はちろうれん
八雲町老人クラブ連合会だより

                

「玉音盤奮取の偽師団長命令」

若草老人クラブ  近 藤 国 太 郎

 戦後早くも60年の歳月が流れ、戦争のことは忘れ去られようとしておりますが、私には忘れられない思い出があります。私は終戦まで近衛歩兵第2聯隊の下士官として服務しており、上層部の命により玉音盤奮取の為に宮内省を捜索した体験です。この事件の内容について、直接の上官であった北畠大隊長が昨年初めて講演で明らかにされたものを紹介します。

 講演 陸軍大尉北畠暢男(当時25歳)

 昭和20年4月下旬から終戦まで私は近衛歩兵第2聯隊 (近歩二)の第一大隊長として、宮城近辺の警護にあたりました。B29の帝都爆撃はいよいよ激しく、宮城の一部も焼け落ちました。6,7月にはより耐久度の高い陛下の御座所(防空壕)を吹上御宛内に作っていました。九段の近歩一、二聯隊の営庭に何十台のミキサーを並べ、コンクリートを練ってナベトロ(運搬用トロッコ)で運ぶのです。梅雨期と重なりましたんで、かなりの重労働となりました。8月に入り、広島、長崎に原爆が投下され、ソ連が参戦するに至り、ポツダム宣言をそのまま受託すべしといった外務省の意見と、天皇制護持が確認されるまで戦争継続すべしといった陸軍筋の意見がぶつかっていました。張り詰めた空気が私達近衛の将兵たちの間にも流れていました。8月11日の夕方、私は古賀秀正師団参謀(東条首相の娘婿)から師団司令部へ呼び出しを受け、こう命じられました。「全てが終わりだ。貴様は守衛隊司令官として、部下を率いて宮城に入れ」古賀司令官の顔は青白く、口調が投げやりでどこか憤慨して いるようでした。そして静かにこう言われました。「遠くは大津事件、あるいは五・一五事件、二・二六事件において青年、特に青年将校の血気の勇は、日本の国に非常な損害を与えた。だからこれから起こるであろう問題は、何であるかわからないが、十分考慮して守備隊司令官の任務を遂行せよ。もし軽率妄動する者があれば断固として斬れ」

 私達は12、13日と無事に守衛勤務を終え、近歩一聯隊と交代しましたが14日の午後から再び同勤務に戻りました。しかも芳賀豊次郎聯隊長以下、一個聯隊の増派です。不測の事態への対応強化が目的で、師団長は陸士の同期であった。芳賀聯隊長を信頼したこの任務を託したようです。そして午後3時ごろ、古賀、畑中賢二、楢崎二郎の三参謀が守衛隊司令部を訪ね、自ら「大本営より近衛師団への派遣参謀だ」と紹介の上、部隊側の芳賀聯隊長、佐藤芳弘第三大隊長(日高町出身)、そして私を交えての三対三の会談が行われました。参謀側はこう告げました。「陸軍大臣の決心は変わらず、国家護持の保障を取り付けるまではポツダム宣言を受託せず戦争を継続する。ただ大臣も近衛師団長もこの件についてスッキリしたものが出てこない。もう少し説得する。君側の奸(和平派要人)を排除することも続けていく」。参謀は部隊にとって上官であり、上官の命令は絶対です。しかし、彼らと違い、我々には生死を共にしる部下がいてそれぞれの思いは千々に乱れています。だからこそ命令以下整然とした行動を取らなければ軍隊は成り立ちません。この時点で初めて決起計画の一端に触れた私たちは、参謀側にこう伝えました。「我々には部下がいる。近衛師団は近衛兵としての名誉歴史伝統がある。従って近衛師団命令のもとに整斉とした行動をしたい」。しかし、その日の9時に開かれた二度目の会談で参謀側は「大臣に対しても我々の説得は後一歩のところまで来ている」と言ったものの「我が師団長が命令を出さなかった場合は?」と尋ねると「斬ってでもそうする」と答えました。統帥系統のある師団長を「斬る」とは何事だとの、疑念が頭をよぎりました。これ以降、参謀側の積極姿勢に比べ、部隊側は慎重に事態を見極めようといった消極的な姿勢を強くしていったようです。
 続 く 

近藤さんの近影    

平成18年4月