有閑太公望、風蓮川さ迷い編
内地の渓流に耽溺し、慣れ親しんできた釣り人には心構えが必要になるかもしれない。これまで築き上げてきた知識、経験、技術の屋台骨に亀裂が入りかねないからだ。少なくとも私は、その一人だった。
竿で風きり浮き足立った、みなぎる意欲満々の釣り人も渓畔林を踏み抜く歩数をかせぐにつれ不思議な不安に襲われ、表面張力であふれんばかりの萎縮に心身をむしばまれていくことを悟る。そして、いざ茶色に染まった水流を前にするといよいよ立ち尽くし、息を飲み込んでしまうのだ。
そこへはすでに数十回は足跡を残していたのだが、いまだ異境に足を踏み入れたような錯覚から抜け出せず、軽い動悸と足のすくむ思いに駆られるのだ。
波打つ広大な牧草地が緑かがやく根釧原野。いく筋にも刻まれた牧草地の溝に、うっそうとした陰気な林の帯が広がる。その林に覆い尽くされた溝を埋めるかのように台地の水をあつめ、おびただしい蛇行を繰り返し根室湾にそそぐ、滔々と流下する川がある。
標津、当幌、春別、床丹、西別、風蓮…
根釧原野の川を言い表す言葉には詰まることを知らない。
「不気味」「殺風景」「荒涼」「寂寞」「殺伐」「違和」…
ようするに異質なのだ。それは訪れるたび反芻させられ、いまだ馴染むことなく距離の縮まることのないまま月日が無情に流れた。
風蓮川の釣り場としての価値を知ったのは1999年の秋だった。いいサイズのニジマスを熱望していた私の眼差しに、地元の釣り人がそっとこたえてくれた。
「何だ、根釧原野の川か」
とっさに胸の中で軽く受け流した。せっかくの助言だったが、まったく気乗りしなかった。シーズンも終盤でサイズにも恵まれず焦りの色を日ごと濃くしていたのだが、風蓮川にはついぞ風はなびかず、その年のシーズンを終えた。
異質なものに対して壁を設けたくなる一方で、道の扉を押し開けてみたくなる探究心のようなものを多少なりとも持ち合わせているつもりだ。
あるとき、ふとしたことで探究心が沸点に達することがある。2000年の9月上旬がそんな時期だった。振り返ると同じ川ばかりに照準を当てすぎていた。恍惚から見放された日々を重ねていたので気分を変える転機を迎えていたのかもしれない。
頭の隅にこびりついていたままの「風蓮川」をはがさなければならない。
手持ちの道路地図を唯一の頼りに入川場所を探す。とりあえず川をまたぐ橋が手っ取り早い。国道272号から起伏のある農道に入る。牧草地の切れ目に暗い林が浮かぶと川筋らしい地形が現れた。林の奥に砂利道が続いていたが、その手前の窪地に赤い欄干の橋があった。
橋を発見できた喜びよりも橋のすぐ左手にある、黄色い道路標識のようなものに視線が奪われた。妙にいかめしく、牧歌的な周囲とはまったく不つり合いだった。電光掲示板に文字が浮かんでいた。
『実弾射撃実射中』
疑念がまたたくまに晴れた。陸上自衛隊矢臼別演習場のここは近くだったのだ。ものものしい柵も、自衛隊員の険しい警戒の目も見当たらないから拍子抜けしてしまった。駐車した路肩のすぐ奥に有刺鉄線がある程度で一見、ただの牧草地だった。
薄い灰色の厚い雲に日差しが遮られ、9月上旬にしてはやや肌寒い日中だった。ほぼ無風で、快適なドライフライ釣りを約束してくれるような日和だ。
支度を整えていると突然、前触れもなく落雷のような乾いた爆音がのどかで安閑とした牧草地を揺るがす。間をおかずさらにもう一発。
鈍い衝撃が全身を鋭く駆け抜け反響し、後頭部へと突き抜けた。頭の中が空白になり、一瞬、時が静止したような気がした。
ふとわれに返り辺りを見渡す。緑鮮やかな牧草の奥にはうっそうとした林の帯が広がっていた。濃い樹冠から立ち昇る硝煙や土ほこりはなく、着弾して破壊されたような樹木らしきものも見当たらない。平和で果てしなくのどかな光景しかなかった。
上空の厚い雲に吸収されたのだろうか、あまり反響もせず、どこから射撃されたのだかわからなかった。それよりも、牧草地のミズナラの下で草を食む五頭の馬に感心した。実弾射撃の轟音に動じるわけでもなく堂々と振る舞い、喧騒などまったく気にもとめず優雅に尾を振っている。いや、そうではなく轟音漬けにさらされ続け感覚が麻痺してしまったのだろうか。どちらにしても奇妙なことだ。
橋から土手のような踏み跡をたどると、ほどなく右岸から西風蓮川があわさる。踏み跡は川岸まで続いていた。草をわけると茶褐色の平たくふくらむ水面が林の中から流れ出していた。ひざ上まである草を伝い川に下りる。茎の倒れたトリカブトの青紫色の花が水面にたれ揺れていた。
河床は茶色っぽく、それが一層水質を茶褐色に引き立てているようだ。けして増水の影響ではなさそうだ。川底の見通しは悪くなく、荒々しい岩盤、堆積した小石の表面まで見て取れる。遡行は予想に反し快適にはこびそうだ。
背後にはハンノキ、ミズナラ、ヤナギ類がうっそうと立ちはだかる。キャスティングは慎重かつ正確に努めなければならない。
十回もキャスティングを重ねぬうち川は大きく弧を描き渓相を一変させる。沈んだ倒木、予想外の河床の窪地に足を取られながら、水勢に逆らい魚の気配を探る。だがそれ以上にキャスティングには気を配らねばならない。気を緩めるとドライフライが枝や葉を捕らえる。
二、三度どころではなかった。規則的な割合で枝、葉からドライフライを無理やりはずし、そのたびにポイントも失う。フライフィッシング泣かせの陰湿な川だった。
メイフライ、カディス、テレストリアル系と順番に試し反応を待つが、フライは流れに躍らされるだけで使命を果たしてくれない。
蛇行を何度繰り返しただろうか、いくぶん川幅が広まり、川面に張り出した立ち木が少なくなると流速は急に穏やかに変わった。川を取り巻いていた台地状の地形がなだらかになり、やがて平坦に落ち着く。渓畔林の樹冠は背丈を伸ばし、林の奥行きが深まる。
吹き渡る風もなく、なめらかに駆け下る水勢からはささやきすら漏れてこない。烏帽子のようなトリカブトの花に誘惑されたハチの羽音が妙に際立つ。衣擦れさえはばかりたくなる静寂が立ち込めていた。
陰鬱で単調な空気から抜け出す機会は突然、訪れた。青天のへきれき、カラフトマスのつがいだ。草のたつゆるい岸際から、ただならぬ機敏さと機動力で大きな黒い影が暗い水流の向こうを張る。その動きに呼応したのだろうか、川の中央に立ちこむ私のすぐ足元をかすめるように、もうひとかたまりが慌てふためく。
快適な産卵床を求め、はるか根室湾から遡上してきたのであろう。この川の豊穣ななによりの証拠だ。生命の神秘と尊さが痛いほど伝わってくる。倒木下の浅い岸際でも、にごった白色の痛々しい背びれが最後のいのちを絞り出していた。
足が止まった。
何かがいる。何かが川の中を歩いている。
蛇行している川のすぐ奥で水しぶきが静寂を切り裂く。木立が陰になり蛇行の先の見通しはきかなかった。釣り人なのだろうか。
声を張り上げ反応を待つ。
応答がない。
もう一度試す。
返答が返ってこない。
エゾシカなのだろうか。まだ川の中を歩いている。様子がおかしい。シカなら大声に反応し遠ざかりそうなものだが、依然、同じ場所から水面を叩くような音がしている。
後ずさりを始めていた。忍び足を意識したが、水から引き抜く足がぐらつき気味で心もとなく、心臓の鼓動がおかしなくらい全身に充満していた。
後退しつつも蛇行の先が気になり聞き耳を立てていた。というよりも、相手の不意な行動に対処するには避けて通れそうもないのだ。過敏なほど聴覚に神経が行き渡っていた。
川をけるような水しぶきは近づくでも遠ざかるでもなく、見えない蛇行の先からあがったままだ。調子が一向に変わる気配すらないのはおかしすぎる。
川岸に寄り、体を左側に倒し何とかのぞき見ようとしたが木立が邪魔になるのはわかりきっていた。張り出した枝につかまりながら静かに右足を川から引き出し前にはこび、首だけ突き出した。
鏡のような水面の両岸は狭まっていた。くびれた川面の上手に枝のない、樹皮のはがれた倒木が川をまたいでいた。倒木を境に川面全体の水がかさなり合わさってひとかたまりになり、小さく細かいささ波を立てていた。
畳一枚ぐらいの、ただのせせらぎだった。
おかしさと安堵感で体中の力が抜け出してしまった。
川をけり、竿が空を切る。竿がしなり、風切り音を起こす。水面を盛り上げ前に進む。
もう二時間以上、釣りのぼり続けていた。実弾射撃もだいぶ前に収まり、川面に平穏が戻っていた。空を切る竿、水しぶきの炸裂以外、平静な日中だった。
木立の枝が覆いかぶさるカーブの深瀬でその日初めてのライズを見た。立ち込み位置のすぐ真横だった。三メートルの間合もない。すぐフライを打ち込むと一発で水面が割れるが、針がかりしてない。悔し紛れもふくめて数回打ち込むがなにも起こらなかった。あきらめかけていた矢先、五メートルほど上流で飛沫が飛ぶ。
手首だけ軽く返す小さな動作で竿を操り、ラインが飛び出し過ぎないように操作した。張り出した枝のわずかな空間にフライが楕円を描きながら舞い上がると平たい静水にやわらかく着水した。ゆるい流水に導き出され、ライズのあったポイントへフライがすべる。間髪おかず水しぶきがあがる。竿を立てあわせる。
今度は確実に針がかりしている。頭上の枝を気にしながら上流側へ後ずさりし、ラインの張りを保つ。
茶褐色の水面を引き裂き、濡れ光る魚が派手にジャンプした。
白い腹がそり返り体をブルブル震わせている。水面に激しく落下すると再び宙に舞い上がった。躍動あふれる見事な跳躍だ。
リーダーをたぐり、身をそらし最後の闘志をむきだしにする魚の腹に手を回す。
水質とは似つかわしくない、銀色にきらめくきれいなニジマスだ。型の割に透き通った尾ひれの張り具合が美しい。
気分が一新した。
見入る間も持たず暗い流れの中に返してやる。
満足だった。
深く息を吸い込む。張り詰めていた緊張が少しほどけたような気がした。でも、もう一尾、もう一回果敢なファイトがみたい。
かなり前から方向感覚があやしくなっていた。太陽のない、灰色の空がそれに追い討ちをかけていた。地形図はなかった。うる覚えの地理感覚に従えば方角的には上流側が西になるのだが、かなり漠然としていた。
上流に向かって進んでいるつもりだが、背後から水が流れる、という異様な状況に翻弄されていた。
現在位置の把握できない心細さがひしひしとこみ上げてくる。陰気な林がこのまま途絶えることなく永遠と連続しているような気がしてきた。せめてフライに集中できれば状況に惑わされることもないのだが、障害物に次々とはばまれキャスティングすら断続的な状態だった。
林はますます濃くなっていた。川をひとまたぎする倒木が釣りの大きな妨げになりだした。川歩きが煩わしい。ふと深いため息がこぼれる。それよりも、目前に点在する好ポイントを次々と見送らなければならない現実にいらだち始めていた。
キャスティングをあきらめ遡行に時間を費やす。
じりじりした気持ちを追い払う好機は皮肉にも途絶えていた実弾射撃だった。
右岸の見通しの悪い林のすぐ奥からとどろく。間近だった。耳に沁みつくような重く鈍い反響。不意に軽く頭を叩かれたような感覚だった。演習場の核心部に接近したのだろうか。うっそうとした深い木立にさえぎられ人工物のような物は何も見えないが、きっとヤブの中に有刺鉄線が張りめぐらされているのだろう。
さらに短い間をおき二発続く。
空気を引きちぎるような轟音が頭上に容赦なく落下した。川も林も原野も雲も揺れる勢いだ。時間が一瞬、息を止めた。誤射が頭をよぎる。
根元から倒れた樹木や水没した倒木に行く手を阻まれキャスティングの回数はますます遠のく一方だった。倒木を何本もまたぎ、時には粗い幹を踏み越え、張り出した枝の下をくぐる。やっといばらの道から解放され、格好のポイントに対面したと思ったら川面におびただしく突き出した樹木に無情の裏切りを受ける。そして、またいばらの道。無理を押して竿を振るとフライが飛び出るより先に竿先が枝を叩く。
潮時だった。
竿をたたみながら川を下った。水勢に押し出され歩速が自然と速まる。早く陰気な林から抜け出し、遅い昼飯にありつきたかった。帰路の所要時間の見当がつかない。三時間以上釣りのぼっていたから、少なく見積もっても45分から一時間か。
憂鬱だった。
川通しをあきらめ、陸に上がり林を抜け出す手もある。ただし、右岸は演習場の核心部だろう。
細い幹のハンノキに手を回し左岸の陸に上がる。体はすっかり冷えきり、ごわついたウェイダーが足の自由の足かせになり体が重たく感じた。
岸際はひざ上程度だが、その奥には濃密で胸元をはるかに越える草の一群が立ちはだかっていた。その先は牧草地なのか、それとも演習場の敷地なのだろか。農道がおそらく川と並行しているはずだが、道路までの距離がまったく見当つかない。■