新しい三位一体論

  三位一体(さんみいったい)とは、日本語では珍しく(もしかして唯一?)キリスト教用語が一般化されて使用されるようになった言葉である。もともとの意味は、聖書に現われた父(創造主)と子(キリスト)と聖霊とは、3つの形をとっているが唯一の神であるということ(英語のトリニティーの訳)であり、これを認めるかどうかということが、正統派キリスト教であるかどうかの区別にもなっている。ものみの塔=エホバの証人は、聖書原理主義であるにも関わらず、これを認めないがために異端とされ、旧新約聖書をコーランと並ぶ聖典としていながらイスラム教がキリスト教の一派とは認められないのは、このことによる。つまり、三位一体とは、聖書に示された真理ではなく、のちにキリスト教が成立した時点で基本的な教理とされたものである。
 三位一体論は、イエスの思想ではない。イエスは自分のことをあえて人の子と呼び、もちろん神の子などと言ったことはない。また、神の子とは一神論的に考えれば、決して神そのものではない。イエスは罪のない完璧な人間であり、かつ通常の人間ではあり得ない肉体の復活をしたから神であるなどという珍説があるが、サンタクロースがプレゼントを持って来てくれると信じているような子どもは別として、そんなことをまともに信じる人間がいるだろうか。イエスは神ではなく不完全な人間であるからこそ、常に悩み、常に神に祈っていた。そして、神に忠実であろうとしたがために、権力により殺された。そして神がイエスを復活させたということは、決して肉体が蘇ったということではない。最も史実に近いとされるマルコ福音書では、イエスは墓から消え去っただけで、復活してはいない。ガリラヤ(辺境)に行けば、イエスに会えると書かれているだけである。正統派キリスト教とは、ある意味でイエスの真の復活を妨げるものである。
 では、三位一体とはナンセンスなのか。そうではないと思う。しかし、本当に三位一体であるべきは、創造神と自然=大地、そして子=人間ではないだろうか。この新たな三位一体論は、この順序でなければならない。神は大地(アダーマ=耕地)を創造し、大地の土くれから人間(アダーム=耕す人)を創造した。アダムが罪を犯した(=神から離れた)ために大地を耕さなくてはならなくなったと書かれていることは、農業による文明の始まりを意味しており、神と共にあったパラダイスでの人生(先住民の生き方)と決別したことを示している。しかし、神は常に人間に罪を悔い改めることを求めている。神を忘れて人間は生きていけないことを、聖書の神は最初の創世記から最後の黙示録まで一貫して、人間に警告している。
 大地は神の一部に過ぎず、人間は大地の一部に過ぎない(=身土不二)。自然を神のように絶対化して、生態系の保護を人間の生命や自由よりも尊いのだとすることもおかしいし、人間を絶対化して人間には何をすることも許されると考えるのは、もっとおかしい。人間が自然の一部であり、自然が神の一部であるとすれば、自ずから人間のとるべき行動は規定されるはずである。一切の強制と形式は廃されるべきであるが、人間は神よりも、また自然よりもずっとちっぽけなものであるのだから、人間には神と自然に従う以外に生きるべき道はない。
 神と大地(土)と人が一体であるためには、宗教と農業と芸術も一体でなくてはならない。この3つが分離していることに、現代の悲劇がある。これを一致させなければ、宗教はますます現実と遊離した虚無か御利益誘導の迷信に陥り、農業は経済の道具と化して飢餓と飽食を同時に生み出し、芸術は一部の鼻持ちならないスノビズムと大衆を愚民化する低俗文化に分裂する。神と土と人が一体でなければ、宗教も農業も芸術も、一致ではなく分裂に向かうことになる。現代ほど、ありとあらゆるものが分裂に向かっている時代はない。これは多様な中にも一致の見られる自然界の姿とは正反対のものであり、悲劇以外の何物でもない。
 では、神と土と人を一体とするために必要なものは何だろうか。それは、愛と忍耐である。それも無限の愛と無限の忍耐である。自分の敵を7の70倍まで許す愛と忍耐である。愛のない信仰は虚無であり、忍耐のない自由は破滅である。そのような愛と忍耐は、非常に得がたいものではあるが、決して人間にとって不可能なものではない。人の子であるイエスはそれを実践し、イエスを信じた者たちも実践した。神でなくとも、神の一部である人間には、それが可能である。そのような意味では、すべての人間は神の子としての素質を持っていると言ってもよいだろう。
 一神教の神は、自然と人間が対決せざるを得ない砂漠遊牧民の神であり、一方、日本を含むアジアモンスーン地帯では自然そのものが神であり、基本的に多神教であるという説がある。それはユダヤ=キリスト教の神概念が、遊牧生活から農耕定着生活への過程で生まれたという事実を無視した論である。もちろん、地中海沿岸の風土は、夏雨気候のアジアモンスーン地帯のものとは大きく違う。しかし、農耕民族である点では一致しており、キリスト教的な思考が現在の地球環境の危機をもたらしたと考え、仏教的な思考こそが永続的なエコロジカルな未来を保証するものであるというシュマッハー(「スモール・イズ・ビューティフル」の著者)的な考え方は、必ずしも正しくないだろう。聖書の神は、現代文明を開花させた農耕文化の神であることも事実であるが、自然=大地に従わなければ破滅することも同時に教え、人間に地球環境の管理責任(スチュワードシップ)を求めていることも、客観的な事実である。唯一の神という概念は、多様な自然や多様な価値観を否定するものでは決してなく、多様な世界が一つの生態系と一つの宇宙のなかで関連し合っているということを確認するためには、極めて重要な認識であると言えると思う。
 いずれにしても、キリスト教が旧態依然とした三位一体神学から解放され、新たな三位一体論を得る時にこそ、イエスはキリスト教会内においても真に復活を遂げることと信じる。

>>>> えこふぁーむ・にゅーす見出し一覧