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ヘルツォーク

2003-05-02(金)


amazon.co.jp :
小人の饗宴


ドイツの映画監督ヘルツォーク三作立て続けに観ました。
レンタルビデオで見つからなかった『闇と沈黙の国』(1971年作品)を観たいところ

ヴェルナー・ヘルツォーク『小人の饗宴』(1970年作品)

再見し、やはり判らなかった。

昔札幌で行われたドイツ映画祭のパンフレットを引っ張り出し、『小人の饗宴』の箇所を読み通すと何となくは判る。

ここに描かれるのは片足失ったニワトリを突く健康なニワトリ。
施設の秩序維持を拒み、あらゆるものを壊し、焼き、全盲者をいじめる小人達。

健康な人間は一人も登場せず、荒れ果てた施設での『小人の饗宴』が描かれ続ける。

終いに十字架に縛り付けた猿を掲げ、行進する小人達。

パンフレット解説では
「施設の厳格な秩序のために、目的持った態度などは不可能であり、アナーキーこそ唯一の可能な態度」

1977年10月3日朝日新聞には
「飢えによる闘争ではなく、遊戯としての反抗だ。未来への展望は初めからなく、前代未聞のお遊び革命である。」

監督インタビューとして、
「(ニワトリは)人に向かって硬直している愚かさです。死と愚かさです。それは全く底知れない愚かさなので、恐ろしいものです。私は悪魔の存在を信じませんが、愚かさだけは信じます。」

「小人」である事への観る者の善意の偏見。
「小人」が「全盲者」をいじめる愚かさ。

人間なんて「弱いもの」に牙をむける動物。

そこまでは理解できますが、その先に何があるのだろうと考えてしまう。

夕飯時、新聞に書かれていた
「親米、反米ともにアメリカのごり押しに諦めムード」
アメリカもまた『小人の饗宴』を繰り広げているだけなんですよね。

テレビでやっていた「巨大リゾートの一年」
その中で雪景色をリゾート関係者が無意識で車走らせ、車輪の後をつける事にリゾートの社長さんが怒り、「施設や施設周辺はお客様のものであり、我々のものではない」こんな事を言われてました。

「弱いもの」「物言わぬもの」を服従できる、我がものと思ってしまう『小人の饗宴』の愚かさを如何に克服できるのか。

「宗教戦争」のように言われるアメリカの対テロ政策も「宗教」なき時代の『小人の饗宴』なのかも。

ちなみに「小人」を主役にした障碍者映画の傑作『フリークス』(トッド・ブラウニング監督1932年作品)は誰でも『フリークス』になるんだよを描いている名作。

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カスパー・ハウザーの謎

ヴェルナー・ヘルツォークカスパー・ハウザーの謎』(1974年作品)


野生児カスパー・ハウザーが社会に出され、学問を身に付けつつも、その発想が突拍子なく、何者かに殺され、遺体解剖によりその突拍子のなさが論理づけられる。

「地下牢の生活はどうでしたか?」
「外よりましでした。」

「なぜ教会から出て行くんだ?」
「合唱隊が喚き散らし、その後、司祭が大声をあげるので恐ろしくなった。」

「人は狼ですよね?」

「夢の中で人々は山を登っていました。その頂上には死に神が待ってました。」

カスパー・ハウザーの言葉はことごとく否定され、論理に叶った遺体解剖の調書のみが認められる。

原題『各人は自分自身のために、神はすべての人に反抗して』

人間社会の愚かさがかいま見えるようです。

情報化社会での管理システムに押しつぶされる『未来世紀ブラジル』(テリー・ギリアム監督1985年作品)を観、テロリストに怯える社会が情報ミスにより、一般市民を殺してしまったが為に起こる証拠隠滅。これって、今のアメリカのイラクでの破壊兵器未発見でも同じような事が起こっているのかなと思ったりしつつ。

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ヴェルナー・ヘルツォーク『緑のアリが夢見るところ』(1984年作品)

アギーレ・神の怒り』(1972年作品)『フィツカラルド』(1982年作品)が今ひとつ乗れなかった僕としては見過ごした作品。

『アギーレ・神の怒り』『フィツカラルド』の観た当時の感想はヘルツォークもヨーロッパから出るとその価値観に魅力なくなるなぁというもの。

南米アマゾンは常識はずれの自然の世界。ガルシア・マルケスの訳者あとがきなんかでも「大蜘蛛がその重みで電線を切った」とか「2メートルのみみずがいる」とか。そんな壮大な世界でいくら荒唐無稽なフィッツカラルドとて所詮は小人。

けれども、『緑のアリが夢見るところ』はいい。

ウラン鉱脈の調査のため、アボリジニの聖地、緑のアリが夢見るところが掘り起こされようとしている。

「ブルトーザーで教会を壊されそうになったならどうしますか?」

「人類の進歩のためがアボリジニにとって進歩なのですか?」

アボリジニ当人、保護の立場の白人、それぞれ提示する問い。

「人類の進歩のため」が「一部資本家のため」と読みとれる。「人の豊かさ」が「人の愚かさ」にも見て取れますし。

平行してみたフェリーニ『カビリアの夜』(フェデリコ・フェリーニ監督1957年作品)の復興期イタリアでの男に騙され、有り金盗られても生き抜く売春婦カビリアのしたたかさこそ「人の豊かさ」なのかなとも思ったりして。

『緑のアリが夢見るところ』の中でも部族全員滅ぼされ、一人生き残った長老を聾唖者と呼ぶくだりあり、「言葉通じる仲間が死に聾唖者となった」

そう言えば生まれたての赤子が何時間か人のぬくもりを感じられないと自然死するという話もあります。

真の「人の豊かさ」とはなんなのでしょう?

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[アルバム『フェラ・フェリーダ』(1987年作品)収録]

霧の目蓋 魂の肌
黒く赤い涙
月に浮かぶ
ジウリエッタ・マシーナ
街角の売女
俺の孤独な人生
汚れのない光りを映す幕
俺たちの存在は いったい何処へ行き着くのか
ジウリエッタ・マシーナ
異世界の光を映すヴィデオ
霧の目蓋 魂の肌
ジウリエッタ・マシーナ
あの顔こそがキリストの心だ

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