■有閑太公望、西別川に魅せられて編■
なだらかな起伏をえがく青々とした牧草地を横切ると突然、西別川が姿をさらした。根釧台地に刻み込まれた溝を
埋めるかのように、いくたびも蛇行をかさね、渓畔に取り残された灰色の林の中を滑らかに駆け下っていた。
フラットな流れにもかかわらず水勢はすごぶる力を秘めている。ひざと太ももに重心を乗せ、両腕でバランスを保ち
ちながら流れに逆らい川面を踏み出す。刺すような冷気が背中を這い上がる。
滑らかでさらさらした白っぽい砂利がフェルトの靴底をくすぐる。心地よいやわらかな感触。霧雨煙る日中にもかか
わらず河床は宝石のようにきらめき輝いている。清冽で透明な水質。水中の見通しのよさが水圧にも負けない足運び
を導いてくれた。
水勢にけずられた、細長い砂利の丘の窪地に足を踏み入れると股下まで水につかった。その河床の丘を取り囲む
ように、バイカモが生き物のように揺らめき動く。川岸も流側にも、川面全体に緑の帯が流れに身を任せ、いっせいに
優雅な舞いを披露していた。
目を凝らすと豆粒ほどの白い清楚な花が揺れている。緑の中にあってひときわ映える、バイカモの花だ。
川岸は水の際までクレソンでびっしりだ。いたるところに群落をつくり、みずみずしい輝きは緑のじゅうたんのようだ。
川から陸に上がるとウェイダーから水がしたたり落ち草をぬらした。草を踏み抜くとひざ下まで足が吸い込まれた。立
ち足に体重を乗せ、一気に足を抜き上げた。四方から染み出した水で、スポンジのような草地の踏み跡はたちまち小
さな水たまりにかわった。間近にハンノキが茂っていたので安定した土壌と疑いを持たなかったが、岸際は湿地のよう
だ。草にだまされた。
けずれた台地のぶっつけ、横たわる倒木の下、水草のたつ岸にメイフライが、カディスが吸い込まれる。いずれも掌に
つつみこめるニジマス、アメマスだった。
幅狭の瀬わきがあった。すぐ手前は流心と呼応する速い流れ。テーパーラインが川面に垂れ下がり流れにのみこま
れぬよう、竿を高く立てた。ゆるい水面上をメイフライが静かに踊る。テーパーラインの動きが気になる。流心へ流される
前にメイフライを瀬わきの尻ぎりぎりまで漂わせた。
一瞬の出来事だった。メイフライが沈んだ。反射的に竿をあおると、鋭く水中に引き込まれていたテーパーラインがジグ
ザグに走り出す。
川面に張り出した樹木の枝に気を配りながら竿を操り、上流側に背を向けたちこんだ。流心にのった魚の水圧で竿が大
きくしなる。左腕を大きく後ろにそらし、右手でテーパーラインをつかみ少しずつ手繰り寄せた。慎重に寄せると水面から魚
の頭が出た。左ひざを地面につけ右手をぬらす。リーダーを垂直に張り、右手で魚をわしづかみにした。
全体が淡く緑色がかった、24センチのニジマスだった。西別川が育んだ、しなやかで美しい個体だ。
霧雨に全身をぬらしながら遡行を続けるが、川をまたぐ牧場の有刺鉄線が行く手を阻んだ。トラブルを避けるためやむなく
引き返す。まだ三時だった。思案の末、忠類川を選ぶ。
印象的な山容の斜里岳は薄い灰色の雲にのみ込まれていた。金山の滝に連なるトドマツの目立つ荒れた道は舗装工事中
だった。Uターンし、ホグランプを灯し武佐川へ車を飛ばした。まばらな対向車のヘットライトが薄闇を引き裂く。広大な牧草地
を囲むカラマツは黒いシルエットになってなだらかな起伏に浮かんでいた。標津川合流点の武佐川につくと決断は速かった。
竿の出せない闇がすぐ迫っていた。