余市登芸術村を作ろう!

  この4月から、えこふぁーむに農業研修生として、札幌から木村さんが住み込みで来ています。敷地内にプレハブ小屋を建てての自炊生活です。木村さんの長年の夢は共同体を作ること。農業を基盤に、食品加工などを行い自給的な共同生活を行うことを希望しています。そして、その中心には教会を据えようと考えているのです。教会とは、神に感謝を捧げる場所であり、自然の中に宿り、民衆の中に宿る神こそが、この共同体の主人でなければなりません。
 私の夢である農民芸術学校と、この夢とがドッキングすることにより、新しい世界が開けそうな気がしています。近いうちに、賛同者、出資者を募って土地を手に入れ、教会や芸術学校を含めた村作りをしたいと考えています。これは、未だ幻(ヴィジョン)に過ぎませんが、徐々に期が熟しつつあるのを感じ取っています。
 余市には、すでに農業を基盤とした共同体といえるものが2つ存在します。一つは退職教員らによって設立されたNPO余市教育福祉村(余市ふれあい農場)で、もう一つは札幌キリスト召団牧師の水谷恵信氏が、札幌の高校教師を辞めて始めた恵泉塾です。どちらも、設立されて10年に満たないのですが、引きこもりなど現代社会に適応できない若者を多く受け入れて、それぞれに優れた働きを実現しつつあります。
 実現すれば余市で3つ目の共同体は、音楽と芸術にあふれたものになるでしょう。この登地区は100戸ばかりの純農村ですが、実に色々な音楽家がいるのです。私はヴァイオリンでクラシックをやっていますが、他にも元プロのシンガーソングライターだった人、バンドでギターやドラムを演奏する農家、独学でクラシックギターを習得しアマチュアのコンクールで優勝した人、尺八の師匠で民謡グループを主宰する人、等々。音楽にジャンルを設けることはナンセンスです。地元でも先生には事欠かきません。もちろん本格的に農民芸術学校が始まれば、外部からプロの指導者にも来てもらう必要はあるでしょう。
 芸術は、人間性の発露であり、きわめて社会的なものです。自己満足では意味がありません。芸術を学ぶための最高学府である芸術系の大学教育は、真の芸術を産み出すためには必要ないか、逆に阻害要因とさえなっています。音楽大学を出ることは、音楽教師になるためには役に立つかもしれません、しかし芸術家になるために必要かというと、実に疑わしいのです。特に作曲のような創造的な仕事は、大学で学ぶべきものとは思われません。作曲科のある音楽大学は日本にいくつもありますが、日本の作曲家で世界的に最も人気のある(今はなき)武満徹は高卒だし、若手で海外での活躍目覚しい(私の好きな)吉松隆は慶応大工学部中退、もっと古いところで(まだ存命だけど)伊福部昭は私と同じ北大農学部卒業と、独学の作曲家ほど、後世に残るオリジナルなものを産み出しているのです。
 農民芸術学校は、単にアカデミズムを否定するものではありません。その基本は、自給的農業により自立した個を確立し、しかも全ての人が労働に参与し、互いに助け合い分かち合う人間関係を育むということです。そういう自立と共生の中から、本当に価値のある新しい芸術を創造することができるに違いないのです。これは、現代社会そのものに対するアンチテーゼでもあります。分業化を極度に推し進めた現代社会は、個人が自立できずにあらゆる生存手段を他に依存しながら、「隣は何をする人ぞ」で人間関係は極めて希薄なのです。そこには、芸術など存在できません。ただあるのは、ストレス解消のための娯楽のみです。娯楽によっては、決して心が完全に解放されることはありません。現代社会は、真の芸術を必要としているのです。
 現代では世界の多くの国々で、出身や身分により民衆を抑圧する封建制がなくなり議会制民主制になりました。しかし、資本主義という怪物が民衆を分断して抑圧支配し、平和を破壊しています。グロバリゼーションという名の世界支配が、多様で豊かな個性あふれる地域社会を次々に破壊しています。
 できる限り小さな地域での有機的循環を維持し、エコロジカルで永続的な社会を実践する自給的農民になることを通じて、この現代資本主義から脱却し、人間性の解放を目指す真の芸術を打ち出そうというわけなのです。このような自給的農業共同体によって、芸術は音楽にとどまらず、美術、工芸、建築、庭園、舞踊、演劇、文学に至るまで、産み出されて行く事でしょう。私としては、まず第一歩として、この新しい共同体から、世界に向けて、未来に向けて、新しい音楽を産み出して行こうと思うのです。

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