
 の奏法には、宗悦の流風以外に、これらの影響もあったことと想像
 できる。
  都山は初め宗悦系のフホウヱ符式であったが、教授の際に、譜を唱
 える便宜上、現行のロツレチハ符式の表記に変えた(都山直談)。
     (『明暗尺八通解』 41頁)
                  <情報提供: (東京都)近藤英龍氏>
                    <貴重な情報も⇒
近藤氏ブログ
                            <
明暗流と都山流

 18歳(明治27年<1894>)春、尺八修行に近畿遍歴を始める。
 <25歳以上のものでなければ虚無僧として認可されなかったが、
 年少にもかかわらずその吹奏技法を認められ、洛陽東福寺から
 許可が得られ、諸国遍歴の行脚を始めた。>
 
       
<以下の略歴は、上記「流祖 中尾都山」をクリック>

 みそたねくん「尺八備忘帳」より:母は、寺内大検校の娘。明治29年
 大阪・高麗橋で創立(二十一歳)。
「雨の念仏」(宮城道雄)によれば、
 都山流尺八の流祖中尾都山師は非常に頭がよくて、物覚えの極めていい
 人である。都山流を起こす前に、箏の師匠の家に行って、箏を弾かせて、
 尺八譜に書き改めて、雨の降る日などは傘の裏にそれを貼って、家に帰る
 までに途中で暗記していたという。それ程苦心した人であった。


 明治29年
(18962月15日 流祖19歳(数え年20歳)
 で都山流尺八指南創始

  
 大阪天満此花町 ( 昭和31年
<1956>10月10日没 81歳 )

流祖中尾都山
   ↓
上田佳山(1892生、
 退門後、芳憧と号す)

   1917年
 
大正6年上田流創始
   ↓→堀井小次朗
   ↓→服部洋山
   ↓(退門洋山流宗家)
   ↓
   ↓→村治虚憧
   ↓(退門村治流家元)
   ↓
  福田芳光→柴田光童
     (聖山、菊水湖風
      九孔尺八宗家)



村治流の歴史

村治虚憧は大阪の人。
元西区に於て櫛商を営んで
いたが、尺八を好み、のち
千代美会を主宰し、大正年
代に大阪西方面の雄として
“唄う尺八”をとなえ宣伝して
名あり。

都山流より分離した上田流
尺八の上田芳憧に師事。
のち退門、村治流と称し、
第一世村治流家元となる。





流祖中尾都山
 ↓→平塚晃山
      (退門晃山流
 ↓
 ↓→牧野直山→安永省山
         (省山流
明治後期
(1899〜1913)

1904 日露戦争始まる


1909 宮城道雄処女作
    「水の変態」作曲



大正時代年表

1914
 第1次世界大戦参戦
  (日本の中国侵略)


1917 宮城道雄朝鮮より
     東京に移り活動

13920 本居長世,
宮城道雄による
「新日本音楽」

1956 宮城道雄没、
  初代中尾都山没

 新都山流尺八 系譜 ≫

都山流尺八楽 流祖中尾都山(昭和31年<1956>10.10没 81歳)

第2代宗家中尾都山(稀一1944.1.9生:流祖69・レン39歳)
12歳で昭和31年<1956>11月14日襲名

昭和40年(1965)3月17日 「財団法人都山流尺八楽会」認可
昭和44年(1969)3月7日、長女美都子誕生。
二代宗家急逝(昭和49年<1974>10月12日)

昭和50年<1975>4月12日 「都山流尺八協会」設立
6歳で宗家襲名:中尾美都子(2代長女)  会長島原帆山

昭和54年<1979>9月21日協会名称変更 「都山流日本尺八連盟


昭和55年<1980>5月15日名称変更 「新都山流日本尺八連盟


昭和56年<1981>3月30日  「新都山流 宗家」体制確立宣言

12歳で初代宗家となる。 中尾都山(美都子)
公益財団法人
都山流尺八楽会系譜


流祖中尾都山

2代中尾都山(稀一)


3代中尾都山
(2代の母 レン)


4代中尾都山
(1948〜 本名正幸。
流祖長男治正の長男。
流祖の孫。3代の養子。
1990年(平成2)、4代となる。)

5代宗家位 継承
中尾都康


多孔尺八、オークラ(ウ)ロ
   ↑詳細はこちら!
実業家・大倉喜七郎による
尺八改良意見を採り入れた
結果生まれたもので、尺八
の歌口を生かし、
キーの部分はベーム式
フルートのそれを応用した、
いわば和洋折衷の楽器です。
1935年に<オークラウロ>
として世に発表され、1937年
途中から<オークラロ>とい
う呼び方に変わりました。
<小関康幸氏のHP、
コーヒーブレイクの第97回
:オークラロをこの眼で見た
日(2001年2月6日)より>


***********

2003年、カリフォルニア
のMonty Levenson
シャクルート
製作
(shakuhachi headjoint
    for the flute)
縦に吹くフルート
現代のオークラウロ
詳細は尺ルートの命名者
谷藤紅山のサイトで!!

        ≪琴古流 荒木古童、川瀬順輔の系譜

  二代黒沢琴古直門⇒池田一枝→初代如童(山口弁蔵)直門
                 ↓

      時代不明、初世荒木古童(豊田勝五郎、風憧と号す)
                 ↓

虚童(上原六四郎)←荒木古童(半三郎、竹翁と号す、
                 ↓         1908 明治41年没)

            三世荒木古童(真之助、昭和11年没)
                  →木村士童、広門伶風納冨寿童

            四世荒木古童(梅旭、昭和19年没早逝)

            五世荒木古童(達也)
             <四世早逝の為、三世古童高弟
    ↓         木村士童(後に友齋)に師事>
                 

 初世川瀬順輔(二代古童の直門、竹友、87歳没)
    ↓
    ↓→初世直門井上重美?→兼安洞童
    ↓

 二世川瀬順輔(高橋虚童)
        <勅使河原師実子・後に養子>←勅使河原笛友
    ↓
 三世川瀬順輔
公益社団法人
日本尺八連盟 系譜

初代会長 島原帆山

二代会長  鳩山邦夫

現会長 坂田誠山

事務局長兼常任理事
初代 木本勝山

海童道
(わだずみどう):
 道祖 元普化宗管長 田中普門(1911‐1992 昭和-平成時代の尺八奏者。明治44年11月20日生まれ)
    独立して宗祖となる。明暗(みょうあん)寺系統の博多一朝軒の出で、卓越した技量で注目をあびる。
    独自の実践哲理をとなえ、現代作曲家たちにおおきな影響をあたえた。
    平成4年12月14日死去。81歳。
    福岡県出身。本名は田中賢道。前号は一朝普門、海童普門、海童道宗祖。
    直門 横山勝也

    浦本浙潮(1891‐1965 明治24年5月21日生まれ。大正12年東京慈恵医大教授。
    のち山形県衛生研究所長。刺激生理学、条件反射を研究。
        ↑   日本体力医学会の創立につくす。日本民謡協会初代理事長)と
        ↑   九州系と奥州系の本曲を交換した。
        ↑―小梨錦水
        ↑―小林紫山 

<琴古流の楽譜>
     点符式記譜法

二代荒木古童
(琴古の手法を継承
現琴古流の始祖的存在)
    ↓
虚童(上原六四郎)考案


初世川瀬順輔が普及
国際尺八研修館(昭和63年設立)
 館長 横山勝也(2010.4.21逝去) 横山篁村、横山蘭畝に学ぶ  後に福田蘭童、海童道祖に師事
 常任講師:古屋輝夫、眞玉和司、関 一郎、柿堺 香、石川利光、岡田道明
竹友社:琴古流の会派。初代川瀬順輔が創立。  昭和53年(1978) 、三世川瀬順輔襲名。
如道会

  二代荒木古童
       →三浦琴童
  (本曲の楽譜化)
          ↓
初代川瀬順輔 →
神如道
   (1891〜1966)
神如道は、弘前市生まれ、
根笹派錦風流の乳井月影
の孫弟子にあたる。
 琴古流を学ぶと共に、尺
八本曲研究のため、数十年
に渡って全国行脚し、各地
に伝わる本曲の収集に努め
普化尺八を中心とする尺八
古典本曲を集大成した。
仙台の名人・小梨錦水
(こなしきんすい)(1867〜
1931)から「鈴慕」と「三谷」
を教わっている。

現在の会主は、神如正

善養寺恵介は神如道の孫
弟子にあたる。 神如道のも
とで尺八を学んでいた父よ
り虚無僧尺八の手ほどきを
受け、後に岡崎自修、神如
正師に師事。
 
竹盟社:琴古流の会派。

大正10年に山口四郎
中心として開設。

四郎の五男の山口五郎は
平成11年逝去。
門人が継承。    
  ≪琴古流 山口五郎、青木鈴慕、
                吉田清風
の系譜


  初世川瀬順輔直門→山口四郎(竹盟社宗家 昭和38年78歳逝去)
                 ↓
               山口五郎(平成4年人間国宝、平成11年逝去)
                  → 善養寺恵介 ←神如正
                岡崎自修↑↑父に師事←↑神如童


  初世川瀬順輔直門→初代青木鈴慕(明治23年生
  二世荒木古童→三浦琴童師事↑      ―昭和30年7月没)
               二代青木鈴慕(昭和10年生
                            ―平成30年8月没
                        平成11年人間国宝。静夫)
               三代青木鈴慕 (本名彰時)


  初世川瀬順輔直門→虚無洞(鳥井)→吉田晴風(宮城道雄らと
                        近代音楽で活躍 1950没)
                        →山川直春
                        →広門伶風
                        →佐藤晴美→堀江春風

直簫流尺八 :(田嶋会)

宗家は横山勝也と二代目
酒井竹保に古典尺八を学
んだ田嶋直士
日本竹道学館
琴古流の会派

昭和3年、初代兼安洞童
を館長として開設。
美風会:琴古流の会派。昭和8年(1933)に吉田晴風門下の佐藤晴美(1906−)が創始。
     初代宗家 佐藤晴美(seibi)  二代宗家 佐藤公彬(kimiyosi)   三代宗家 佐藤珠美(tamami)
      (美風会理事長 吉岡潤風)    「
みそたねくんの目次」より転載

虚無僧研究会
: 尺八古典
本曲の研究会。本部は東京
新宿区法身寺。
住職は小菅大徹
「虚無僧追善供養
尺八献奏大会」を本部及び
虚無僧寺に因縁の場所で
開催。
鈴慕会:琴古流の会派。初代青木鈴慕が創始。現在の代表は三代目青木鈴慕。 
童門会:琴古流の会派。納冨寿童(昭和42年人間国宝。三世荒木古童の弟子)の系統。
無住庵道場(1973年)  設立者:初代倉橋容堂 ←神如道←初代川瀬順輔   現在の代表(2009年襲名)は二代倉橋容道(義雄)
その他の会派⇒川瀬派:竹心会、伶風会、江雲会、玉川社、若葉会、貴風会、百銭会   ・荒木派:古童会、竹童社  ・河本派  ・水野派
          ・宮田耕八朗  ・山下無風

「尺八奏者ダンテ芳名」のHPに<尺八の流派>というページがあり、非常に詳細な説明が見られます。
 世界各地の尺八奏者のプロフィールが見られます。→The International Shakuhachi Society
                           
-
Index of people whose speciality is: Shakuhachi

                                                       上に戻る
<江戸幕府以降の時代背景参考例>
慶長8年(1603)  徳川家康江戸幕府を開く
元和  (1615)   大阪夏の陣・豊臣氏滅亡
寛永  (1624)   イスパニア船来航禁止
慶安  (1648)   2年慶安の御触書(勧農条例32条)
承応  (1652)    下総佐倉惣五郎一揆
明暦  (1655)   3年 水戸藩主徳川光圀
                「大日本史」編纂
万治  (1658)   2年 江戸城本丸
              (明暦3年江戸大火)の殿舎竣工
寛文  (1661)   3年 武家諸法度を改補。 
                 殉死を禁ず。
延宝  (1673)   市川団十郎、江戸に
             歌舞伎(荒事)を確立
天和  (1681)   2年 井原西鶴
              「好色一代男」(浮世草子の初め)
貞亨  (1684)   宣明暦を止め貞亨(じょうきょう)
             暦を行う。天文方設置
元禄  (1688)   唐人屋敷を長崎に作る。
宝永  (1704)   前年、赤穂浪士討入り
正徳  (1711)   新井白石、朝鮮使節の待遇簡素化
亨保  (1716)   2年 大岡忠相(越前守)を
                 江戸町奉行に登用
元文  (1736)   清船入港数を年25隻に制限
寛保  (1741)   農民の逃散、強訴禁止
延亨  (1744)   江戸神田に天文台設置
宝暦  (1751)   徳川吉宗死。飢饉・打ちこわし・
             百姓一揆激化
明和  (1764)   2年 オランダ船より初めて
                 金銀を輸入
安永  (1772)   3年 杉田玄白ら「解体新書」
天明  (1781)   2年 冷害のため諸国大飢饉
寛政  (1789)   衣服・調度の豪奢を禁ず 
         2年前 天明の打ちこわし(町民騒乱)
亨和  (1801)   前年 伊能忠敬、蝦夷地を測量。
              United Kingdom(英)成立
文化  (1804)   レザノフ、長崎に来航し通商を要求
文政  (1818)   幕府、鎌倉で大砲を試射。
             英人ゴルドン、浦賀に来航。