芭露百年のあゆみ

12章 豊かな教育・文化

昭和の小漁師top  TOP 第1・2・3章 第4・5・6章 第7・8・9章 第10・11章 第12章 第13・14・15章 第16・17・18章 


12章 豊かな教育・文化

●小学校・中学校の統廃合  芭露地区に小学校は明治、大正時代に芭露小学校、上芭露小学校、東芭露小学校、西芭露小学校、志撫子小学校、計呂地小学校の6校が開校、中学校は新学制施行に伴い、1947年(昭22)芭露中学校、上芭露中学校、東芭露中学校、計呂地中学校の4校と上芭露中学校西芭露分校が設置された。
 農村人口の都市への流出、校舎の老巧化などの問題を抱え、戦後、小中学校の統廃合が大きな課題となった。町教委区委員会は僻地小規模校解消により教育機会の均等などを目指す「教育施設整備5ヶ年計画」「学校統廃合計画」を策定、1958年(昭33)町議会で承認された後、同計画を基に関係団体や地域との話し合いを重ねた。
 当初中学校は湧別、芭露両地区に各1校、小学校は湧別、芭露、上芭露、計呂地の4校との構想だった。いずれも湧別地区の統合は比較的スムーズにいったが、芭露方面は、特に小学校の統合が難航した。
 統合校・湖陵中学校への統合は1968年(昭43)年度までに終了したが、小学校の統合については児童数の減少から構想の見直しを迫られたが、地域の話し合いは進まなかった。ようやく1977年(昭52)東芭露小学校が芭露小学校に統合。
 その後、芭露地区の小学校を廃校して、新たに統合校・芭露小学校を創設する方法が採られ、各小学校が統合。最後に残った小規模校・上芭露小学校は1991年(平3)廃校した。
● 芭露小学校  芭露小学校の前身は1902年(明35)9月湧別尋常小学校所属馬老簡易教育所として開設された。児童数の増加に伴い、1908年(明治41)芭露尋常小学校に昇格独立。同時に所属校として、バロー簡易教育所(上芭露小の前身)を設置。1910年(明43)床丹特別教授場(床丹小)、1914年(大3)志撫子特別教授場(志撫子小)を所属校として開設した。
 また、1913年(大2)東の沢特別教授場(東芭露小)と西の沢特別教授場(西芭露小)が上芭露尋常小学校、1907年(明40)計呂地簡易教育所(計呂地小)が湧別尋常小学校の所属校としてそれぞれ開設された。
 西芭露尋常小学校は、以降児童数の増加による校舎の増築(大12)、4学級編成(昭2)、校舎新築(昭4)、高等科併置により芭露尋常高等小学校に改名・6学級228人(同)、国民学校令により芭露国民学校に改名(昭16)、新学制により芭露小学校に改名・7学級344人(昭22)、芭露中学校併置開校(同)、中学校用教室増築(昭24)、屋内体育館落成(昭26)、校舎増築(昭27)、音楽室と中学校用校舎増築(昭31)、鼓笛隊編成(昭36)など、施設の充実が図られた。
 1977年(昭52)東芭露小学校を統合、1980年(昭55)西芭露小学校と志撫子小学校を統合、両校を廃校とし、統合校・芭露小学校が開設された。同年11月新校舎と体育館が完成し、他小規模校の受け入れ態勢を整えた。
 1987年(昭62)計呂地小学校、1990年(平2)西芭露小学校、1991年(平3)上芭露小学校を統合、1995年(平7)特殊学級の認可を受け、「くるみ学級」を開設した。
 この間、1982年(昭57)開校80周年記念式典・祝賀協賛行事の実施、1953年(昭58)網走管内教育実践表彰受賞、1995年(平7)教育目標の全面的見直し策定などの経過をたどった。また、1994年(平6)郵政省などが主催する第20回アイデア貯金箱コンクールで、道郵政局から学校表彰を受けた。
 芭露地区小学校の統合について、各校の記念誌では次のように触れている。
 地区の学校として存在、役割を果たしてきた本校も、平成元年PTA内に今後の推移、現況から統合の儀が起こり、幾度かの会合を重ねた末に、平成2年2月3日、地区臨時総会に提案、4月7日の総会で正式に議決され、統合が決定した。
 ここに開校84年の歴史と伝統をもち、全児童生徒数2,718人を数えた上芭露小学校の歴史を閉じることになった。
          (84年の学窓、郷土のあゆみ/上芭露自治会・上芭露小学校)

 
 統合については町から昭和50年頃から申し出がありましたが、学校が廃坑になるということは、部落の過疎につながることですので、児童数が急速に減少する昭和65年(平3)をめどに検討するということでしたが、時代の波には勝てず、昭和62年6月にPTAとの話し合いで、数回にわたって審議されました。
 学校閉校が決まると同時に、閉校問題委員会をつくり、要望事項として数多く、町に要望しました。
 その中で部落の活性化を図るため、学校跡地に公民館を設置してもらうことになり、学校林を町に買い上げてもらい、記念誌発行、閉校行事に関する事業に使わせてもらいました。
          (77年の学窓 西芭露小学校)

● 広大だった学校林  1995年(昭31)町と部分林設定の契約を結び、各校がPTAの協力により、造林事業を開始した。学校教育費の造成と児童生徒の愛林思想の啓蒙のため、町教委区委員会が主唱したもので、町内全校同一歩調で進められた。
 芭露小学校の植林地は、芭露原野4,133番地(芭露1,320番地)の町有地のうち約12,5ha1960年(昭35)までの5年間にカラマツ36,500本、トドマツ10,500本を植林した。1962年(昭37)には約0,4haを増加し、カラマツ1,350本を植樹した。これにより、学校植林地は合計約12,9haになった。PTAに造林部を設け、町内一の植林地に育てあげ、造林コンクールで入賞するほどだった。面積的には上芭露小中学校(14,7ha)に次ぐ広さだった。
 その後、町内の学校林は、町が買収して、1989年(平1)までに姿を消した。芭露小学校の学校林は1979年(昭54)7月、町教委と町の売買契約により、売却された。1982年(昭57)の開校80周年時には、学校林造成基金の残金が校旗、校章、造林事業の記念碑費用にあてられた。
 町の学校林の最終記録によると、売却時の面積は、芭露小学校が最も広い9,58ha。志撫子小学校6,64ha、湧別中学校3,33ha、西芭露小学校2,68ha、信部内小学校0,48ha、他の学校も含め、それぞれ閉校や学校施設の整備時期に売却しているという。
 芭露小学校の学校林の記録は『芭露小学校80周年記念誌』の「年代譜」によると、「昭27年5月6日 学校植林実施」「昭和28年5月20日 学校植林作業実施」「昭和34年5月11日 学校植林、中学生全員出動」「昭和35年1月18日 学校植林につき表彰状を受く」とある。
 これらに関して、同記念誌の回想録の中で、当時の校長と関係者は、それぞれ次のように述べている。
 
 御園山に学校林が計画され、落葉松を植えたが、この作業の指導は中学校教頭の森谷先生があたられた。あれから30年どんなに成長しただろうか。
        (元校長 松田徳四郎 昭27・5〜29・8)
 私は前任校で10haの植林を実施した経験を踏まえ、将来PTA会費を無料にできるほどの面積を造成したい考えから、6年間精魂込めて努力しました。最初は児童生徒だけでできると考えていたのですが、いろいろの手違いから、後半は不敬の応援を仰がなければならない羽目になり、PTAに造林部を設けていただき、町内一の植林地に仕上げてくださいました。
        (元校長 森 透 昭29・8〜36・4)

 昭和31年春から5年計画で造林が始まり、昭和35年の春で全部植え終わりました。造林部初代部長は豊島幸之進氏だったが、任期中の2月に病死。その後、私が任務を引き受け、15、6年間毎年、下草刈り、つる切り、下枝取り、ねずみ防除の薬品産婦、うさぎ狩りをしました。何の作業をやるにもPTAの方々のお世話になり、時には80人も出役をお願いしたこともあります。
        (元PTA造林部長 尾関 義一)

 歴代校長は、桑原清太郎(明41・3)、弦巻千代三(大9・4)、葛西栄作(大14・4)、高玉二八(昭5・8)、井上森太郎(昭7・10)、工藤栄(昭13・4)、中島俊雄(昭16・12)、伊藤鶴吉(昭19・5)、本保常雄(昭22・4)、松田徳四郎(昭27・5)、森透(昭29・8)、田上豊(昭36・4)、加賀森太郎(昭41・4)、青木駒一(昭47・4)、山崎達(昭50・4)、統合初代・松本三郎(昭55・4)、中田透(昭60・4)、福田安邦(昭63・4)、水野清一郎(平2・4)、佐藤弘(平5・4)、関全(平6・8)

● 芭露小学校校歌

一 古き木々 枝さす庭べ
   清き水おのずとわけり
   はるかなる歴史をここに
   青き雲において流る
   ああ芭露われらわれら
   この学舎にわれら学べり

二 登り立つ 潮見の丘ゆ
   広き海ま近にせまる
   若きわが命をここに
   大いなる望みは生まる
   ああ芭露われらわれら
   この学舎にわれらみがけり
● 湖陵中学校  前身の芭露小学校は、1947年(昭22)4月新学制に伴い、旧芭露国民学校高等科の教室を利用して、芭露小学校に併置して開校。1949年(昭24)には6学級編成となった。併置校として規模が大きいことから独立校舎が要望されたが、「教育施設整備5ヶ年計画」「学校統合計画」(昭33)に基づき、テイネー以東の小規模併置中学校は廃校し、統合することになった。
 1963年(昭38)3月芭露中学校と志撫子中学校が統合のため廃校、同年4月芭露中学校(5月湖陵中学校と改名)を新設した上で、志撫子分室を設置、それぞれ旧校舎で授業を開始。1964年(昭39)計呂地中学校も廃校、湖陵中学校計呂地分室となった。1964年(昭39)志撫子分室、1969年(昭40)計呂地分室がそれぞれ廃止され、実質的に両校が統合された。
 1965年(昭40)11月3期にわたる工事の末、湖陵中学校の校舎が完成した。その後、1966年(昭41)東芭露中学校、1969年(昭44)上芭露中学校、西芭露中学校もそれぞれ廃校、湖陵中学校に統合された。
 芭露地区の中学校統合の経過について、1969年(昭44)5月の『広報ゆうべつ』で次の通り記載されている(抜粋)。
 上芭露、西芭露中学校を湖陵中学校に統合するため、話し合いを進めてきたが、校下父兄から時期尚早とする意見があって調整がつかず、統合は見送られていたが、昨年(昭43)1月、町議会に中学校統合特別委員会が設置され、関係部落民の意見聴取などが行われた結果、44年度から統合に踏み切るべきであるという意見が出された。
 町並びに教育委員会は話し合いを進め、3月の定例町議会に上芭露、西芭露中学校の廃校議案が町長から提案され、議会は原案通り廃校することを決定した。
 その後、部落の統合反対デモの騒ぎもあったが、5日の西芭露中学校、6日の上芭露中学校の廃校式も無事終了、8日に行われた湖陵中学校の入学式にも上芭露から34人、西芭露から24人全員の中学生が出席、多数の父兄も参列して入学式が挙行され、ここに10数年に及ぶ統合問題にピリオドが打たれた。

 統合を終えた湖陵中学校は、教育機器の充実(昭54)、校舎全面改築(昭59.60)、コンピュターの導入(平1)、テニスコート・芝生の造成(平2)、英語指導助手による授業開始(平4)、コンピューター室の整備(平5)など、施設や教育内容の充実が図られた。湖陵中学校生徒数のピークは1964年(昭39)で、9学級329人を数えた。
 1993年(平5)11月には開校30周年記念式典と祝賀会を開催。これを記念して第1期生は校舎前に校歌を刻んだ石碑を建立。また記念誌『森と湖の学舎』が発行された。
 この間、カッター(校医・岩代学寄贈)訓練の開始(昭44)、中体連全道剣道女子準優勝(昭54)、網走管内教育実践表彰受賞(平4)、北海道社会福祉協議会ボランティア指定校(平7)、管内公開研究会(コンピューターなど教育機器)(同)など、創意ある教育活動の試みや成果が認められた。
 カッターは、体育活動や海洋クラブで活用され、携わった教員らが30周年記念誌の中で思い出をつづっている。同教育実践表彰は、視覚教材と教育機器を使った授業や協力教授方式を取り入れた学習指導、ボランティア活動が評価されたもの。
 また、湖陵中学校では、カキの養殖作業や海カレイの飼育、白花豆の栽培など、地場の基幹産業の体験学習を重ね、職業観を養っている。

● 湖陵中学校校歌

一 ああ 朔の朝ぼらけ
   英知の光り 地に満ちて
   真理の道を照らすとき
   ここに集いし若きらは
   未来に健き眉あげん
   湖陵われら湖陵中学

二 ああ 流麗の芭露川
   先人の史 刻みつつ
   サロマの湖と展くとき
   腕くみ交わす若きらに
   拓世の固き誓いあり
   湖陵われら湖陵中学

三 ああ 湖なりやオホーツクの
   風氷雪をまじえつつ
   試練の曲を奉すとき
   学びてやまぬ若きらの
   ゆるがぬ心歌うなり
   湖陵われら湖陵中学

四 ああ 昏鐘は丘に鳴り
   牧牛すでに草食まず
   残光影を沈むとき
   文化を担う若きらに
   思想の花や開くべし
   湖陵われら湖陵中学
 
● 社会教育  ● 青年団活動
 明治後半以降、国や道が青年団体の育成奨励に乗り出し、小学校校長が青年団体の指導育成に当たった。芭露では1912年(大1)青年男子による大正青年会が大口丑定たの提案により、会員20人で発足した。
 当初は修養団体の色彩が強かった。主体的に運動会や講演、競技会を実施していたほか、社会奉仕活動や祭礼行事などに協力していた。
 1918年(大7、1919年(大8)ころは演劇活動が盛んで、現代劇のほか、佐呂間の栃木団体に習い、歌舞伎も行った。これら公演は娯楽のない時代とあって住民に大好評だった。
 1921年(大10)青年女子による芭露処女会が16人で発足した。芭露小学校下の女子修養団体として、運動会、共同作業、料理、編物講習会などを行い、教養の向上に努めた。
 1916年(大5)下湧別連合青年会が村内全単位青年会により発足し、網走ほか3郡連合青年団に加盟。大正青年会も同連合青年団の行事に参加した。1922年(大11)芭露小学校校庭の一角に芭露青年会館(30坪)が建設され、青年の修養の場として活用された。
 1927年(昭2)処女会は女子青年団、村内連合処女会も連合女子青年団に改称し、統一的な事業も行われた。1930年(昭5)芭露青年会館に付設して修養館が建設され、女子の修養の場となった。
 戦争は青年団体の育成方針を国家的統制の色彩に持っていった。第1次世界大戦後の農村恐慌、昭和初期の相次ぐ冷害の沈滞ムードの打開策として、青年の奮起が運動として取り上げられた。
 戦時中には、戦争対応を眼目に、全国、全道、市町村レベルで組織が改組された。青年団と女子青年団の統合も図られ、臨戦即応の組織となった。1945年(昭20)青年団は国民義勇隊に統合された。戦時体制から終戦となり、芭露女子青年団は自然解散した。
 1946年(昭21)青年男女による芭露青年連盟が祖国再建と郷土振興に寄与する人格の陶磁、知識の向上を図り、社会文化に貢献しようとの目的により、59人で発足。代表は越智清敏が努めた。同年湧別、芭露、計呂地の3地区により下湧別村自治青年連盟が組織された。
 芭露では、盆踊り、馬頭観音祭、野球大会、陸上競技、相撲大会、弁論大会、演芸大会、援農、農事視察、遺家族慰問、カルタ大会、料理講習会などさまざまな取り組みを行った。その後、芭露地区は一時同連盟から脱退した。
 1951年(昭26)湧別町青年団体連絡協議会は湧別町青年団体協議会に改称。その後の10年余りは、離農、若年労働者の都市への流出が進み、青年団体組織は変転せざるをえない状況に。芭露地区も過疎により青年が急激に減少した。以降、芭露青年団の会員数は1961年(昭36)22人、1970年(昭45)25人、1980年(昭55)24人とほぼ横ばいで推移した。
 1970年(昭45)芭露青年団は芭露青年会を改名した。40年代は、チャリティーや歳末助け合いなどのダンスパーティー、花壇の設置、道路清掃、キャンプ、研修会、墓地の清掃、演芸会、小学校運動会の協力などを行った。
 1980年(昭55)同協議会は創立30周年を迎え、記念式典を実施した。同時期に青年団は町内に6単位団体、芭露は芭露青年会として加盟し、会員は男子18人、女子6人、代表者は菅隆志だった。
 その後、同協議会は、会員が減少しながらも組織を維持したが、1993年(平5)スーパードッジボール大会を最後の事業に解散した。この数年前から同協議会の単位団体は会員の減少のため、日常活動はできない休止状態だった。
 芭露青年会は1990年(平2)ころまで、島田宗央(会長)、多田智弘らが芭露墓地の清掃など活動していたが、他の単位団体同様、青年の減少により自然消滅した。その後、多田は同協議会の中で、解散まで活動した。
 芭露青年団(会)・団(会)員は、湧別町優良青少年文化賞表彰で、1959(昭34)年度青年文化奨励賞、1960(昭35)年度青年文化賞、1961(昭36)年度川上正雄が青年文化奨励賞、1965(昭40)年度清水三千枝が青年文化努力賞、1969(昭44)年度本田勝樹が青年文化賞、三浦直樹が青年文化努力賞を受賞した。
 また、1973(昭48)年度に久保隆幸、内山敏幸、1975(昭50)年度に古田幸一が北海道優良青少年顕彰を受けた。

 ● 芭露農協青年部
 農協青年部は1951年(昭26)7月、部員37人で、芭露、上芭露、西芭露に3支部体制で発足した。1954年(昭29)計呂地、東芭露、1955年(昭30)志撫子に各支部を設置し、全地区に支部網を組織した。
 1957年(志撫32)年度には部員数が140人にまで増え、1960年(昭35)10周年記念式典を実施したが、その後の離農や後継者不足で次第に減っていった。
 初年度の事業計画は、@青年部組織の強化に関する事業A農協研究と組合運動の推進B優良図書の斡旋普及・各種講習会の開催・参加C農業後継者を部員として緬羊の毛刈集荷や雑穀の農協一元化集荷などに積極的に協力するーーーなど。
 その後は、機関紙発行(昭27)、生活改善運動の提唱と実践(同)、優良品種原採種圃の経営(昭29)、創立10周年記念式典(昭35)、第1回ホルスタインベビーショウ(昭48)、創立25周年記念式典(昭52)、牛乳消費拡大看板の設置(昭63、平1)などの事業にも取り組んだ。羊毛出荷では、全道特別表彰(昭34)も受けたほか、婦人部との共同による作業も行った。
 現在発行されている『農協だより』の起源は、当初は『農青通信』と題した青年部の機関紙。1954(昭29)年度に機関紙を農協と協調し、『農協通信』として発行した。
 最近では、ホルスタインベビーショウ、先進地視察旅行、親睦ソフトボール大会、芭露農協役員との懇談会など、恒例となっている各種事業を重ね、農業経営の研さんや部員の親睦を図っている。
 1977年(昭52)1月設立25周年記念大会と祝賀パーティーを国民宿舎「華苑」で開催した。初代部長の長谷川隆は「25年機関誌」の中で、次のように回想している。
 忙しい農作業の間に自転車で農協事務所に集まり、夜遅くまで活動の方法などを討議しました。慣れない手つきで羊毛を刈って、緬羊を傷だらけにしたり、下手な弁論大会に若者の情熱を披露したのも今は懐かしい。結成総会に出席した30数名の部員中、現在営農を続けているのは6名のみ。
 しかし、営農の基盤はこの間、全く一変し、近代化された農業への道を進んでいます。25年間、青年部が果たしえたものは少なかったかもしれませんが、今後この土地に農業が続く限り、農業の責務はますます重要なものになってきます。

 歴代部長は、長谷川隆、井上義美、島田喜一郎、富永隆、前野盛隆、長谷川隆、野村勇一、渡辺豊春、多田祐一、井上剛、前野盛隆、長屋正孝、田村好行、多田光男、森谷松男、図子正男、佐藤英二、久保隆幸、佐藤英二、栗田敏、越智信、樋口秀明、栗田敏、長屋悦朗、上田範幸、仲正浩、井上豊。

 ● 芭露農協婦人部
 農協婦人部は1955年(昭30)12月、部員250人で発足した。初期のころは、農村託児所の開設、羊毛の集荷協力、美容室の開設経営、家計簿の完全記帳など、婦人部ならではの事業を積極的に展開し、網走支庁長から新生活実践優良団体として表彰された。
 その後、健康づくりや環境美化、新生活改善の運動推進、料理興趣会、研修視察などを重ねているほか、Aコープ多用共同購入運動、台風災害被災農家救済募金、国鉄第2次廃止路線存続署名運動にも取り組んだ。20周年記念大会(昭50)、30周年記念式典(昭60)も開催し、節目を祝った。
 また、婦人部では、若い婦人同士の交流にも力を入れ、1985年(昭60)の総会で若妻部会を発足、各支部単位での部会活動に入った。
 初代若妻部会長の植田喜代子は、1989年(平1)年度の毎日農業記録賞(毎日新聞社などの主催)で優秀賞を受賞。応募作品は「”夢建設”に取り組んだ13年 自分らしい生き方を農業に求めて」。
 婦人部の歴代部長は、中沢初子、長谷川英子、松田ふじ、高橋千代子、伊藤信子、長谷川英子、大口敏子、植田喜代子。

 ● 芭露婦人会
 戦時中は戦争への奉仕を目的に愛国婦人会と国防婦人会が活動していたが、主戦により自然消滅した。その後、行政指導もあり、芭露小学校校長夫人・松田こふじの呼びかけにより、婦人会の結成運動が進展し、1952年(昭27)8月芭露婦人会が結成された。
 活動は、特に幼児教育に着目、季節保育所を設置し、運営にあたり、校舎の解体材と地域の寄付により、独立した園舎を建設。その後、増築した上で、通年制に移行し、町営移管を実現させた。
 また、芭露小学校への鼓笛隊員服と歴代校長の写真額の寄贈、冠婚葬祭の簡素化のため、農協とタイアップした美容部、理容部の開設、花嫁衣装の貸しだしなど積極的に活動した。
 しかし、芭露の2部落制の影響や芭露農協婦人部の発足などを背景に1969年(昭44)指導者不足で自然消滅した。
 歴代会長は、松田こふじ、中沢初子、島田キクエ、中沢初子、根布谷チエ、内山テツ、岩代桂子、松原綾子。
● 社会教育施設等  ● 芭露公民館(湧別公民館芭露分館)
 1949年(昭24)社会教育の振興を目的とした社会教育法の制定、1951年(昭26)社会教育委員条例の施行などを踏まえ、湧別村の社会教育は社会教育目標を掲げて、全村的な住民運動として取り組みことになった。
 文部省の公民館の設置要綱、社会教育法により、社会教育活動の場としての公民館の位置づけが明確となり、公民館の設置がクローズアップ。1952年(昭27)下湧別村公民館が住民の寄付もあって設置された。
 芭露でも、町議会での芭露公民館千節の議決に伴い、1967年(昭42)芭露公民館建設協力会(岩代学会長)が発足し、住民から寄付を募った。寄附金(約193万円)により建設用地を購入したほか、施設資金として町に寄付した。残金は同公民館のチャイム「愛の鐘」や花壇整備、芭露保育所の増築などに助成した。
 待望の芭露公民館は同年11月設置された。施設は木造平屋建て589・27uで、事務室、講堂、図書室、和室、調理室、管理人室を完備。総工費は13,136,000円。
 1968年(昭43)1969年(昭44)両年の利用は、社会教育団体、産業団体、町役場、公民館、町教委、「その他」で会わせて416件。結婚祝賀会にも利用され、両年で19件の利用があった。
 1978年(昭57)10月、社会教育施設の機能を持つ湧別町畜産綜合研修センターの設置に伴い芭露公民館は閉鎖。施設は現在、芭露児童館として活用されている。

 ● 西坂文庫
 1969年(昭44)元・三井物産芭露社有林管理人の西坂仁四郎が離町の際、町に寄付した百万円により、町は翌年湧別公民館付属図書室芭露分室(芭露公民館内)に西坂文庫を設置した。西坂はこの善意により、1970年(昭45)紺綬褒章を受章した。同芭露分室の蔵書はわずか128冊だったが、同文庫(1,221冊)により充実した。
 同文庫は、湧別町畜産綜合研修センターの開設・芭露公民館の閉鎖に伴い、同センター内に移設。1994年(平6)年度の利用は13人、21冊。最近では蔵書が古くなったことから利用は少ない。町教育委員会は、これに対応して、1992年(平4)から芭露地区にも移動図書館車を巡回している。

 ● 芭露劇場
 1946(昭21)芭露市街に電気が導入されたのに伴い、地元の興行師・太田森治は、芭露駅前の芝居小屋をいち早く増改築し、劇場の認可を取り、芭露劇場としてオープン。地域の娯楽の殿堂として親しまれた。その後、1951年(昭26)経営者は大沢義時に変わった。
 週1回程度の営業で、主に邦画を上映したほか、芭露神社まつりの近くなど年数回は芝居を興行。芝居や人気映画は立ち見も出たほど住民でにぎわった。
 しかし、昭和30年代後半テレビの普及が高まり、過疎化現象もあり、来館者は減少し、同劇場は『湧別町百年史』によると、1971年(昭46)閉鎖。同時に木造の建物が取り壊された。

 ● 湧別町畜産綜合研修センターと湧別町役場芭露出張所
 湧別町畜産綜合研修センターは1978年(昭53)12月芭露市街に第2次農業構造改善事業により建設された。鉄筋コンクリート2階建て、1,039u。施設は大研修室、和室、中会議室、事務室など。
 農業文化のセンター的機能のほか、社会教育類似施設、地域集会施設として、設けられたもので、自治会の会議、とうか会、趣味の団体の例会、展示会などに利用されている。年間利用者数は3,000人(平6年度)。開館当初は結婚披露宴会場としても使われた。
 同センターには、開館と同時に湧別町役場芭露出張所が置かれ、嘱託職員1人が配置され、納税、印鑑証明、国民健康保険、国民年金、自治会のとりまとめなど事務が行われている。
 同出張所は、1947年(昭22)に開設されたが、場所は北海道農産物検査所芭露駐在所、所長宅、芭露公民館内と変遷し、同研修センターに落ち着いた。
 歴代所長は、渡辺寛治(書記 平川一郎)、宍戸源治、菅野道子、井田光一、久保敏博、根布谷秀男、尾形堅二、後藤千枝子、竹中英雄。

 ● オホーツク山村体験の里
 元、衆議院議員の島田琢郎が代表となり、1990年(平2)島田の自宅周辺の農地と山林の約6haを敷地にしたオホーツク山村体験の里を開設した。
 雄大な自然の中で、遊び、学び、自然の大切さを養ってもらいたい、との島田の考えに共鳴した人たちによるオホーツク山村体験研究会が発足し、体験の里作りを進めた。
 同研究会は学校部、陶芸部、木炭部、船舶部があり、通年活動している。会員は遠くは沖縄、九州、四国、関東、関西、道内各地、網走管内、地元芭露などから約220人。
 施設は、牛舎を改造した寝室、教室、食堂の棟、4つの風呂、炭窪2基、藁葺き小屋、水車、薫製室、ログハウス、陶芸窯、船舶、森の広場などで、これら施設や備品は、会員らの労力と、リサイクル品や地場のカラマツ材で備えた。
 学校部が担当する山村体験学校は、子ども達の夏休み期間中にこれら施設を活用し、炭焼きや薫製、昔の生活などを体験している。これまで6年間で300人が”巣立った”。
 体験の里で使って、と持ち込まれるリサイクル品の数々。会員らのボランティアと地域の協力。「やってみて人の好意、善意を体のしんまで感じ、感激の連続です」と島田代表。地元芭露の自然環境、全国各地の人脈を便りに”山村劇場”など新たな活動の準備も進めている。
 町教育委員会の公民館事業である初心者陶芸教室の会場にもなっている。

 ● 湧別町図書館金子きみコーナー
 湧別町図書館が1996年(平8)2月湧別町栄町にオープンした。鉄筋コンクリート平屋建て、面積は1,352u。蔵書は3万冊だが、1997年(平9)度には5万冊まで増やす計画。ビデオやLDを観賞できるAVコーナー、絵本の読み聞かせコーナー、視聴覚室、児童室などを完備している。
 入口には、芭露出身の作家・金子きみの「藪踏みならし」などの著作や書き下ろし原稿などを収めた「金子きみコーナー」を設置。文献所蔵庫にも、金子きみの作品を収録した雑誌などを揃えている。

 ● 湧別町文化センター「さざなみ」
 文化や芸術、生涯学習の拠点施設として、湧別町文化センター「さざなみ」が1996年(平8)2月湧別町栄町にオープンした。
 鉄筋コンクリート一部3階建て、4,336uの広さ。音楽を重視したホール(422席)と多目的ホール(350人収容)はじめ、リハーサル室、談話室、実習室、会議室、和室研修室、団体研修室、ギャラリーなどを完備している。

 ● 湧別町指定の名木
 1974年(昭49)10月湧別町名木・記念牧保存要綱により、町内7ヵ所の樹木、樹木群が指定された。この中には芭露神社境内のオンコ(イチイ)と芭露小学校校庭のニレ(アカダモ)がある。
 住民に親しまれているこれら樹木を名木、記念木として保護、厚生に保存しようと、同要綱が設けられ、選定委員会が26候補の中から選んだ。
 芭露神社のオンコは、1958年(昭33)越智修が母・数代が生前愛育した老松を「数代の松」と命名して寄進したもの。樹齢は800年以上にもなり、芭露の開拓をみつめてきた。
 芭露小学校のニレは、樹齢400年以上、芭露の開拓を象徴するものとして保存されている。1990年(平2)上部空洞部分を切り落としたり、保護柵を取り付けるなど補強した。

 ● 文学  郷土出身の作家  金子きみ
 金子きみは1915年(大4)2月湧別町芭露8号線生まれの作家、歌人。上芭露小学校卒業後は家業の農業に従事しながら、自由律による新短歌を作り、17歳の時刊行した歌集『草』が農村生活を鮮烈に歌ったとして、石川三四郎、辻潤らに認められた。
 20歳の時、『馬喰一代』の作者・中山正男に嫁いでいた姉を頼って上京、1940年(昭15)結婚、2児の母となった。戦後、長編小説『裏山』が懸賞小説に当選。1年間『婦人生活』に連載、テレビ映画化もされた。
 主な作品は『ブラジルの霜』『塩とり小屋』『コーヒーの花』『住民投票』『枯草』など。主な著書は、芭露を背景にした長編小説『藪踏みならし』、網走市議会議員・中川イセをモデルにした『雪と風と青い天』『砂丘』など。網走管内の文芸誌『文芸北見』第8号(昭52)には芭露を舞台にした『垂れ込めた空の下』が収録されている。
 1989年(平1)5月湧別町畜産綜合研修センターで開かれた町教育委員会主催の「ふるさと講演会」の講師として来町、「今ふるさとの土を踏みて」をテーマに講演した。講演会終了後、関係者に「愛する郷里の海と湖、広い耕土の息吹の中で、深い感動に浸ることができ、懐かしい顔、地縁のぬくもりがひとしお身にしみた」と帰郷の感想を伝えている。
● 文化活動

















  ページtopへ
 湧別町文化協会に加盟している芭露地区の団体は、現在、芭露とうか会、芭露日舞同好会、サロマ湖カラオケ同好会、日本教育書道芭露支部、芭露地区が発祥で本拠にしている湧別町家園同好会があり、全町的な行事である湧別町綜合文化祭芸能発表会、芭露神社まつり行事などで、日頃の活動成果を発表している。

 ● 芭露とうか会
 1966年(昭41)9月10日、島田梅十、松村千代一、根布谷千恵子、井野時代、今野幸子らによって短歌のつどい「とうか会」が郷土に密着した創作と研究を通じて、相互の親和を図り、地域文化に寄与しようと発足した。
 毎月10日を例会としたのが会の名称の由来。以来、例会を欠かしていない。例会では、会員が作品を持ち寄り、発表している。題材を求めて吟行会も実施、遠軽や紋別などの短歌仲間との交流も深めている。
 また、毎年会員の短歌を収録した歌集『とうか』を発行している。途中からは随筆も収録。節目の記念号は会員の思い入れも強く、1996年(平8)には発足30周年の記念号も発行する。
 現在、会員は16人で、ほとんどが原始林同人。会長は初代島田梅十、1975年(昭50)4月からは松村千代一、松村会長は「退会者はおらず、長続きしているのは例会の出席を無理強いしないこと」と話している。
 島田は『サロマ湖のほとりにて』、松村は『地吹雪』、川田美江は『足跡』を出版している。

 ● 島田梅十(号・梅洞)
 芭露とうか会を結成して、作歌活動に励み、歌集を自費出版するなど、リーダーとして活躍し、湧別町の文化に大きな足跡をしるした。
 1911(明44)渡道、30余年、教職を努めたあと、芭露で酪農を営み、1918年(大7)から作歌活動に入り、1964年(昭39)ぬはり社同人。1965年(昭50)死去した。
 1970年(昭45)梅洞先生建碑委員会が芭露の御園山の頂上に自然石の歌碑を建てた。石碑には島田の略歴と健碑理由(地域社会に貢献し薫陶遍し、師の徳を敬慕し碑を建て永く顕彰す)、島田の短歌「サロマ湖を一望にして佇む丘に、遠くオホーツクの海鳴りきこゆ」が刻まれている。

 ●芭露日舞同好会
 1969年(昭44)6月岩代学、今野幸子らの呼びかけで、日本舞踊に関心を持つ有志数人が西川流の山田右子を招いて、芭露公民館で週1回指導を受けたのがきっかけとなり、約30人で発足した。初代会長は今野幸子。
 1971年(昭46)山田が転出後、若柳流の若柳米吉美(中湧別)を指導者に招いた。1977年(昭52)からは西川流の西川鶴藤(紋別市)の指導を受けている。
 現会長は2代目の岩代桂子。会員は小学生から60代まで13人。毎週木曜日、芭露診療所2階で、けい古をしている。その成果は町総合文化祭、芭露神社まつり、敬老会などのほか、老人ホーム、西川流の花菱会主催の発表会でも披露。芭露の開基100年記念祝賀会でも余興として登場し、会場を盛り上げた。

 ●湧別町家園同好会
 1975年(昭50)2月、芭露地区のえんげい愛好家ら35人で発足した。会員は、芭露のほか、上芭露、志撫子、計呂地、東地区へと広がりをみせ、現在80人。芭露、計呂地に各3支部、上芭露、志撫子、東に支部を設けるほどになった。
 同好会では、造園や盆栽、環境美化を学び、愛好者同士の交流を図ることを目的に、研修視察、交流会、カレンダー製作のほか、町の文化祭、芭露神社まつりなどに盆栽や銘石を出品・展示している。
 また、町内の銘木や地域の公共施設の庭木の手入れをボランティアで始め,芭露小学校、湖陵中学校の校庭の樹木も剪定した。歴代会長は、多田藤雄(昭50)、洞口正喜(昭59)。

 ●日本教育書道芭露支部
 日本教育書道芭露支部は1989年(平1)に発足。中湧別の横幕正美が教えていた。その後、1992年(平4)から地元の小畑チエ子が支部長となり、書道教室を運営している。現在は、芭露児童館で、小中学生と一般30人余りを指導している。
作品は本部に送り、審査されているが、段位者も輩出している。作品は町総合文化祭、芭露神社まつりなどで披露している。

 ●サロマ湖カラオケ愛好会
 1980年(昭55)カラオケ愛好者が集い、自慢の歌声を磨き、交流しようと発足した。以来、毎月の例会のほか、年1回エビ&ビア・チャリティーパーティーを実施し、人気を集めている。会員は、60人ほどいた時期もあったが、現在は約30人顔ぶれは40代から60代。歴代会長は、井上光男、佐藤定夫、可知幸夫、長岡健一。

 ●芭露囲碁倶楽部
 終戦後、佐々木義光、久保敏博、土田九八、山川保男らの呼びかけで、毎年新年囲碁会を開くようになり、単なる囲碁クラブとして、座長に土田九八を据え、20人ほどの集まりになった。
 その後、転出による会員減もあったが、長田正雄や尾山昌巳らが存続に努力、1952年(昭27)毎月第2土曜日を例会日とし、月当番により、会員宅を巡回して例会を開いた。1961年(昭36)規約を制定し、芭露囲碁クラブ(越智修会長)とした。
 このころから、岩代学の計らいで、日本棋院所属の大野5段(現在6段)を招いて、春と秋に指導を受けている。こうした活動により、結成以来、入段者を多数輩出している。

 ● 華 道
 芭露にかって華道団体があり、活動していた。未生流・柴山社中は師範柴山鈴子が主宰し、1947年(昭22)開設し、1963年(昭33)閉止。池の坊・田上社中は師範田上多恵子が主宰し、1961年(昭36)開設、1966(昭41)閉止した。

 ● 芭露カメラクラブ
 1969年(昭44)10月岩代学、北山正義らが中心となって、地域の愛好者に呼びかけて発足した。会員相互の研修、作品の芭露駅への展示、町総合文化祭への出品、撮影会などを行っていたが、1978年(昭53)閉止した。

 ● 芭露吟声会
 1967年(昭42)10月、島田梅十の提案で詩吟会を開いたのがきっかけで、翌年1月28人で発足した。日本国風流、雨宮国風支部、遠軽地区国暁会に加入した。
春と秋の大会、他吟声会との交流、寿の家の慰問、会員研修など、活動していた。
 歴代会長は、小湊薫、川田美江。

 ● 芭露カラオケ同好会
 1982年(昭57)4月愛好者10人で、大口秀夫を会長に発足。毎月、例会を行っていた。

 ● 本間沢窯
 1995年(平7)3月、東京出身の陶芸家・鈴木義隆が一家を挙げて斜里町から本間沢に転居、本間沢を開窯した。
 鈴木は、陶芸の道に入り30年。友人に勧められ、窯元を巡り、萩(萩焼)で修業したあと、来道して斜里窯を友人と2人で共同経営。その後、独立するため、移転地を探していた。各地を回り、候補地を3ヵ所に絞った末、自然環境や離農後の施設状況などを踏まえ、本間沢を選んだ。
 離農し空き家となっている住宅と牛舎を借り、牛舎を仕事場と倉庫に改造したほか、のぼり窯を造り、陶器づくりに専念している。目下、土は本州と道内産(中湧別、名寄)をブレンドしたものが主流だが、道内だけ、さらに芭露産を使うため、試作・研究中、釉薬は地元のワラや木の灰を使っている。これらにより仕上げられた陶器は、萩焼の流れをくみ、素朴な味わいになっている。
 窯は1回にざっと5,000点を焼き上げられる規模で、窯入れは年に2回計画、初窯は同年9月に行い、作品は札幌や旭川など道内に出回っているほか、湧別町の産業まつり、地元の芭露神社まつりにも出品した。作品は、湯飲み、茶碗、コーヒーカップ、皿類など、日常食器がほとんど。今後は「じっくり一品一品を見直して、より使いやすい日常食器を追求したい」と話している。

 ● 湧別町文化協会表彰
 湧別町文化協会表彰の芭露関係分は、1972年(昭47)島田梅十(短歌)が文化功労賞、1976年(昭51)芭露とうか会、1985年(昭60)松村千代一(短歌)、1989年(平1)木村幸雄(盆栽)が文化奨励賞をそれぞれ受賞している。

●スポーツ大会の産声  ● 他校選手招待リレー
 1921年(大10)志撫子小学校が運動会に他校選手を招待してリレー競走を始めた。参加したのは芭露、上芭露、東芭露、計呂地、床丹の各校と地元志撫子の6校。このリレーは以前に既に実施されていたが、明確な記録がない。この他校招待リレーは国民学校時代を経て、1955年(昭30)ころまで行われていた。

 ● マラソン大会
 1920年(大9)芭露小学校の校長弦巻千代三の呼びかけで、マラソン大会が企画され、翌年8月芭露ー温根湯間を1泊2日の日程で、青年12人が参加して行われた。芭露郵便局をスタートし、大江本家がゴール。途中婦人や青年団体がお茶や牛乳、タマゴ、キャラメルをふるまったという。

 ● 体育デー
 国民体育の振興を目的として、1924年(大13)から10月3日を「体育デー」とすることが決まり、毎年この日は学校や青年団を中心に体操会や小運動会が開催され、戦争突入まで続いた。現在の「体育の日」の前身。

● スポーツ団体  ●湧別町剣道連盟芭露支部     剣士育成は芭露が先べんをつけた
 1953年(昭28)ころ、大口秀夫、浅幸夫、島田琢郎、茂木昌が中心となり、芭露地域の青少年に剣道を教えていた。これが湧別町に於ける剣士育成の始まりである。その後、湧別でも指導が始まり、1957年(昭32)油別町剣道協会が発足。遠軽地方剣道連盟に加盟した。
 各地区で青少年の剣道熱が高まる中、同協会芭露支部少年部が1958年(昭33)、1959年(昭34)の両年、全道青少年剣道大会で準優勝を果たした。昭和40年代、少年剣士は網走管内の剣道大会で上位入賞。この時期の児童が湖陵中学校に進み、有段者となり、全道大会にも出場するなど活躍した。
 剣道人口の増加、湧別町ファミリースポーツセンター、湧別町総合体育館の完成、指導者層の充実もあって、1977年(昭52)湧別町剣道協会は湧別町剣道連盟に改組、北海道剣道連盟に加入した。
 現在同連盟は、スポーツ少年団活動を兼ねた地域での例会、昇級審査会、町民剣道大会、会長杯大会、ライオンズクラブ杯両湧別スポーツ少年団交流大会などを開催している。

 ● 湧別町スケート協会    芭露で誕生した
 1966年(昭41)岩代学が芭露青年団に呼びかけ、湖陵中学校校庭に冬期スポーツの振興と青少年の健全育成のため、氷上の遊び場を造った。これが契機となり、翌年12月スケート協会を会員約80人で発足した。会長は岩代学。
 同年湖陵中学校と芭露小学校の教職員、芭露青年団員が湖陵中学校に1周200mのリンクを造成。以後、毎シーズン、スケート教室や記録会、1971年(昭46)からは氷上運動会を開催。同スケート場は1978年(昭53)町営スケート場となった。

 ● 湧別町ソフトボール協会  当初は芭露が主体
 1969年(昭44)4月越智修、田中巌、山城敬男、岩松宣夫らの提唱で発足した。農漁村の大衆スポーツとしてレクリエーションの中にソフトボールを位置づけようという目的だった。当初は芭露を主体にした歩みだったが、簡単で大衆的なことから、愛好者を増やし、町体協の加盟団体としては最大の会員数を数えるまでに成長した。

 ● 芭露綱引同好会
 欧米の綱引公認ルールが採用され、全国的に綱引きが急速に普及する中、1985年(昭60)7月、芭露農協青年部を母体に芭露綱引同好会が野原大三を会長に会員26人で発足した。
 芭露エイトマン、芭露ファイターの2チームを編成し、積極的に町内、管内外の大会に参加し、綱引きの技術に磨きをかけた。
 その後、1989年(平1)長年監督を務めた尾関良一が不慮の事故、翌年選手の佐川弘幸が病気で死去、相次ぐ仲間の死去に会員は深く悲しみ、悔しさをバネに、チームを芭露エイトマンに一本化。新しい監督嶋田悟のもと練習を重ねた。
 その結果、北見地区農協共済綱引大会では1990年(平2)から4年連続優勝、1992(平4)の全道共済連綱引大会で殊勲賞に輝いた。
 1989年(平1)北海道で開催された第44回国民体育大会夏季大会(はまなす国体)地区予選で優勝し、同夏季大会に出場した。
 しかし、全国的な綱引き人気は、1993年(平5)ころから下降線をたどり、全道規模の大会は、NHKオホーツク全道綱引大会、北海道綱引連盟主催北海道綱引選手権大会など年数回となり、これらを背景に綱引き人口も減少した。
 最近では、1993年(平5)の全道綱引選手権大会ではベスト4に進出、1994年(平6)のNHKオホーツク綱引大会では準優勝を果たした。

 ● 芭露みそのレディースバレーボールクラブ
 1978年(昭53)東海林勝を指導者に会員13人で発足した。1980年(昭55)には第11回全国家庭婦人バレーボール紋別地区予選で準優勝し、来た北海道大会に進出した。
 最近では町民バレーボール大会が目標の一つ、例会では、会員のほか、一般男子や高校生も交えて、バレーボールを楽しんでいる。

 ● 芭露ミニバレーボール愛好会
 1993年(平5)ミニバレーを通じて健康づくりと親睦を図ろうと、湖陵中学校の教諭らの呼びかけで発足した。以来、湧別町ファミリースポーツセンターで活動している。会員は芭露のほか、湧別市街、町外からも。約40人が登録している。

 ● 芭露ゲートボール同好会
 1985年(昭60)に発足し、夏は老人寿の家横のゲートボール場、冬は湧別町ファミリースポーツセンターを例会場所に、1年を通じてゲートボールを楽しんでいる。70,80代の高齢者が多いため、大会を目指すというよりも、健康づくりの一環として、和気あいあいとゲームを楽しんでいる。会長は小畑安夫。

 ● その他の団体
 これらのほか、パークゴルフ愛好会が1996年(平8)に同好会を発足させる計画で、発起人が準備を進めている。
● スポーツ少年団  湧別町で公式団体としてのスポーツ少年団は信部内0年代に誕生した。これ以前もスポーツを通じた少年の健全育成には熱心で、昭和20,30年代に町教委と町連合PTA主催の少年野球大会が開かれたり、芭露、湧別、上芭露の各地区で少年剣士育成の活動が始められていた。
 現在湧別町内には、剣道、野球、綱引き、スポーツ全般の4種6団体が活動中。そのうち芭露には、剣道、野球、綱引きの3少年団があり、少年団活動が活発な地域となっている。

 ● 芭露剣道スポーツ少年団
 1953年(昭28)大口秀和が大口牧場牛舎2階で少年を指導したのが剣士育成の始まり。組織化は1965年(昭40)5月、芭露剣道スポーツ少年団として発足した。指導者は大口、団員は小中学生20人。1976年(昭51)全北海道青少年剣道兼赤同少年大会に初出場。1979年(昭54)赤道受賞、1981年(昭56)第23回赤道大会で山口誠が3位に入賞した。
 現在、団員は10人、両湧別スポーツ少年団交流大会や全道少年錬成大会兼赤胴大会などに参加している。

 ● 芭露野球スポーツ少年団

 1975年(昭50)4月、工藤勉を指導者に11人で発足。軟式野球連盟遠軽支部所管の少年野球大会を目指した。冬場はスケートと室内サッカーで体力アップ。同少年団出身の中には湖陵中、高校でも野球を続け、全道大会に出場した選手も。
 1989年(平1)からは大甕国光が監督となり、5月から9月まで活動。少年野球大会の上位進出を目指して頑張っている。団員は薬25人。父母の会の援助のもと、野球を通じた少年の健全育成が計られている。

 ● 芭露綱引スポーツ少年団
 1992年(平4)芭露剣道スポーツ少年団の団員を中心に15人で発足した。冬期間の体力づくりとして綱引きを取り入れた。北見市のNHK杯大会では、1992年(平4)高学年の部、翌年低学年の部で、それぞれ3位に入賞。同年には旭川のトヨタカップ杯大会にも出場し、決勝トーナメントに進出。1995年(平7)のNHK杯大会ではジュニアの部(小5,6年生)で準優勝した。監督は可知幸夫。
● 体育施設  ● 湧別町ファミリースポーツセンター
 1978年(昭53)12月に完成した。規模は1,246,94u。アリーナはバレーボールコート2面、バスケットボールコート1面、バトミントンコート4面をとれる広さ。ほかに、更衣室、プレイルーム、トレーニング室を完備している。
 同センターでは、剣道連盟芭露支部、にこにこクラブ、湖陵中学校卓球部、主婦、一般ら、老若男女の芭露住民が利用し、ミニバレー、剣道、バスケット、ゲートボール、卓球などに汗を流している。年間利用者は10,998人(平6年度)

 ● 町営芭露プール
 1971年(昭46)7月湖陵中学校敷地内に学校プールとして完成した。51,7uの規模で25m×15m(6コース)だった。その後、町営となった。1989年(平1)芭露小学校に隣接して移転新築した。ステンレスプール、上屋ビニールシート、403u、10m×25m。シーズン中の利用者は2,577人(平6年度)。

 ● 町営テニスコート
 町営テニスコートは、1983年(昭58)8月に完成した。全天候型で、1,560uの広さ。年間利用者は254人(平6年度)。

 ● 多目的広場
 1991年(平3)からパークゴルフ場として、町営スケートリンクの外周一帯が造成された。1994年(平6)、1995年(平7)から愛好者に利用されている。
●湧別町体育協会表彰  湧別町体育協会表彰の芭露関係分の受賞者は、1975年(昭50)年度大口秀和(剣道)が功労賞、1976(昭51)年度に島田朋子(陸上)優秀賞、1978(昭53)年度及川央(前・体協事務局長)功労賞、1980(昭55)年度長田洋之(剣道)優秀賞、田宮秀幸(同)功労賞、1985(昭60)年度には泉瞭(同)が優秀賞を受賞している。
● 芭露神社  1905年(明38)土田春吉、武藤留助、青柳宇八、金田一春蔵、上井沢千代吉らが発起人となり、天照皇太神を祭神とする芭露神社の創建がまとまり、3月芭露西1線38番地に小祠が造営された。土田春吉が敷地3反、高橋忠吉が神社道路敷地を寄贈、その他は一般住民の寄付でまかなった。
 1915年(大4)奥地への入植者が増え、神社の位置が偏在しているとして、南達庄助が7号線の3反5畝を神社用地として寄贈、社殿を一般の寄付により造営し、10月1日に遷宮祭を実施した。
 しかし、市街の発展により、新しい神社造営の話が進み、1925年(大14)9月芭露小学校敷地内に小祠を建て、もう1つの芭露神社が誕生した。1地区に2つの神社となり、地区統一上障害になることから、地区発祥の地とされる6号線に2町歩の敷地を購入し合祀した。
 さらに芭露市街、農業地域の人口増の伴い、行政上分割されることになり、また神社移転の話が持ち上がり、芭露第1、芭露第2の両自治会が協調して、1953年(昭28)10月1日現在地に移し、遷宮祭を行った。
 その後、1955年(昭30)神殿の改築と拝殿の新築のため、建設委員会が発足。拝殿は1957年(昭32)10月1日、神殿は1958年(昭33)10月1日完成した。篤志、一般の寄付、王子製紙からの風倒木の払い下げ、旧神社敷地の売却、自治会の共同作業として、2年がかりで取り組んだ。
 芭露の開基100年記念事業として、芭露神社の全面的改修が行われた。1994年(平6)年度は本殿を改修、1995年(平7)年度は屋根、鳥居、電気、暗きょ、しめ縄、参道などを整備、更新した。
● 仏 教  ● 浄土真宗大谷派  聖明寺
 1916年(大5)渡辺智現が神芭露15合の現在地に小堂をを建て説教所として開設した。陶磁芭露方面に寺はなく、地区有志の要望に応えて入地した。1946年(昭21)寺号聖明寺を公称認可、開基住職は渡辺精護。その後、1962年(昭37)本堂、1971年(昭46)納骨堂、1979年(昭54)庫裡を改築落成した。
 1951年(昭26)志露峠にあった棒聖徳皇太子碑(昭13年建立)を境内に移設した。以来、神芭露聖徳太子講が主催して、奉讃夏祭りを開催。文化展や映画会などを行い、住民の親睦にも貢献した。

 ● 曹洞宗 報国寺
 1922年(大11)北海道の開教行脚中だった伊豆函南村明応寺住職、三浦単道が紋別報恩寺住職の大桃哲竜から紹介され、1925年(大14)上芭露の観音堂を説教所として芭露禅院を開設した。
 1928年(昭3)本堂建立、1942年(昭17)寺号公称認可、納骨堂、鐘楼、庫裡を新・増築した。1982年(昭57)庫裡を新築したほか、駐車場など境内を整備した。境内には忠霊塔、機雷殉難諸霊之塔、馬頭観世音などが建立されている。現住職は2代目の三浦修真。

 ● 浄土宗説教所
 芭露8号線に浄土宗知恩院派の和田某が居住し、1914年(大3)、1915年(大4)に布教したのち、1916年(大5)中島了源が来地、説教所を開設した。しかしわずか1年で去り、1935年(昭10)まで渡辺了英が布教したのち千葉に帰郷。
 その後、中村某、内田某が再興を図った後、1940年(昭15)中村昌介が上芭露で布教し、1943年(昭18)芭露に本堂を移転したが、中村一家の病気や度重なる不幸のため、1962年(昭37)廃寺を余儀なくされた。
● その他の宗教  ● 天理教芭露分教会
 1912年(大1)芭露の天理教信者が布教所を6号線の高台に設けたのが布教の始まり、翌年樺太留加多で布教していた前川鎌太郎が来住、開基となる。1924年(大12)芭露宣教所として認可された。1941年(昭16)分教会に昇格、1969年(昭44)芭露395番地に新築移転。1979年(昭54)住宅を増築した。2代目は前川勇、現在は3代目前川勲。

 ● 天理教芭露水栄分教会
 樺太白浦の水栄分教会長の井上タミが戦後引き揚げ、1948年(昭23)芭露に入り創始した。1961年(昭36)神殿の一部を増築した。1977年(昭52)神殿、教務宿舎を新築。分教会長は2代目稲井澄子。

 ● 黒住教芭露教会所
 1942年(昭17)ころ布教師の大上富子が滝ノ上から芭露に来て布教していたが、信徒の増加により、1952年(昭27)教会所を開所した。その後神殿、拝殿を新増築したほか、中教会に昇格した。1972年(昭47)三島木義明が所長を継承した。
ページtopへ